八ヶ岳南麓山鳥亭の日常を綴ります。
 
2017/03/21 8:58:13|その他
大川小訴訟の判決文を読んで
 東日本大震災の津波で、学校管理下の児童74人が犠牲になった石巻市立大川小学校の遺族訴訟が、仙台地方裁判所であり、判決が昨年10月に出た。判決文を読みたいと思っていたところ、最近webで取得できた。(写真:大川小学校周辺図)
 
判決文は、「主文」、「事実及び理由」からなり、後者は「請求」「事案の概要等」「当事者の主張」「当裁判所の判断」からなる。当事者の主張には、原告(遺族)と被告(石巻市と宮城県)のそれぞれの主張が記されている。
 
判決文はA4で77頁もあるので、このブログで余さず紹介することは不可能だが、判決に至る理由の幹の部分を書きだそう。まず、裁判所が認めた本件地震当日までと当日の事実は以下の通り。
 
〇地震当日までの事情
 三陸地方の知られている主な被害津波は、 貞観地震津波(西暦869年)、慶長16年三陸地震津波(西暦1611年)、明治29年三陸地震津波(西暦1896年)、昭和8年三陸沖地震津波(西暦1933年)、昭和35年チリ地震津波(西暦1960年)である。貞観地震津波と慶長16年地震津波による北上川河口周辺(大川小学校がある地区)における被害状況は分かっていない。残る3つの地震津波では、死者、流失家屋ともに他の三陸沿岸地区に比べて軽微だった。
 国の地震調査研究推進本部が平成16年にまとめた報告書では、大川小学校のある河北町(当時の町制による)の予想最高水位は5.1mと、三陸沿岸の他の地区に比して低くかった。この報告書を基に「石巻市地域防災計画(平成20年)」が作成され、その「避難対象地区の指定」で、大川小学校が所在する釜谷字山根は指定対象外とされ、市作成の津波ハザードマップで大川小学校は、避難場所の1つとして表示された。
 本件地震前々日の3月9日と前日10日に強い地震があり、学区内で落石があり斜面の亀裂が発見された。
 
〇地震当日
午後2時46分、本件地震が発生。揺れが収まった後,校舎内の全児童を校庭に避難させた。校庭周辺に住民が避難してきた。
午後2時52分および3時10分ごろに、防災無線の拡声器から「大津波警報発令中・・・海岸付近や河川の堤防などには絶対近づかないでください」のアナウンスが流れた。
午後3時14分、気象庁は宮城県に到達すると予想される津波の高さを6mから10m以上に変更した。
午後3時23分頃,河北総合支所の職員が広報車で立ち寄り,教員に,体育館での避難者の受入れが可能かどうかを確認した。
午後3時30分ごろまでに、児童27名を保護者に引き渡した。
午後3時30分ごろ、広報車が津波到来と高台への避難を大川小学校のある釜谷地区で呼び掛けた。
午後3時30分〜35分 児童と教員が三角地帯に移動。
午後3時37分頃に津波が大川小学校に到達。
 
このような事情に対して裁判所が下した判断の骨子は、
@本件地震前の段階について、大川小学校の危機管理マニュアルは、国の地震調査研究推進本部の報告書に依拠する石巻市の防災計画に沿ったものである。従って、原告らの、同校教員の危機管理マニュアルについての注意義務違反との主張は採用し得ない。
A地震発生時刻から、3時30分ごろの広報車による高台避難の呼びかけまでの段階について、津波の校地への襲来は、抽象的に懸念される危険の1つであったにすぎず、この段階で裏山に避難しなかった教員の判断が不相当であるということはできない。
B午後3時30分頃、広報車の呼びかけ等によって大規模な津波が大川小学校周辺に迫りつつあり、速やかに避難すべきことを認識した大川小学校の教員は、本件地震後、校庭で避難中であった児童らを裏山に避難させるべき注意義務を負っていた。
 
要するに、裁判所が被告に賠償金の支払いを命じた理由は、3時30分から数分間の教員の判断と行動にある。裏山ではなく三角地帯と言われる微高地を選択したのが判断の誤りだと言う。裁判所は、次のようにも述べている。「余震が続く中,70名余りの児童を率い,隊列を組んで斜面を登っていくことは必ずしも容易でないことは確かであり,・・・それは,平常時における話であって,現実に津波の到来が迫っており,逃げ切れるか否かで生死を分ける状況下にあっては,列を乱して各自それぞれに山を駆け上ることを含め,高所への避難を最優先すべきであり,いたずらに全体の規律ある避難に拘泥すべき状況にはなかったというべきである。」しかし、前々日、前日の地震で山腹が不安定になっている状況で、この判断はだれにとっても難しいだろう。
 
裁判所は次のようにも言う。「(学校に避難してきた)地域住民の中に高齢者がいることは,児童らについての結果回避可能性(逃げ得る可能性)を左右しないものというべきである。」と記している。つまり、この期に及べば、避難所である学校に集まってきた高齢者は、見捨ててもよいという判断である。しかし、午後3時23分頃、河北総合支所の職員が体育館での避難者の受入れが可能かどうかの確認に来たことからも分かるように、学校は避難所としての責務を負っているのである。実際、大震災前年の「平成22年のチリ地震津波で大津波警報が発令された際には、大川小学校の体育館に避難所が開設され、地域住民の避難を受け入れており、平成16年実施の宮城県沖地震を想定した総合防災訓練でも,大川小学校が避難場所とされた」(「被告らの主張」より)。裁判所はこれらの事実をどう評価しているのだろうか。
 
震災後に、「想定にとらわれるな」とか「マニュアル通りにいかなくなったら」とか言われる。しかし、日常で訓練している以上のことは、いざ災害の本番となったときには、ほぼ実行できない考えるほうがよい。だから、事前に、二重、三重の安全策を講じておくのである。岩手県釜石市の鵜住居小学校では、一次避難から二次、三次と避難し、最終的に学校から約2kmの道のりを避難した。このような避難も、日頃の訓練があったからこそ可能になったのである。裁判所は、教員に、土壇場の状況でマニュアル以上の判断を間違いなくすることを要求していると言える。
 
1991年雲仙普賢岳の噴火の際、6月3日16時8分に大火砕流が起こり、島原市長は17時ごろ自衛隊に出動要請をしたが、自衛隊が出動するには知事の要請が必要だったため、出動準備をして待機せざるを得ず、知事と連絡がとれて出動となったのは18時20分だった。マニュアル以上の行動をとるなら、自衛隊は17時ごろに先遣隊を派遣できたはずである。しかし、そうはしなかったし、それでよかったのである。大事なのは、その後、阪神・淡路大震災を経て、自衛隊は知事からの要請がなくても、一定条件がそろえば災害派遣の出動ができるようになったことである。次の災害に備えるためにやるべきは、マニュアル以上の行動を奨励するのではなく、経験をマニュアル化することである。
 
だから、裁かれるべきものがあるとすれば、発災直後の行動や判断ではなく、震災当日までのことだと思う。「地震」➡「校庭避難」➡「保護者引き渡し」が学校における地震災害対応マニュアルの常識になっている。そこに万が一のための二次避難、三次避難の項目が入っていないことを問題にするべきだろう。大川小学校の場合は、近くに格好の避難場所になる裏山があるのに、そこに避難路を整備していなかったことこそ裁かれるべきだと思う。
 
裁判所の判断は、事前の防災策に主因をもっていかないための、いわば予定調和的結論のように見える。指定された避難所で津波に遭って亡くなった人や(釜石市鵜住居区では防災センターに避難して亡くなった人もいる)、学校の指示で体育館に避難していたが危なくなり校舎高層階に逃げようとしたが逃げ遅れたという人もいる。事前の防災策に主因があるとすれば、これらの犠牲者についても、遺族は賠償請求の権利があることになるかもしれない。裁判所にそんな配慮が働いたとしたら、この判決は、今後の防災に災いをもたらしかねない。
 
以下は蛇足だが。筆者自身、判決文を読むまでは、地震が起きてから約50分間も校庭から動かなかったことを訝しく思っていた。しかし、児童の保護者への引き渡し、避難者の対応等で忙殺されていたとすれば、同情を禁じ得ない。校長不在の中で、そういった雑務から一歩退いて全体を見る人がいなかったのではないだろうか。いろいろな学校の震災対応を調べていると、震災当時、校長は学校に不在だったという証言ないしは記述に何件か出会った。筆者の教員経験でも、校長は出張中というイメージがかなりある。学校の安全のためには、少なくとも児童・生徒が校内にいる間は、校長は在校していることを原則とするべきだと思う。
 
 





     コメントする
タイトル*
コメント*
名前*
MailAddress:
URL:
削除キー:
コメントを削除する時に必要になります
※「*」は必須入力です。