八ヶ岳南麓山鳥亭の日常を綴ります。
 
2018/11/28 12:25:00|その他
面従腹背3
前稿に「「面従腹背(前川喜平 著)」の感想続き」と書いたら、友人から自分の意見だけで、全然、本の感想になっていないとメールをもらった。その通りです。「面従腹背(前川喜平 著)」を読んで思い出すこと」としたら、羊頭狗肉の誹りを免れるかな。
 
前稿に「PISAの成績が下がったので、全国学力テストを実施したら、成績が上がってよかったと、もし文科省が思っているとしたら、それは、あまりにも短絡的である。問題はもっと根の深いところにある。」と書いたが、根がどこにあるかは書かなかった。根の存在を象徴的に表しているのは、センター試験の在り方である。それについては「検証 共通1次・センター試験(中井仁・伊藤卓 編著、大学教育出版)」に書いたのでここでは触れない。(「面従・腹背」にはセンター試験のことが書かれていない。センター試験を職掌しているのは高等教育局なので、著者は直接関与していないのだろう。しかし、高校教育だけではなく日本の教育全体に大きな影響を与えた共通1次・センター試験について、著者のお考えを聞きたい。)
 
「国旗・国歌の指導」の問題。
1989年の学習指導要領改訂で国旗・国歌の扱いが変わった。以前の文面は「(国民の祝日などでは)国旗を掲揚し、国家を斉唱させることが望ましい」だったが、これが「国旗を掲揚するとともに、国家を斉唱するよう指導するものとする」と修正された。次いで、1999年、国旗・国歌が法制化された。ちょうどその頃、勤務校で教職員組合の分会役員をしていたので、いろいろ考えさせられた。有志で勉強会も開いた。
 
これに関して思い出すことは二つある。
 
一つは、日の丸掲揚、君が代斉唱に教師として反対する理由である。前川氏はこう書いている。「日の丸・君が代に違和感や抵抗感をもつ人たちの心情や思想は理解できるし、そういう心情や思想を抱くことは内心の自由であり、その内心の自由は国家権力による制約を一切拒否できる性格のものだと考えている。」かつて職場で話し合った時も、反対する教師は「自分は別にいいけど、いやだと言う人がいるから反対」と反対の理由を挙げていた。教職員組合も公式にそういう見解だったと思う。筆者はそのことに違和感を持っていた。というのは、主体性に欠ける意見だと思うからである。教師ではない人から、「学校の先生がなぜそんなに反対しているのか分からない」と言われたことがある。主体的に考えた理由を表明してこなかったことに、その「分からない」原因があるのではないだろうか。
 
筆者は、日の丸を国旗とし、君が代を国歌とすることに違和感はない。まぁ、そういうのも必要でしょうという感じだ。だけど、入学式や卒業式で式場の正面に国旗を掲げ、君が代斉唱をするのは反対である。第二次世界大戦で数千万人の人が、理不尽に死ななければならなかったことから、後世の人間は何らかの教訓を引き出さなければならない。平和を求める決意など、人類共通の教訓もあるが、軍事はもちろん、政治、経済、教育等々にそれぞれ係わる人々は、各分野の視点からも教訓を見出す必要がある。教育に関しては、「学校の教育に国家権力の介入を許さない」というのが最大の教訓だと思う。
 
ところが、ある時、校内の会議の席でこの理由を挙げて、だから反対だと言ったら、校長に「国旗・国歌を指導しても国家権力が介入したとは思わない」と返されて、肩透かしを食らったみたいで、なんとなくそうかもと納得もし、反論できなかった。だけど、その後にあった卒業式か入学式かで、国家斉唱のとき起立しない生徒がいるのを見た来賓の一人が「こら!立たんか!」と怒鳴った。立っていた生徒の一部がなにを思ったか、逆に座るという一幕があった。その時、筆者は、これだなと思った。つまり、国家(この場合は文科省)に一定方針を強権的に押し付ける気がなくても、迎合して声を張り上げる人が必ず現れる。そういう声に学校は極めて弱い。そこから民主主義が腐っていく。そういう意味で、学校は「民主主義の横っ腹」だと考えるようになった。ハイエナに、横っ腹に食らいつかれた動物は死ぬしかない。
 
二つ目は、国旗・国歌が法制化されたときのことである。
 
法制化に尽力したのは当時小渕内閣で官房長官をしていた野中広務氏だと言われている。1999年、広島県の校長が日の丸掲揚をめぐって教職員と教育委員会との板挟みになって自殺した。野中氏は「このような悲惨なことが二度と起きないように法制化を急いだ」という意味を発言、あるいは書いている(魚住昭著の「野中広務 差別と権力」だったかと思うが、確かではない)。野中氏については毅然とした佇まいに引かれるものがあったが、これは勘違いに基づく判断か。対立する意見をもつ二つの集団のうち一方を、法律で押さえつけることによって解決しようとするのは、「差別と権力」について強い思いをもっていたはずの氏がなすべきことではないだろう。だから、いくらか好意的に言って、そこに何らかの氏の勘違いがあったのではないだろうかと思うわけである。そもそも一人の自殺者が出た結果、法律が変わるということがあるだろうか。
 
それはさておき、法制化を受けて、勤務校の職場集会で今後の対応について議論がされた。教員の間でリーダーとして一目置かれていたある教員が「法制化された後も我々が反対し続けたら、保護者から良識を疑われる」と発言した。驚いたのは、その発言が出席者に好意的に受け取られて、会議の流れを決定づけたことである。なんとなくほっとした雰囲気が流れた。おそらく反対し続けることに教員自身疲れを感じていたのではないだろうか。そこに、一見合理的な理由付けをしてもらったので、ほっとしたというところだろうか。あー、こういうふうに変わっていくのか、法律と言うのは怖いものだなと思った。上に野中氏の判断を「勘違い」と書いたが、こういう成り行きを予想してのことだったら、やっぱり政治家というのは食えないなぁ、と感想を替えないといけない。
 
前川氏は、「国家を歌いたくない教師たちには、外形上職務命令に従う面従腹背をお勧めするしかない」と書いている。筆者は、斉唱のとき起立しないなどの大っぴらな意思表示ができなくなってからどうしていたと言うと、自分が担任をもつ生徒の入学式と卒業式のときは式場にいないわけにはいかないが、担任外のときは、自主的に校門に立って、警備を兼ねて遅れてきた保護者の案内をしていた。それはそれで結構役にたっていたはずだし、気分的に楽だったが、皆がそうするわけにもいかない。「面従腹背」て、そう簡単じゃない。
 





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