八ヶ岳南麓山鳥亭の日常を綴ります。
 
2022/09/20 16:37:00|教育
高大接続について(22)
学習を楽しむとは−「終わり」にかえて

 本稿で筆者は、2019年12月7日の萩生田文部科学大臣(当時)の記者会見によって、予定されていた大学入学共通テストへの記述式問題導入の中止が公表されたときに感じた、大げさに言えば「萩生田ショック」を火種として、記述式問題導入についてあれこれと考えてきた。きっかけは大学入試だが、筆者の主な関心は大学入試の問題形式ではなく、初等・中等教育、特に高等学校教育の在り方にある。前者が後者に大きな影響を与えているために、前者について考えざるを得ないのである。大学入学共通テストに記述式問題が出題されれば、初等・中等教育改革の一つのきっかけになるかと思うので、ここまでその可能性を探ってきた。「共通テストに記述式問題を出題」はゴールではないが、一里塚ではある。
 細尾(2022)は、自らが大学の受験生だったときから持っていた問題意識として次の3つの疑問を挙げている。要点のみを記す。「塾に行って高校の勉強とは違う、大学受験のための勉強をしなければならないのはなぜか」、「教科書の隅っこを覚えることが何のためになるのか」、「もっと希望のもてる大学入試にならないのか」である。著者はフランスのバカロレア試験、特に論述形式の試験とその準備のための教育に、これらの素朴な疑問に対する答えを見出そうとしているようである。
 細尾(2022)の問題意識は筆者の問題意識でもある。一言で言えば、「初等・中等教育の勉強はもっと楽しくできるものにならないか」である。第3節に、学力の三要素について書いた。「@基礎的な知識及び技能、A思考力・判断力・表現力等の能力、B主体的に学習に取り組む態度」の3項目である。前述のように、2007年の改正学校教育法がその初出らしいが、その後、学習指導要領を始めとして、ほとんどの教育関係の文書にこれが挙げられている。しかし、よくよく吟味すれば、学習者にとって大事な楽しんで学ぶ、あるいは学ぶことを楽しむという要素が欠けているように思える。Bがそれに当たると言う人もいるかもしれないが、「もっと、主体的にやりなさい!」と、主体的に取り組むことを押し付けられるのはどうもいただけない。また、「態度」というのは表面的なこともあるので、筆者自身は好んで使いたい表現ではない。たとえば、Bの代わりに「自らすすんで学習を楽しむ力」とでもすればよいかと思う。知的な活動を楽しむことができれば、「生きる力」となるだろう。
 では、人はどういうときに学習を楽しいと感じることができるのだろうか。「なかなか解けなかった数学の問題が解けた時」に喜びと達成感を感じるのは、多くの人が経験しているだろう。しかし、そのよろこびは、その場限りのものになりがちで、日にちが経てばたいてい忘れ去られる。あのとき、あの問題が解けて嬉しかったなぁと思い出すことは稀である。反対に、生涯にわたって影響をのこす学習の喜びは、新しい概念を知って理解することだと思う。新たな概念は、目の前に新しい世界が開いてくれる。一度知れば、もうそれを知らなかった以前の状態に戻ることは、ほぼ不可能である。
 「ルポ 誰が国語力を殺すのか」(石井光汰 著)は、我が国における国語力の危機的状況とその再生への努力を報告している。著者は、その終章でヘレン・ケラーの自伝から次のくだりを引用している。

「すべてのものには名前があった。そして名前をひとつ知るたびに、新たな考えが浮かんでくる。家へ帰る途中、手で触れたものすべてが、いのち
)をもって震えているように思えた。(略)この記念すべき一日の終わりに、私はベッドに横になり、一日の出来事を思い返し喜びにひたっていた。明日が来るのが待ち遠しくてならない。こんなことは、はじめてだった。この時の私ほど幸せな子どもは、そう簡単には見つからないだろう」(『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』小倉慶郎訳、p.328)

 新しい概念を知ることによって得られるよろこびについて、これ以上に説得力のある描写は、ほかに見つからないだろう。
 第9節で、板倉聖宣氏の講演を紹介した。そこにも書いたが、氏は「最も感動的であるべき<基礎概念の教育>が決定的に欠落している」と述べた。彼のこの意見と、概念の獲得が学びのよろこびをもたらすという上の記述とを合わせて考えると、「学び」から「楽しさ」が欠落しているという状況に思い至る。第8節に述べたように、ある概念を正しく理解しているかどうかを確かめる最もよい方法は、それを表す語句を用いて文章を書いてみて、指導者に添削してもらうことである(第1節の上西充子氏のインタヴュー記事参照)。そうした文章教育の機会は、実は、学びの楽しさと直結しているのである。
 第3節の最後に、バカロレア試験の準備は大変だったけれど楽しかった、というフランス人の述懐を紹介した。細尾(2022)が抱かざるを得なかった問題意識との違いの原因は、彼我の文章教育の違いにある、というのが本稿の結論である。この格差を埋めるために、当面やらなければならないこととして、筆者は第12節で『まず教員養成課程の科目で「文章指導法」を講じてもらって、それを修得して教員になった人が実地に児童・生徒を指導する。このような形で着実に「文章指導法」を定着させることによって、児童・生徒の思考力の育成を図ってもらいたい』と述べた。ここにもう一度その要望を書いておく。
 
参照文献
石井光太「ルポ 誰が国語力を殺すのか」(株)文芸春秋、2022年7月。

細尾萌子「書評会の議論のまとめ−『フランスのバカロレアにみる論述型大学入試に向けた思考力・表現力の育成』−」、細尾萌子 編「大衆教育社会におけるフランスの高大接続」、広島大学高等教育研究開発センター、高等教育研究叢書164、pp. 3-8、2022年3月。

 
 





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