絶対批判の途に於て無に出會はずしてどこに辯證法の原理的なる手懸かりがあるか。ヘーゲル哲學が此途を進んだのも偶然ではない。ヤスパースが理性の名の下に説くところのものは、正に絶對批判に外ならぬ。縱それが後に示す如く辯證法的絶對無の立場に徹底するものではないとしても、その選んだ途は正しい。そこには哲學の通路を飽くまで科學の媒介に於て開通し ようとする理性的精神がある。之を無視する哲學は、ヘーゲルのいふ通り所詮確信以上に出でない。それは正當に哲學と稱せられるべきものではない。哲學に於ては「哲學の哲學」たる絶対批判を通してのみ絶対者に接することが出來るのである。此途に依らない、絶対者につきての確信は、宗教に屬するか或は神話であるか何れかに外ならぬ。「學の學」たる哲學は科學を媒介とし、それの批判を通路としなければならぬ。哲學が科學と宗教との否定的媒介、兩者の?史的行為的統一と解せられる所以である。私は此方向に於てヤスパースに一致する。併しそれではといつて、私は氏のいはゆる理性の概念を十全的なるものと考へることも出來ないし、その力説する實存の?史性を十分に具體的なるものと認める譯にもゆかない。ヤスパースに於て理性が實踐理性たる意味を發揮せず、?史が生成?行為たる基體?主體の轉換を意味しないことは、必然的に、内在と超越とを媒介する途なからしめ、實存が出會ふところの超越を飽くまで自己に對し他者たるに止まらしめ、他?自の行為的統一を不可能ならしめた。 |