第三、存在の根據は再び存在の秩序に屬し得ない、といふ原理的な命題は、存在の根據が「主體」として把握されねばならぬといふことを意味する。その限りに於て辯證法を確立したと云はれるヘーゲルが、「私の意見によれば、凡ては、眞なるものを實體Substanzとしてでなく、却て恰もまさに主體Subjektとして把握しそして表現する、ことにかかつてゐる。」と云つたのは、まことに正しい。そしてそのことは我々が存在と事實とを「客體的存在」及び「主體的事實」として規定して來たことに照應する。從來の存在論が存在の根據を「實體」として何等か客體的なものと考へたのとは反對に、我々によつて存在の根據と見られる事實は却て主體的なものである。それが主體的なものであると云つても、所謂主觀的なもののやうに、それが客觀的なものに比していはば存在の量に於て劣るとか、個人的なものであるとか、いふことであり得ないのはもちろんである。かかる意味のは於ては寧ろ主體的な事實こそ客觀的であり、存在的であり、超個人的でさへある。さうでないならば、それが存在の根據であるなどとはそもそも云はれない筈である。主體として把握されたイデーはヘーゲルに於てもそれがens realissimumを意味した。然し固より我々のいふ事實はヘーゲルのイデーとは決して等しくない。それが如何なるものであるにせよ、一般のイデー的なものの根據の上に於ては存在の偶然性なるものは基礎付けられ得ない。 |