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2017/04/08 12:06:02|衆議院議長
福田 一

【禍福眼前事是非身後名】

禍福(かふく)は眼前(がんぜん)の事、是非は身後(しんご)の名
是非(ぜひ)=よいこと、悪いこと。正と不正。

禍福は、眼の前で起こる出来事である。それに比べ、是非は、亡くなってからも残っていくものである。
禍福によって、一喜一憂するのも人生であるが、是非こそ大切にすべきであろう。
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」のである。

福田 一(ふくだ はじめ、1902年4月1日 - 1997年9月2日)は、日本の政治家。自民党衆議院議員、第62代衆議院議長(在任期間・1980年7月17日-1983年11月28日)。自民党では大野伴睦→船田中派に属した後に、無派閥。

福井県出身。東京府立三中、一高を経て、東京帝国大学卒業。同盟通信記者を経て衆議院議員に。通産大臣、自治大臣、法務大臣などを歴任した。通産大臣時代には今井善衛と佐橋滋など、両省の事務次官人事に介入し、存在感を見せ付けたこともある。

自治大臣在任中、1975年1月21日、参議院決算委員会で「私は市川(房枝)さんほど国民を尊敬していない」と述べたため、野党の反発を招き、発言の取り消しを要求された[1]。このため、当該発言を取り消して陳謝した[1]。

法務大臣在任中にダッカ日航機ハイジャック事件が発生、神谷尚男検事総長らと共に犯人釈放に断固反対したが、福田赳夫首相の超法規的措置方針に逆らえず、犯人側の要求に屈する形で勾留中の日本赤軍メンバーを釈放、周囲の慰留を振り切って大臣を引責辞任した。

ひめゆりの塔事件時の自治大臣兼国家公安委員長を務める。三木武夫首相以下、三木内閣の閣僚らが事件前には楽観論に基づき警備人員を削減した後、いざ事件が起こると警備責任者だった佐々淳行を叱責したのに対し、皇太子明仁親王夫妻の無事を聞いた福田は「よかったなー、佐々君は最初から火炎瓶が飛ぶって言ってたもんな」と安堵したという。後に佐々は福田を「頭の中で最悪の地獄図を想定していた危機管理のリーダーの理想」と評している。

北陸新幹線のルート・工事区間が発表された時、その案は「福井駅」までであったが、一夜明けると唐突に南越(武生)駅(福田の選挙基盤)まで延びていた。これは元々の折衝では南越駅までの案となっていたのが、福田の知らぬところで福井駅までの案に削減されていたため、福田がその夜、担当者らを怒鳴りつけ、翌朝こっそりと急遽変更となったと伝えられた。

1980年7月、第62代衆議院議長に就任。ロッキード事件で田中角栄元首相に一審有罪判決が出た際、野党が田中角栄議員辞職勧告決議上程を強硬に求め国会が空転。福田は衆議院議長として木村睦男参議院議長と連名で、政府重要法案の審議促進を条件に解散総選挙を行う斡旋案を与野党に提示。与野党が合意したため、衆議院解散となった(田中判決解散)。

消費税法案が国会採決された際、自民党長老であった福田は反対(青票)に投票。かつ成立後に自民党を単独離党する。「選挙区民に消費税導入はないと説明していたのに、示しがつかない。有権者を裏切ることはできない。これは自民党が自分を裏切ったのである」という理由からである。慌てた自民党は首相や首相経験者、党幹部、派閥会長などを派遣し説得に努めたが、福田は頑として聞かなかった。

政界引退後、選挙基盤の後援会の一部が娘婿を擁立しようとしたが、福田自身は「政治は世襲ではない」と言い放ち、全く応援をしなかった。選挙対策側は福田の「一」の字を折り込んだポスターを作成するなど苦心したが、有力な後援者や一般の有権者らも福田に同調したため、娘婿は落選した。

地元では「ピンさん」と呼ばれ敬愛されていた。