しかしながら、極めて率直にここで白状してかからねばならぬことは、これに対する自分の準備が未だ充分なりというほどまでに整っていないということである。いかにも、南北に渉って主なる論書は一通り見ているけれども、とてもその全部には未だ渉りかねている上に、この間に潜んだ種々の問題となれば概ね未だ分かりかねているものばかりである。蓋し自分が、ここに阿毘達磨仏教思想というのは、他語を以ってこれをいえば、小乗仏教思想っていうことになるので、その関連する範囲は独り特定の論書思想に限らない、広く一般の仏教思想史、少なくも仏滅後より大乗の隆盛に至るまでの仏教思想に関連し、したがって、その攻究範囲も極めて広汎に渉ることになるからである。殊にこの題目の攻究において最も困難を感ずる点は、後に述べるがごとく原則よりすれば、小乗各派(通例十八部という)は、各々特有の阿毘達磨論書を有して、その派特有の立場を主張した筈であるが、現在それら阿毘達磨論書の残ったものは極めて少数の部派のみにて、他は凡て散佚し去ったことである。したがって、それらのいわゆる小乗部派の思想なるものは、他書に断片的に伝わるものによって知り得る極めて不完全なものに過ぎぬので、「阿毘達磨思想論」という題目で小乗仏教思想論を代表せしめようとする自分の企図において多大の当惑を感ぜざるを得ぬのである。 |