フランスの文芸復興期から、思想として、或は思想家の風?のうちに感じられる懐疑思想を、近代哲学思潮の一つとして幾分気儘に扱って見ようと考えた時、私のそれに対する心組みが、気儘なるが故にかなり異見な類似するものであることに気附いた。その直前に、簡単な覚書を作って見た。逆に言えば、その方が本当なのであるが、覚書と言うのは私一個人のための懐疑思想家一覧で、ごく普通の哲学史からの抜書であるが、その一覧に私の心組みを照査せしめてみると、哲学上の学説としての懐疑思想の見方からやや方向が外れているのに気附いたのである。方向が外れているということを更に説明するなら、私の哲学的集注の度が稀薄となっているためか、一般の見方とは殆んど直接の関係もなく徒らに範囲が拡げられ、方向の中心線が何れかへ外れているように思えたのである。と言っても勿論私にはその本来の中心がどこへ向けられるべきかは判らぬため、唯外れているように気使われるのである。近世の懐疑思想一般が多少ともそういう傾向を持っているなら、それはそれとして幾らか寛怒を乞うべき道も展けるが、近世懐疑主義に対する定説、或はこれを研究する時の、当然採るべき立場を充分に知らないとなると、それが依然として私の疑懼するところともなり、恐竦するところとなっている。
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