なお我々はここで、西周自身がその「開題門」(明治三年)の冒頭で「東土謂之儒、西州謂之斐鹵蘇比。皆明天道而立人極、其実一也。」〔東土之を儒と謂い、西州之を斐鹵蘇比と謂う。皆天道をあきらにして人極を立つ、其の実は一なり。〕といっていることを、附言しておかなければならないであろう。(麻生義輝編『西周哲学著作集』一頁)ただし彼は『生性発蘊』(明治六年)においてフィロソフィを「哲学」と訳しそれを「東州の儒学に分つ」(同上書ニニ頁)といい、また『百学連環』(明治三年)においては「我か国の如きは更に哲学と称すへきものすくなく、漢の如きも西洋の比にあらさる」(新村出編『西周全集』第一巻一八一頁)ことを指摘している。 明治哲学の発展段階は五期に別けられている。 第一期は明治一年(厳密には明治三年)から同十五年までの「実証主義ので移植」の時期であり、第ニ期は明治十五年から同二十二年までの「観念論と唯物論との分化」の時期であり、第三期は明治二十二年から同三十八年までの「日本型観念論の確立」の時期であり、第四期は一部分第三期と重複し明治二十八年から同四十四年までの「哲学啓蒙家」の時期(私はこれを第一次と呼ぶ。何故なら大正四年から同十五年までは第二次をなすからである。)であり、第五期は明治四十四年以降(これは大正十五年までつづく)の「日本型観念論の大成」の時期である。 |