そこには、自己が世界の内に否定せられて自己を失ふことにより却て自己を實現し、斯かる自己の心身脱落により世界が脱體現成して絶對現實に達するといふことがない。斯くて超越は他者に止まり、他者超越?自己内在といふ轉換が成立たない。超越が絶対無にまで徹底せられずに存在として有たる性格を留める所以である。これは實存哲學が行の立場ならぬ觀或は覺の立場に止まる結果に外ならぬ。それが?史的行為的辯證法に到達せず、單にいはゆる内的行為としての思惟の自覺に終始するのは已むを得ない。ヤスパースがその自覺内容に於ける對立契機の關係を分極とか緊張とか言表はすのもシェリング的であるが、現實は單に分極緊張に止まるものでなく、分裂崩壊と綜合統一との轉化更代をも示す。實存は斯かる現實の轉化を自己の行為と媒介する實踐者の内的自由の發動でなければなるまい。ヤスパースの實存は、なほハイデッガーに於けると同様に静力學的均衡的觀想を脱しない。眞に動力學的危機的に?史的現實へ破り出る無の行為的自發性にまで徹底せられて居らぬ。これは超越が?内在であり、往相が?環相である絶対無の動静一如に達せざる為である。ヤスパースの現代に對する批判は『當代の精神的状況』以來人の注意を惹く所であるが、そのいはゆる豫後診斷が哲學的覺者眞人の運命愛的自由への覺醒に止まり、積極的に?史的實踐へ死?生的に參加することを目標とするものでないことは、周知の通りである。私は此處に實存哲學の限界を感ぜざるを得ない。 |