哲学が根本になければ、砂上の楼閣にすぎぬ。このサイトは持続可能な社会を目指して、地球温暖化防止、緑化の推進、世界平和、世界連邦建設等を目的としたものです。左の写真は、尾崎行雄先生と尾崎先生の意思を継承した相馬雪香先生です。相馬雪香先生の教えを受けた人は多数いると思いますが、雪香先生をおんぶしたことがあるのは、私(中澤誠)だけでしょう。すべての組織は利害で動く 日本は敗戦国となった時から、植民地以下の国になった。だが日本には至るとこに神社がある。それが唯一の救いだ。天之御中主様 この日本を目覚めさせていただきたく。 殺戮の無かった縄文時代に戻ることこそ重要である。
 
2026/04/09 16:32:24|その他
梯明秀経済哲学著作集 第ニ巻社会の起源 三木哲学の離反 三木哲学にファッショ化への可能性 二 氏の「人間学的基礎経験」による「事実としての歴史」と唯物史観との差異249p14g
氏は、いわゆる。ーー「ひとしく歴史意識をふくむとせられる史観について唯物論的と観念論的とが区別せられるが、この区分は、存在としての歴史において何が優越ないみにおける存在として決定されるかということに関係する。すなわち、存在的決定とわれわれの称するものが各々の史観のはうちにふくまれているのであって、このものが史観な性質を規定する。しかるに、いわば客観の側における存在論的決定に、主観の側においては人間学が対応する。一定の人間学は、かならず一定の存在論的決定と、むすびつく。このいみにおいては、主観が客観を規定するのでもなく、また客観が主観を規定するのでものなく、かえって事実が、主観と客観とを共に規定するのである。すなわち、主観の側における人間学と客観の側における存在論決定とは、ともに事実としてのの歴史によって規定され、したがって両者は、また、つねに対応の関係にあることになる。史観の問題という空漠な問題は、このようにして、人間学および存在論的決定の問題として、その内容をあきらかにされる」(五七ページ)〔五六ページ〕