我々はヘーゲルのいふパトスを事實としての社會的身體に結び付けて解釋した。我々が事實と稱するものはさしあたり内面性の問題とはかかはりをもたぬ。事實と存在とは、それが精神的なものと感性のなものとして對立するのでないやうに、また單に主觀的なものと客觀的にものとして對立するものでもないのである。かく考へることもまた固より全く間違つてゐるのではない。我々自身「主體的事實」及び「客體的存在」なる語を用ゐて來た。然しながら主觀的及び客觀的といふ語は種々なる?史的重荷を擔つてゐることが注意されねばならぬ。たとひ事實が主觀的と呼ばれるにしても、それは決して個人的、非現實的などといふ意味に於て主觀的なのではない、この意味に於てはそれは却て客觀的である。或はまた事實は如何なる意味に於ても「物」の意味をもたぬと考へられて主觀的と云はれるのでもない。それ故に我々はことさらに「主觀的」といふ語を避けて「主體的」といふ語を用ゐた。けれども事實は「存在」と同じ意味に於て存在とは云はれ得ず、兩者はどこまでも秩序を異にする。我々は兩者の關係を存在と存在の根據との關係として示した。このやうにしてまた?史の主體が純粹に精神的なものでないからと云つて、それを所謂精神物理的統一體であるとすることをもつて瞞足することの出來ないのも明かであろう。フンボルトが?史の主體たる人類を「精神的 ? 感性的性質」heisting- sinnliche Naturのものと考へたことは有名であり、近くはディルタイが?史の基礎たる人間を精神的物理的統一體として規定したのは周知のことである。かく見ることが或る意味では正しいとしても、精神物理的統一體と考へられた所謂全體的人間は我々のいふ事實の秩序に屬するか、それとも存在の秩序に屬するかが問題とならざるを得ないであろう。人間は現實存在として固よりそれ自身二つの秩序に同時に屬してゐる。一切の現實存在に就いてその存在と存在の根據とが區別せられるからである。然るにこの場合精神物理的統一體と考へられたものを再び分割して精神を所謂内的な事實、身體を所謂外的な存在と見做すことは出來なかろう。 |