兄は別に家を建て結婚した。 母に借金を強いて・・・母は59歳、私が24歳の時だったと記憶している。 時々くる手紙に愚痴と思われる内容が書かれるようになったことを思い出す。 それまでにはなかった。 母は人様を悪く言う人ではないことを私は知っている。 母は子煩悩で、孫は勿論人様の子供でも頼まれると乳幼児の子守、幼稚園児の付き添いまで・・・・・ 嫌だなんて決して言わず、楽しそうに受けていた・・・・・・そんな母だった。 こんな優しい母に、義姉の慈しみの欠落を随所に感じた。 それは私が帰郷した僅かな時分に・・・・・。 「将来おふくろどうするの?」と兄に聞いてみた。 「・・・・・」答えは無かった。 つまり兄の家庭では母を看るのに問題があるということを暗示した沈黙だったのだと直感した。 私の心のどこかに住み着いて消えることのない・・・・・・・ あの小・中学校時代の四人の女先生の申し合わせたかのような言葉・・・・ 「大きくなったら家を助けること。お母さんを大切にすること・・・」が。 「私が看る」と宣言した。 それは、昭和44年〔A.D.’69.〕の正月明けの10日前後だったと思う。 長野県の茅野(HA電気)と飯田(KO電工)の二社へ購入部品の納期短縮折衝に急遽出張した。 帰路実家に立ち寄った。兄と話したのはその時だった。 その年の正月は仕事の関係(正月休みの後半で休日出勤の予定があった)で帰郷しなかった。 四半世紀、苦労の連続で息つく暇も無く働き尽くめの母にこれ以上の気苦労をさせてはいけない。 今までの苦労に報いなければ。「楽しい老後を・・・」私が最善を尽くして・・・・と決意した。 私は、就職したときから「H社に定年まで勤め、多分I県に住む」ことを考えていた。 当時は転職することは一般的に殆んど評価されていなかった。 又、給料も勤続年数がベースとなっていた。そんな時代だった。 |