八ヶ岳南麓山鳥亭の日常を綴ります。
 
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2021/12/07 19:48:00|旅行
諏訪周遊(4)続・恋札
前回の投稿に、恋札の中に読み下せない歌が二首あると書いた。上の写真がその二首である。先日、所用で諏訪に行ったときに、島木赤彦記念館に寄って、上の写真を見せて教えを乞うた。その日は、生憎、学芸員の方が不在だったが、二日後の今日、先方から電話をもらって、歌の全文を教えてもらうことができた。

左は「三年前君と相見し春の夜の一夜に似つる雨を聴くかも」
右は「雲のゐる山のあなたの遠くへは君をやらじとおもふ秋哉」

両首とも、赤彦の最初の歌集『馬鈴薯の花』以前の作であるため、歌集には集録されていないが、全集本には載せられているとのことだった。

学芸員の方には、お礼を言うとともに、なんとも雅な恋札の習わしを保存してくれるようお願いした。

 






2021/10/18 10:50:00|旅行
諏訪周遊(1)
前回の投稿で紹介した講演会は、盛況のうちに終了しました。いずれは地元の人たちに話をしたいと思っていたので、今回それが実現して嬉しかった。準備と広報に尽力してくださったコロボックル会議の皆さんに感謝します。YouTubeに動画を掲載してもらっています。
よかったら下記のリンクでご覧下さい。

前編
https://youtu.be/JlqFvM9n3Qw

後編
https://youtu.be/NFCscTBksik

講演の資料作りで疲れがたまった感じなので、諏訪湖畔のホテル紅屋に電話をして予約した。諏訪湖周辺は何度も行ったことがあるが、「諏訪式(小倉美恵子 著)」を読んで、いくつか改めて見学したいところがあった。ここでは、まず1日目に訪ねた島木赤彦記念館と、二日目に訪ねた今井邦子記念館について書く。
 
島木赤彦記念館で目を引いたのは、今井邦子宛ての手紙である(以下、展示内容による)。なんでも、赤彦が邦子の歌集を批評したところ、邦子が電話をかけてきて異議を唱えたらしい。それについて赤彦は、よほど驚いたのか、「拝啓 ただ今の電話意外に思いました 私の批評のどういう所がそんな刺激を与えたのか小生呆然とする」(仮名使いは現代風に修正)と電話の直後に書いた手紙のようである。批評と言うのは、邦子の歌集「光を慕いつつ」について、赤彦が短歌雑誌「アララギ」に書いた批評である。その批評文も展示されている。赤彦は、邦子(批評文には山田邦子と旧姓で書かれている)の歌は「しっかり自己の問題を捉えようとする。これが生命を生み、力を生む」とずいぶん褒めている。だから、赤彦としては、異議の電話を受けて訳が分からなくて「呆然」とする他なかったのだろう。電話の後、はっと我に返って、これではいかんと筆をとった赤彦の慌てる様子が目に浮かぶ。邦子は何に腹を立てたのか。想像する他ないが、批評文の冒頭部分には「万葉集以後一千年が間女流歌人は殆ど空しい」云々と、女流歌人一般を貶める文が続いている。邦子はこれに反発したのではないだろうか。
 
件の手紙は大正5年(1916年)7月2日付である。手紙の末尾でなるべく早く会って、互いの真意をとことん話し合おうと書いている。筆者は、これを読んで、赤彦と邦子はその時点で直接の面識はなかったのかと思ったが、「今井邦子の短歌と生涯(堀江玲子 著)」には「邦子が赤彦に初めて会ったのは、大正2年の夏であった」と書いてあった。その時の様子として、「アララギ」の赤彦追悼の号に邦子は、知人に赤彦宅に同道するように勧められたのだが「信州の教育家のような方(筆者注:赤彦のこと。当時、赤彦は諏訪郡の教育行政に携わっていた)には、(私の歌は)いれられ難い所のある事を知って居たから、-(中略)-何だか恐ろしいようで」と断りたかったけど、たっての勧めに根負けした格好で訪問した。会ってみると存外に優し気だったみたいだ。別のところで邦子は赤彦の物言いを「いつものあの暖かい調子でお答えくださった」と書いている。これは邦子が赤彦に入門することを願い出たときのことである。入門の時期は大正5年のいつかだけど、上の手紙の後か先か分からない。同年5月3日に赤彦に連れられて伊藤左千夫の墓参りに行ったと「今井邦子の短歌と生涯」に書いてあるから、邦子が赤彦に異議の電話をしたのは、入門直後ではないだろうか。ともかく、入門直前あるいは直後という時期に、お師匠さんの言い分が気に入らないと電話して、お師匠を慌てさせるのだから、邦子さんはずいぶん気性の勝った人だったのだろう。
 
今井邦子記念館(写真)にも赤彦の邦子宛の手紙が展示してある。こちらは大正2年11月22日の日付だから、赤彦が邦子に注目してまだ日も浅いころだろう。その中で赤彦は「小生の歌は静かにして往々乾燥枯淡に陥るを恐れおり候貴下の歌を見てうれしきは静かにして同時に生動の力加はる點にあり候 云々」と褒めちぎっている。自作を、「筋と骨が勝ちて肉と血が枯れ・・・」とも書いている。赤彦の代表歌の一つ
 
みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ
 
これなんかは、さしづめ筋と骨だろう。
が、状況によっては赤彦の作にも「肉と血」が通う情熱的なものがある。
 
上に書いた「いつものあの暖かい調子」から赤彦の人柄が偲ばれるが、同様のエピソードを長くなるが紹介しておこう。赤彦33歳、塩尻の広丘小学校校長として赴任していたおり、新任教師の中原静子が赴任してきた。静子は妹の病気のために着任が送れたことを気に病んで、「もう胸がどきどきして、第一、校長先生はどんな方だろう、きっと立派な洋服を着て、ピンと髭をはやして、きちんと椅子に納まっていらっしゃるに違いない。と想像しては、まず何とお話ししていいかなど、あれこれと考えに乱れて足を運んだ。おそるおそる、まず校内にはいった時、石垣根に添って草むしりをしていられる人が見受けたけれど、私はちょっと礼をしただけで玄関に進んだ。そして「御免下さい」と申し上げたけれど、ちょうど授業時間中とみえてどなたも御返事がない。しかたなくさびしく玄関に立っていたら、手の砂をパチパチ打ち落としながら、今草むしりをしていた方が近寄って来られ、私より先に「中原さんかい。お妹子さんはどうだい。手紙を見てくれたろうに。遅れたって構わないんだよ。無理して来てくれたのじゃないかな。さあおはいり」と先に立って職員室にご案内くださった。」(中原静子『桔梗が原の赤彦』、評伝 島木赤彦(神戸利郎 著))
 
当時単身赴任だった赤彦は、その後、静子に恋愛感情を持つようになる。情熱的な歌の例として、赤彦がおそらく静子を想って歌った作を1首だけ書いておこう。明治43年ごろの歌:
 
夏の日のいきれの中にわぎもこの丈けはかくろふ我が腕のへに
 
 
筆者自身、赤彦のことをストイックな石部金吉と思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

 
 






2018/03/31 21:55:00|旅行
富士西麓のドライブ

3月22日 前日から降っていた雪が止んで、夕方には青空が見えてきた。外に出ると、雲の上に雪を被った富士山が、傾きかけた陽射しに映えていた(写真1)。
 
3月28-29日 大阪から小淵沢まで荷物(100号相当の日本画)を運ぶために、新大阪駅近くのトヨタレンタカーでワンボックスカーをレンタルした。直帰するのも芸がないので、寄り道して蒲郡の西浦温泉に一泊した。小淵沢ではまだ桜の蕾は小さいのに、旅館の部屋のベランダから見える景色は春爛漫だった。
 
蒲郡から小淵沢までは、多治見-飯田の中央道コース、豊川-飯田の天竜川コース、富士宮-精精進湖の富士山麓コースなどが考えられるが、富士山を西側から間近に見るのが魅力で、富士山麓コースを辿ることにした。
 
このコースは色々と見所があるが、レンタカーを返す時間もあるので、よそ見はせずに富士本宮浅間神社にだけ立ち寄った。ここでも桜が満開だった。富士山の湧水が湧き出る湧魂池(わくたまいけ)では、鴨がしきりに逆立ちして藻を食べていた。小淵沢から見る富士山は、日本画などによく描かれるように、頂上部分が水平になっているが、神社の境内から見る富士山は、山頂が少し尖って見える(写真2)。最高峰の剣ヶ峰か。
 
浅間神社の前後の道すがらに見える富士山は、山頂から右の方に裾を引き、雪線の少し上で宝永火口の高まりがアクセントをつけている。実に優美である(写真3:残念ながら車中から撮った写真しかない)。浮世絵に描かれた富士山を検索してみると、広重の「三保の松原」と「原」の富士山に小さく遠慮がちに宝永火口が描かれている。特に「原」からは火口を覗き込む角度で見えたはずだが、実際より山頂近くに小さな出っ張りがあるだけだ。北斎の「神奈川沖浪裏」でも、ごくわずかに稜線にふくらみが認められるだけである。美的感覚から避けたのだろうか。あるいは御神体だから傷は隠したのか。筆者は、しかし、上述の富士宮から見る富士山の姿が気に入った。フランスの絵画に似たようなシルエットがあったように思って検索した。どうやら、ダヴィッドのレカミエ夫人(写真4)がイメージに近そうである。膝の出っ張りが宝永火口というわけだ。
 
富士宮から139号線を北上して富士山の西斜面に近づくと、正面に大沢崩れが見える。1000年ぐらい前から崩壊が始まり、現在も続いているらしい(国土交通省富士砂防事務所HP)。

甲府南から中央道に乗って、5時頃小淵沢に帰りついた。やっぱり桜の蕾はまだまだ固い。







2017/12/27 20:46:00|旅行
別所温泉-浅間山の旅(3)

12月7日 快晴。鬼押し出しにほど近いホテルの屋上から、浅間山の展望を堪能した。前日より白煙の量は少ない。チェックアウトして鎌原の集落を再訪した。前日利用した有料道路ではなく、その東側を並行する一般道を麓に向かって下った。道路は台地状の稜線に沿っている。鎌原の集落に入るには、稜線から西にそれて、谷に向かって下らなければならない。つまり、集落は、博物館から観音堂へ下る階段がある斜面と、この日に車で下った斜面に挟まれた谷地形の底にある。そのため、集落の真ん中に立つと浅間山の姿はまったく見えない。見えないことによって、存在そのものを忘れそうになる(写真1:長閑な鎌原地区)。大噴火のときは、火口から噴き上がる黒煙が見えたはずだが、山麓で何が起こっているかは分からなかったのもしれない。集落を岩屑なだれが襲うまで、村人が異変に気が付かなかった理由の一つだろう。
 
今日では、気象庁や東大地震研の火山観測所が、地震計や傾斜計、監視カメラによる観測を行っているから、天明3年噴火のような事態にはならないとは思う。しかし、前日、鎌原観音堂前でミニガイドをしてもらった男性に、折に触れて観測所などから連絡が入るのですかと聞いたところ、彼は「噴火があってから、防災行政無線で噴火がありましたと放送があるだけ。そんなもの爆発音で先に分かる。行政は、あまり噴火の事を言うと、別荘の人たちが来なくなるからと言うが、住民は安心・安全のために情報が欲しい。行政は何考えているのか」とやや憤った様子で話してくれた。
 
観音堂の横の階段を昇って嬬恋郷土博物館を見学した。埋没した遺物が展示されているが、明るい照明の下では、災害時の様子を想像するのは難しい。博物館の人が、是非見るようにと勧めてくれたビデオには、火山観測所で所員が、観測データが映し出されたモニターを見ているシーンが紹介されていた。ちょっと心強い印象をもったのだが・・・。噴火の前後には、例えば写真2のように、火口周辺で頻繁に火山性地震が起こる。展示の一つとして、火山性地震についての最新状況を表示するモニターがあると、一般の人の火山観測への興味を高めるだろうし、住民の安心にもつながる。(写真2: 2004年9月1日の浅間山噴火の前後に発生した火山性地震の震源分布。☆は2004年1月~2005年1月の比較的強い地震、〇は噴火直前の2004年8月31日から始まった群発地震。赤い線分と四角は、地殻変動の観測からマグマの貫入があったと推定される場所。東大地震研・火山噴火予知研究協議会の資料。)
 
博物館を出ると、再び鬼押し出しの方にとって返して、峰の茶屋の傍にある東京大学地震研究所の浅間火山観測所に行った。博物館で見たビデオのシーンとは裏腹に、敷地の入り口はチェーンで閉ざされ、どうやら無人のようである。車止めチェーンの横から敷地内に入った。建物の出入り口には鍵が掛かっている。だれかいないかと建物の裏手に回ると、地層が露わになっている場所があった(写真3と4(部分))。帰宅後に以前に集めていた浅間山関係の資料を眺めていると、「歴史災害の教訓報告書 1783年天明浅間山噴火(内閣府)」に、観測所構内の同じ場所と思われる写真があった。その説明によると、黒い地層の上端が1783年の噴火前の地表。そのすぐ上に、ベタッとした感じの薄い火山灰層がある。この層を始め、全部で7層の火山灰があり、その間に大小の軽石からなる層が積み重なっている。観測所は火口から東に約4kmのところにある。噴火による灰や軽石は、西風に乗って火口の東の方に多く降下した(前回の記事の図4の下部に、降下堆積物分布の一部が灰色で示されている)。無許可の侵入だったが、予期しなかった見学ができた。観光コースのすぐ傍にあるのだから、露頭が風化しないように屋根で覆って、一般の見学に供すればいいのに。
 
軽井沢に出る途中で白糸の滝を見物して帰路についた。旅の最後に、佐久市の稲荷山から、暮れなずむ千曲川と浅間山を見た。
 






2017/12/24 12:03:02|旅行
別所温泉-浅間山の旅(2)

12月6日昼食後。嬬恋郷土博物館に行ったが、あいにく休館日だった。
 
浅間山は1108年(平安時代)と1783年(江戸時代 天明3年)に大噴火した。特に後者については、多くの歴史資料に噴火および被害状況が記録されている。それらの資料には、火山砕屑物の落下に始まり、火砕流、溶岩流出、岩屑なだれ、泥流、河道閉塞、洪水、二次的火山泥流と、今日火山災害として知られている現象のほとんどすべて(山体崩壊を除く)が見いだされる。

1783年8月5日午前10時、大噴火に伴って爆発音が遠く京都にまで響いた。このとき山麓北側斜面では火砕流および岩屑なだれが発生し、麓の鎌原(かんばら)村が埋没したほか、吾妻川流域に甚大な被害をもたらした。泥流に呑み込まれた人の遺体が、はるか下流の江戸葛飾に流れ着き、同地に慰霊碑が建立されたことは、本ブログ「東京柴又散歩(2012年1月28日投稿)」に書いた。
 
郷土博物館から鎌原の集落を見下ろすことができる。集落に向かって階段を下りると観音堂がある(図1)。御堂前の解説板に、同地で被災し死亡した人は477人、観音堂に逃げるなどして生き延びた人は93人と書かれている。赤い欄干の橋を渡って十数段の階段を上がると、茅葺の小さい御堂がある。観光パンフレットによると、観音堂で、1日も欠かすことなく鎌原地区の人々が交替でお堂に詰めて、先祖の供養をおこなうと共に、災害の伝承語りを行っているらしいが、御堂の扉はしっかり閉まっており、どうもその気配がない。御堂下の土産物売り場で大工仕事をしていた人に尋ねると、博物館に続いて、これまた生憎なことに、御堂の屋根の葺き替え工事のため中断しているとのことだった。しかし、少し立ち話をしているうちに、その人自身、災害を生き延びた93人の子孫の一人だということが分かった。仕事中だったが、御堂前で臨時のミニガイドをしてくれた。先ほど何気なく渡った御堂前の橋の下に注意を向けられて覗き込むと、なんと橋の下に石段が続いている(図2)。まるで黄泉の国に続くような、生々しさを感じた。元々、石段は約50段あったが、上部の15段を残して岩屑なだれに埋まったそうだ。発掘の結果、石段下から逃げ遅れた二人の白骨遺体が発見された。
 
説明版には、「火砕流」ではなく、「土石なだれ」と書かれている。鎌原村を襲ったのは火砕流ではなく土石なだれ(あるいは岩屑なだれ)であるというのは、発掘された遺物に焼け焦げた跡がないからである。また、泥流や土石流とも書かないのは、遺物の保存状態の良さから、乾いた岩屑や灰が襲ったと考えられているからである。噴火に伴って発生した火砕流が、山体を削り取って岩屑なだれとなって麓に流れたと見られている。調べた限りでは、どの資料にも山体崩壊があったとは書かれていないが、それに近いことが起こったのではないだろうか。
 
続いて、鬼押し出しを見学した。ここでも残念ながら、浅間火山博物館は11月30日から冬季休館に入っていた。どうもこのシーズンは施設巡りに向かないようだ。下調べをせずに思い付きで出かけると、こういうことになる。もっとも、その分、繁忙期に比べると、宿泊費はずいぶん割引されている。

溶岩原につけられた遊歩道を散策した。火口から約4kmの地点で見る浅間山は一層迫力があった(図3)。溶岩の流出が始まったのは、岩屑なだれが鎌原村を襲った日の前日である。ほぼ同時に大規模な火砕流も発生しているが、それらは、火口から10km離れた鎌原村を直接襲うことはなかった(図4:「歴史災害の教訓報告書 1783年天明浅間山噴火(内閣府)」口絵に加筆)。しかしながら、ほんの目と鼻の先で、そんな激しい火山活動が起きているのに、なぜ村の人たちは避難しなかったのだろうか。翌日、鎌原を再訪したときに、その答えの一部を確認することができた。(この稿続く)
 






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