八ヶ岳南麓山鳥亭の日常を綴ります。
 
2022/07/17 11:43:00|教育
高大接続について(21)
図1 荒井(2020)によるセンター試験のイメージ

再考「高大教育の乖離」

 第6節に書いたように、高校教育と大学教育とは別物であって、両者は乖離しているとしばしば言われる。荒井(2020)は、両者が「別物」であると主張する根拠として、学校教育法の次の4か条を挙げている。
 
第二十九条 小学校は、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なものを施すことを目的とする。
第四十五条 中学校は、小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とする。
第五十条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第八十三条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。
 
中学校と高等学校に関しては、第四十五条と第五十条に、それぞれ前段階における学校教育の基礎の上に応じてと書かれているが、第八十三条に、「大学は高等学校における教育の基礎の上に・・・」とは書かれていないから、大学は小・中・高校とは違うのだと言いたいらしい。この法律は戦後の学制改革に伴って昭和22年(1947年)に成立した。Webで閲覧できる大学進学率の最も古い統計は1954年で、7.9%だった(Web資料21-1による)。その後、進学率は増加を続け、2014年に50%を突破した。その間、受験生の急増に対処するために、大学入試にマークシートを導入するという最も安易な解決策を取った結果として、今日の高大接続に関する諸問題がある。そういう経緯を無視して、今日とは全く異なる状況のもとに成立した法律を根拠に、高校教育と大学教育は異質であると主張し、それを前提として高大接続を考えようとするのは、初めからボタンを掛け違っているのではないかと思う。
 仮に歴史的状況を無視して、牽強付会して学校教育法を根拠法にしたとしても、同法第九十条に次の条文がある。
 
第九十条 大学に入学することのできる者は、高等学校若しくは中等教育学校を卒業した者若しくは通常の課程による十二年の学校教育を修了した者(通常の課程以外の課程によりこれに相当する学校教育を修了した者を含む。)又は文部科学大臣の定めるところにより、これと同等以上の学力があると認められた者とする。
 
ここに、大学に入学することができる物は、中等教育を卒業もしくは修了したものであると明記されている。この条文は、高校教育が大学生の学力の基礎を保証することを求めている。
 荒井(2020)は、高校教育と大学教育をつなぐツールとしてのセンター試験の位置づけを示す概念図を描いた(図1)。荒井(2020)のページにある著者の解説を読むと、大学に所属する専門家が、各々の専門分野と高校の学習指導要領を照らし合わせて、センタ―試験のために作問をする状況を、このような図で表現しようとしたことが分かる。しかし、このような図が一旦示されると、「円錐交差モデル」という名称まで与えられて(大塚、2020)、荒井氏以外の人によって、次の例のように無批判に図が用いられる。
 
  • そのことを図式化した荒井の「円錐交差モデル」が、高大接続のあり方を的確に表してくれている。大学教育は、高校教育の延長上にあるものではなく、高校教育の上に大学や学部のそれぞれが独自の方向性をもって発展していくものである(大塚、2020)
  • 図1のように、高校教育と大学教育は、異質であるということで交叉しています。(山村、2022)
 
 これらの文脈では、高大の乖離は既定の事実となっている。図21-1は高大教育の不連続性を示しているようだが、仔細に見ると何を意味しているかが分からない。第一に、円柱ではなく、円錐形である必要性は何か。第二に、円錐の断面は何を意味しているか。第三に、円錐の軸、あるいは図の上下方向は何を意味するか。円錐の断面は複数の教科・科目の束を表しているのだろうか。あるいはそれぞれに関わっている人を表しているのか。おそらく図の作者にしか分からないだろうから、ここで思案していても無駄だろう。荒井(2020)の本文から、図の意図として読み取れるのは、センター試験の問題を作題するにあたって、大学の先生たちが好きに作っているのではなく、高校の学習指導要領から逸脱しないよう最大限の努力をしているという事のみである。この図は高校教育と大学教育が別物であると主張するときの根拠にはなり得ないのだが、この図が示す高校教育と大学教育との極めて不明瞭な関係を、「乖離」という言葉に集約し、それが事実であると見なしている。言わば、論証の最後に結論のまとめとして提示すべき図を、論証の出発点にもってきて議論を始めるようなものである。
 さらに、荒井(2020)は、次のように述べる。
高大接続とは互いに異質な教育課程を結びつけるプロセスである。だが、高大接続の役割はそれにとどまるものではない。異質な教育課程の接合は新しい知的刺激を生み、新しい学びを発見させる好機である。学びの可能性を知ることこそ高大接続の本旨であろう。(中略)
 幼稚園から大学まで「同質の教育目標」で貫くことなどつまらない話である。高校教育の延長にある大学教育などに、高校生は魅力を感じるだろうか。異質な教育課程との接触、異質な文化の衝突こそが刺激と閃きをもたらす。
 
高大それぞれの教育が異質であることを、異文化との接触になぞらえることによって、意味を見出そうとしている。異文化間の接触の場合は、互いに自分とは違った考えや習慣に触れ、真摯に学ぶことによって、自分を見直すきっかけになるところに意味がある。荒井(2020)は、上に引用したように「高校教育の延長にある大学教育などに、高校生は魅力を感じるだろうか」と言い切っている。そのような高校教育から、大学は何を学ぶと言うのだろうか。
  筆者自身、高大の乖離が全くないとは思っていない。しかし、それは、第11節に述べたように、理想の大学教育と現実の高校教育との間の乖離である。多くの大学の先生方は、自分が考える理想の講義をしようとしても、それに付いてこられるだけの学力を学生が高校生時代に養っていない(だから、大学でまともな授業ができない)と感じているようである。つまり、大学には努力すれば理想の講義をする余地が残っているが、現実の高校教育は入試でがんじがらめになっていて、生徒は、大学入学後に必要となる能力を高校時代に身に付けることができないという解釈である。それは、まったくの間違いではないだろう。ただし、だからと言って、荒井(2020)のように、乖離していることを前提にして大学入試を考えるのではなく、「乖離」を教育的課題として、解消にもっていくべく努力するべきである。その上で、どのような大学入試が可能かを考えれば、実りが期待できる。
 第20節に触れた「あり方会議報告書」は冒頭に、記述式問題の意義・必要性として、7つの項目を挙げている。その筆頭にあるのは、次の一文である。
「自らの考えを論理的・創造的に形成する思考・判断の能力」や「思考・判断した過程や結果を的確に、更には効果的に表現する能力」は、大多数の大学において、入学後、専門分野を学んでいく上で必要であり、高等学校教育においてもその育成が重視されている。
 
大学で要求される「思考力・判断力・表現力」は、高等学校教育においても育成されなければならないと明記されている。これこそ高大接続の肝所だろう。
 
 
参照文献
荒井克弘「高大接続改革の現在」、中村高康 編「大学入試が分かる本」、岩波書店、pp. 249-272、2020年9月。
大塚雄作「大学入試における共通試験実施に関わる諸問題-センター試験実施の経験から」中村高康 編、大学入試が分かる本、岩波書店、pp. 191-214、2020年9月。
山村滋「高大接続研究の観点からの論点提起-『フランスのバカロレアにみる論述型大学入試に向けた思考力・表現力の育成』を読む-」細尾萌子 編著「大衆教育社会における高大接続」高等教育研究叢書164、広島大学高等研究開発センター、2022年3月。
 
Web資料21-1<https://statresearch.jp/school/university/students_5.html

 





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