八ヶ岳南麓山鳥亭の日常を綴ります。
 
2021/05/02 15:30:00|教育
高大接続について(10)
写真:尾白川渓谷(クリックするとより鮮明な画像が見れます。)

断章
 
ここまで、高大接続をテーマにいろいろな文献を参照しながら論証を試みてきた。前後の関係で、文章中に取り上げなかった資料の中にも、大事なピースとして記憶に残った断章がいくつかある。忘れないうちに、書き留めておこう。
 
断章1: 弁護士の江川紹子さんが取材に応じて『社会から「熟考」がなくなったと感じています』と語っている(毎日新聞連載「安倍政権が残したもの」2020年9月24日)。選択肢の①~⑤のどれかを選ぶことで問題が解決してしまう世界に浸っていると、この世で起こる物事が全て①~⑤のどれかに帰着するような錯覚を抱くようになるのではないだろうか。①と②を合わせて2で割ったのが答えじゃないかとか、いやいや⑥や⑦の可能性もあるのではないか等々、熟考していたら次の問題に移れない。
 
断章2: 上西充子さん(法政大学キャリアデザイン学部)は、「教員がそれら(学生自らの意見)を一つ一つ読み、添削し、フィードバックし、学生が書き直す。思考力や表現力とは、こうしたプロセスを経て養われるものです」と述べている(第6項で引用)。その通りだと思う。学生が提出した文を教員が読み、添削し、学生が書き直すプロセスが、学生の思考力・表現力を高めるだろう。添削と書き直しのプロセスは、学生に今一度よく熟考するようにと示唆することになるから、上記の江川氏の発言と、上西氏の発言には共通する部分がある。
 
断章3: 細尾萌子氏の「イレ―・ド・シャルドネ高校の歴史・地理担当のルサージュ教員は、『作文を書くには思考しなくてもよい』とさえ言っていた」を、第6項で引用した(細尾、2020)。第6項を書いているとき、この証言の意味がよく分からなかったので、「この項では、書く力と思考力の関係は一旦棚上げしておいて」と逃げを打った。今、筆者はこの発言を次のように解釈している。フランスにおける論述(ディセルタシオン)は、一定の形式に則って行われる作文である。リセ(普通科)の最終学年(日本流に言うと高校3年)の生徒達は、週4時間の哲学の授業を受けて、この論述の形式を繰り返し練習する。上記の「作文を書くには思考しなくてもよい」は、極端な発言だが、論述の形式が頭に定着すればそう深く考えなくても形式的に整った作文が書けるという意味だろう。自転車に乗るようなもので、一旦乗り方が身につくと、ハンドルやペダルのことを考えなくても乗れるというのに近い。そうなると自転車に乗ってどこに行くかに頭を使うことができるのと同様、論述の形式が十分身につけば、何をそこに盛り込むかについて考えることができる。一見するところでは、書く力と思考力とは関係ないと言い切っているような発言だが、実は、書く力が身につけば、より遠くまで思考を及ぼすことができるという意味、と解することができる。((注)哲学が週4時間になったのは、2020年度生から。それ以前は文科系週8時間、経済社会系週4時間、理科系週3時間だった。2020年度の最終学年生から系による区別は廃止された。(大場淳,2020))
 
断章4:イタリアは教育の面では、日本と対極にある国の一つだ。「違和感のイタリア 人文学的観察記」(八木宏美 著)によると、「高校卒業の国家試験のイタリア語は論文形式で、いくつかの与えられたテーマの中から好きなテーマを選ばせ、六時間かけて書かせる」とある。単に試験形式の違いだけではなく、授業そのものが違う。「ある高校では、ファシズムについては網羅的に64の解釈を教えていた」と紹介されている。「カフェ・デ・キリコ」(佐藤まどか 著)は、亡くなったイタリア人の父の故郷であるミラノへ移住した中学生・霧子の物語である。霧子は、編入したばかりの中学校で、教師から口頭テストに答えるよう指名される。少し長くなるが引用する。

口頭テストで指名されると、教壇の前に出ていって、15分から20分もの間、教師と生徒の一対一の質疑応答戦になるのだ。(中略)
「民主政治が生まれたのはいつの時代で、どういう背景のもとに生まれたのか、詳しく説明しなさい」
「えっと、そ、それは古代ギリシャの時代のことで・・・」
教室内で笑い声が起きる。
「そんなおおざっぱなことは、小学一年生でも言えるぞ」


日本の授業風景とはずいぶん違う。先に引用した「違和感のイタリア」の著者・八木宏美は、日本とイタリアの違いを「そぎ落し文化とつけ加え文化」の違いと分析している。日本では、簡潔な要約が常に珍重されるのに対し、イタリアでは生の情報を付け加えることに心血が注がれる。それだけ無駄も多いのだが、新たな創造への萌芽が含まれる可能性もあると著者は指摘している。このように思考の方向が違うと、現実の理解の仕方が根本的に違ってくるだろう。イタリア人は現実を複雑なものとして、そのまま理解しようとするが、日本人は現実のいくつかの側面を捉えることによって理解する。地中海を越えて難民が押し寄せる状況にあってもイタリアという国はなんとなく余裕があるように見える。これが日本なら、もっとヒステリックなことになるのではないだろうか。イタリア国民は、難民を社会の新たな要素として「つけ加え」ていくのだろうか。
 
参照文献 
 





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