八ヶ岳南麓山鳥亭の日常を綴ります。
 
2021/10/18 10:50:00|旅行
諏訪周遊(1)
前回の投稿で紹介した講演会は、盛況のうちに終了しました。いずれは地元の人たちに話をしたいと思っていたので、今回それが実現して嬉しかった。準備と広報に尽力してくださったコロボックル会議の皆さんに感謝します。YouTubeに動画を掲載してもらっています。
よかったら下記のリンクでご覧下さい。

前編
https://youtu.be/JlqFvM9n3Qw

後編
https://youtu.be/NFCscTBksik

講演の資料作りで疲れがたまった感じなので、諏訪湖畔のホテル紅屋に電話をして予約した。諏訪湖周辺は何度も行ったことがあるが、「諏訪式(小倉美恵子 著)」を読んで、いくつか改めて見学したいところがあった。ここでは、まず1日目に訪ねた島木赤彦記念館と、二日目に訪ねた今井邦子記念館について書く。
 
島木赤彦記念館で目を引いたのは、今井邦子宛ての手紙である(以下、展示内容による)。なんでも、赤彦が邦子の歌集を批評したところ、邦子が電話をかけてきて異議を唱えたらしい。それについて赤彦は、よほど驚いたのか、「拝啓 ただ今の電話意外に思いました 私の批評のどういう所がそんな刺激を与えたのか小生呆然とする」(仮名使いは現代風に修正)と電話の直後に書いた手紙のようである。批評と言うのは、邦子の歌集「光を慕いつつ」について、赤彦が短歌雑誌「アララギ」に書いた批評である。その批評文も展示されている。赤彦は、邦子(批評文には山田邦子と旧姓で書かれている)の歌は「しっかり自己の問題を捉えようとする。これが生命を生み、力を生む」とずいぶん褒めている。だから、赤彦としては、異議の電話を受けて訳が分からなくて「呆然」とする他なかったのだろう。電話の後、はっと我に返って、これではいかんと筆をとった赤彦の慌てる様子が目に浮かぶ。邦子は何に腹を立てたのか。想像する他ないが、批評文の冒頭部分には「万葉集以後一千年が間女流歌人は殆ど空しい」云々と、女流歌人一般を貶める文が続いている。邦子はこれに反発したのではないだろうか。
 
件の手紙は大正5年(1916年)7月2日付である。手紙の末尾でなるべく早く会って、互いの真意をとことん話し合おうと書いている。筆者は、これを読んで、赤彦と邦子はその時点で直接の面識はなかったのかと思ったが、「今井邦子の短歌と生涯(堀江玲子 著)」には「邦子が赤彦に初めて会ったのは、大正2年の夏であった」と書いてあった。その時の様子として、「アララギ」の赤彦追悼の号に邦子は、知人に赤彦宅に同道するように勧められたのだが「信州の教育家のような方(筆者注:赤彦のこと。当時、赤彦は諏訪郡の教育行政に携わっていた)には、(私の歌は)いれられ難い所のある事を知って居たから、-(中略)-何だか恐ろしいようで」と断りたかったけど、たっての勧めに根負けした格好で訪問した。会ってみると存外に優し気だったみたいだ。別のところで邦子は赤彦の物言いを「いつものあの暖かい調子でお答えくださった」と書いている。これは邦子が赤彦に入門することを願い出たときのことである。入門の時期は大正5年のいつかだけど、上の手紙の後か先か分からない。同年5月3日に赤彦に連れられて伊藤左千夫の墓参りに行ったと「今井邦子の短歌と生涯」に書いてあるから、邦子が赤彦に異議の電話をしたのは、入門直後ではないだろうか。ともかく、入門直前あるいは直後という時期に、お師匠さんの言い分が気に入らないと電話して、お師匠を慌てさせるのだから、邦子さんはずいぶん気性の勝った人だったのだろう。
 
今井邦子記念館(写真)にも赤彦の邦子宛の手紙が展示してある。こちらは大正2年11月22日の日付だから、赤彦が邦子に注目してまだ日も浅いころだろう。その中で赤彦は「小生の歌は静かにして往々乾燥枯淡に陥るを恐れおり候貴下の歌を見てうれしきは静かにして同時に生動の力加はる點にあり候 云々」と褒めちぎっている。自作を、「筋と骨が勝ちて肉と血が枯れ・・・」とも書いている。赤彦の代表歌の一つ
 
みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ
 
これなんかは、さしづめ筋と骨だろう。
が、状況によっては赤彦の作にも「肉と血」が通う情熱的なものがある。
 
上に書いた「いつものあの暖かい調子」から赤彦の人柄が偲ばれるが、同様のエピソードを長くなるが紹介しておこう。赤彦33歳、塩尻の広丘小学校校長として赴任していたおり、新任教師の中原静子が赴任してきた。静子は妹の病気のために着任が送れたことを気に病んで、「もう胸がどきどきして、第一、校長先生はどんな方だろう、きっと立派な洋服を着て、ピンと髭をはやして、きちんと椅子に納まっていらっしゃるに違いない。と想像しては、まず何とお話ししていいかなど、あれこれと考えに乱れて足を運んだ。おそるおそる、まず校内にはいった時、石垣根に添って草むしりをしていられる人が見受けたけれど、私はちょっと礼をしただけで玄関に進んだ。そして「御免下さい」と申し上げたけれど、ちょうど授業時間中とみえてどなたも御返事がない。しかたなくさびしく玄関に立っていたら、手の砂をパチパチ打ち落としながら、今草むしりをしていた方が近寄って来られ、私より先に「中原さんかい。お妹子さんはどうだい。手紙を見てくれたろうに。遅れたって構わないんだよ。無理して来てくれたのじゃないかな。さあおはいり」と先に立って職員室にご案内くださった。」(中原静子『桔梗が原の赤彦』、評伝 島木赤彦(神戸利郎 著))
 
当時単身赴任だった赤彦は、その後、静子に恋愛感情を持つようになる。情熱的な歌の例として、赤彦がおそらく静子を想って歌った作を1首だけ書いておこう。明治43年ごろの歌:
 
夏の日のいきれの中にわぎもこの丈けはかくろふ我が腕のへに
 
 
筆者自身、赤彦のことをストイックな石部金吉と思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

 
 





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