然しながら自我の無限なる反省可能といふことも、かのボルツァノに於ける眞理へ無限に多くあるといふ論證と同樣に、或る形式的なものであり、從つて少くとも?史を考へる立場にとつては或る空虚なものであり得る。さうであるべきでない限り、われがわれを省みるといふことは、かの發心または更生といはれる場合の如く、われが新たに生れるといふ意味をもつのでなければならぬ。然るにかくの如きことは、宗教家がそれを神の恩寵に歸して説明するやうに、純粹に内在的な立場からは眞に理解され得ない。そこではまさにわれそのもの、意識そのものが新たに生れることが問題になつてゐるのであるからである。そのやうに、?史はわれそのもの、意識そのものの生まれるところから始まる。われといはれ、意識といはれるものも、生れたもの、作られたものとしては存在と考へられなけならぬ。このやうにわれそのものを作り、意識そのものを生むところのものこそまさしく我々が事實と呼ぶものである。われは事實に於て絶えず新たに作られつつある。そして意識を生むものは固より意識に内在的なものであることが出來ない。事實は寧ろ意識を絶えず破るところのものである。事實はまことに超越的なものである。たとひ存在が或る意味では内在的なものと考へられねばならぬとしても、事實は決して内在的と考へられ得ないものである。 |