平野謙氏の‘’記憶違い”とその‘’自家訂正‘’を手掛かりにしつつ、戦時下の「近代の超克」論をわれわれに再検討するための視座設定を図っておいた。 本章では、より具体的的に歴史的な状況を勘案することによって、認定の基準を対自化しておきたいと念う。 「太平洋戦争下に行われた『近代の超克』論議は、軍国主義支配体制ので『総力戦』の有機的な一部分たる『思想戦』の一翼をなしつつ近代的、民主主義的な思想体系や生活的諸要求の絶滅のために行われた思想的カンパニアであった」。ーー小田切秀雄氏の子の規定はそれ自体としては正しいというべきであろう。しかし、このことから、人学もし短絡して、「近代の超克」論議が当時の国家権力によって全面的にバックアップされていたかのように想像するとすれば、それは歴史の実態に合わない。 『文学界』誌上のシンポジウムと並んで車の両輪をなしに『中央公論』誌上の座談会のごときは、実は‘’弾圧”の対象になった程なのである。京都学派の高坂正顯氏の論文「思想戦の形而上的根拠」(『中央公論』昭和十八年六月号)が当時雑誌の‘’統制”をおこなっていた陸軍報道部から厳しく糾弾されただけでなく、京都市の‘’近代化超克”座談会の第一回目「世界史的立場と日本」(出席者は高坂正顯 高山岩男 西谷啓治 鈴木成高の四氏、『中央公論』昭和十七年一月号)以来、当局にとって「不快」なものとされ、「批判」の間とになっていた。そして、もし海軍報道部と陸軍報道部との‘’暗闘”がなければ、京都学派は徹底的に排撃されたであろうともいわれる(畑中繁雄『覚書昭和出版弾圧小史』、黒田秀俊『昭和言論史への証言』などを参照)。御大西田幾多郎ですら、昭和十八年年夏の時点には「西田哲学排斥」「京都学派撲滅」運動の鋭鋒にさらされたのであった。 |