| ドイツ観念論 | | 小職が20歳の時、夏休みを利用してドイツに行った。 そこで、ドイツ語学学校の先生が、 ハイデルベルク大学で実際にヘーゲルが 講義した教室を私のために特別に見せてくれた。 今では懐かしい思い出であると同時に、 ドイツ人は古いものを大切にした中で 新しいものに挑戦する国民性なのだなと実感した。
ドイツ観念論の哲学者(写真)たち。 カント(左上)、 フィヒテ(右上)、 シェリング(左下)、 ヘーゲル(右下)
ドイツ観念論(ドイツかんねんろん、ドイツ語: Deutscher Idealismus)は、18世紀末から19世紀半ばにドイツの主にルター派地域において展開された哲学思想である。 目次 [非表示]
ドイツ古典主義哲学やドイツ理想主義哲学とも呼ばれる(これらのような呼称にした場合、該当する思想家が若干異なることがある)。マルクス主義を国家理念の嚆矢とした国々では、ドイツ固有で且つ労働者外的な思索だという意味づけでドイツ市民的観念論(独: der deutsch-bürgerliche Idealismus)と呼ばれたが現在この呼称は廃れている。後述するが、これらの名称は19世紀後半からの哲学史研究のなかで生じたのであり、ドイツ観念論に分類される思想家たちが、こうした名称を用いたわけではない。 イマヌエル・カントの批判哲学およびそれに対するフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービの批判に刺激され、神または絶対者と呼ばれる観念的原理、の自己展開として世界および人間を捉えることをその特徴とする。フランス革命の行動性に比して、宗教的観照という穏健さにある。プロテスタント神学に近接している。 哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、 フリードリヒ・シェリング、 ゲオルク・ヴィルヘルム ・フリードリヒ ・ヘーゲルのほか カール・レオンハルト・ラインホルト、 フリードリヒ・ヘルダーリン、 カール・ヴィルヘルム・フェルディナント・ゾルガー、 神学者フリードリヒ・シュライアマハーが ドイツ観念論の主要な論者とみなされる。
なおカント自身がドイツ観念論に属するかどうかは、研究者により見解が分かれるが、カント哲学とドイツ観念論を分けて考える学者が多い。その根拠は、あるいはドイツ観念論に含まれる思想家がカントとはその時代に哲学的に対立関係にあったという哲学史的な事情、またカントが認識理性の対象ではないとした神(物自体)が、ドイツ観念論では哲学のもっとも重要な主題であり、知の対象とされる両者の哲学上の立場の違いに求められる。一方、カントにおいても物自体は実践理性の要請であって哲学体系の中におかれており哲学の主要な主題であること、さらにはドイツ観念論の主要な論者はカントから出発して自己の体系を構築したことを重視し、ドイツ観念論の初めにカント(のコペルニクス的転回以降)をおく哲学史家もいる。これに対してドイツ古典主義哲学は、カントとドイツ観念論の連続性を重視し、カントを含む呼称である。 |
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| 田辺 元 | | 田辺 元(たなべ はじめ、1885年2月3日 - 1962年4月29日)は、日本の哲学者。旧字体で表記した場合は田邊 元となる。西田幾多郎とともに京都学派を代表する思想家。元京都大学教授、京都大学名誉教授。1947年帝国学士院会員、1950年文化勲章受章。
東京に生まれる。父は、東京の開成中学の校長を務め、逗子開成や鎌倉女学院を設立した田辺新之助。弟は黒田清輝に学んだ東京美術学校教授の田邊至。ピエール・ベール著作集の翻訳などで知られる東京都立大学教授、仏文学者の野沢協は甥。なお、田邊の夫人は藤村操の従姉妹である。したがって田邊がのちに対決することになる西田幾多郎の最初の全集の編者に名を連ねている安倍能成と田邊は、義理の従兄弟同士となる[1]。安倍は藤村の妹を妻としているからである。
東京帝国大学理科に入学後、文科哲学科に転科、卒業。転科には、同様の軌跡を辿った一高時代の狩野亨吉校長に相談にのってもらった。のち沢柳政太郎総長下の東北帝国大学講師に就任。1918年「数理哲学研究」で博士号取得。翌年京都帝国大学教授の西田幾多郎は、みずからの後継者として田辺を京大に招聘して助教授として迎え入れた。田辺の処女論文1910年「措定判断に就いて」には既に西田哲学の影響が見えるという意見がある[2]。その第2論文1913年「物理学的認識に於ける記載の意義」からは、西田哲学への明示的言及が始まる。西田の『善の研究』が書籍として出版(1911年)される以前、その思想が専門誌で発表されたばかりの時期に田辺の処女論文は出版されているので、田辺は西田哲学の最初の理解者の一人といえる[3]。1922-3年にはドイツに留学し、フッサールやハイデガー、オスカー・ベッカーなどと交流した(1924年1月帰朝)。
昭和20年3月京都大学教授を退官し、終戦間際の7月に浅間山北麓の群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢に移住し、以後ほとんど当地へ隠遁的生活を送り、1950年の文化勲章受章の際さえ代理で済ませた[4]。寒冷地での健康を心配した門下生の下村寅太郎と唐木順三が温暖な箱根への転地を勧めても、固辞した。弟子の高山岩男が隠遁の理由を直接伺ったところ、「下界に下りてアメリカ兵や敗戦後の日本人の頽廃を見るのが耐えられぬこと」、「帝国大学教授として日本を悲運に導いた応分の責任を感じ、この責任を感じれば感ずるほど、畳の上で楽な往生を遂げる資格はない」と考えたからであるといわれる[5]。
1948年『懺悔道としての哲学』を発表した際には、日本の戦争責任を懺悔道という捉えようのない普遍の中に解消してしまったとの批判もあった[6]。
1951年『ヴァレリイの藝術哲学』を筑摩書房から刊行。同年、高山岩男が『場所的論理と呼応の原理』を刊行し、田辺に献本したところ、書簡にて「感謝感激を禁ずることができず、眼頭が熱くなるのを覚えました」と絶賛した[7]。 1952年には長野県の小、中学校教員で組織する信州哲学会のために「哲学入門」を講義した。
晩年、作家の野上弥生子と密かな恋愛関係にあったことが最近判明。その往復書簡300通余りが岩波書店から刊行されている。田辺の弟子に辻村公一、高山岩男、唐木順三、土井虎賀寿などがいる。
数理・科学関係の著作が目立ったドイツ留学以前の前期では、新カント派、特にマールブルグ学派、ヘルマン・コーエンの微分の哲学の影響を強く受けたが、新カント派の論理主義には反対し直観を重視する。処女作以来、西田哲学の影響が見られることも、その現れである。
留学中は特に『存在と時間』で一躍有名になる前のハイデガーに個人教授を依頼し交友した。後に『存在と時間』に登場するハイデガーの前期思想を最初に日本に紹介したのは田辺である。
ドイツ留学後は、カントの目的論を通して、弁証法研究を開始する。最初、新カント派の哲学で弁証法を理解しようとして挫折し、その結果、弁証法を自分の哲学の中心に据えることとなる。その弁証法はヘーゲル、マルクスの弁証法の欠点を乗り越えたとして絶対弁証法と呼ばれた。また、このころから西田哲学を厳しく批判し始める。 絶対弁証法の立場を得た後は、それを基礎に、社会存在の論理である種の論理の建設に着手。しかし、本来は国家を第一原理にしつつも、国家の暴走を防ぐための哲学であった種の論理は、次第に国家主義的傾向を持ち始め、田辺は、後にこれに悩み一時著作・論文の発表がほぼなくなる。そして、昭和19年の京都帝国大学最後の年の特殊講義と退官講演において、自己の力、そして哲学的理性一般の限界を批判する、懺悔道の哲学が登場し、その哲学は段々と宗教的傾向が強くなる。
懺悔道以後の哲学はハイデガー哲学との対決を意図して展開されたが、その中で、数理の歴史主義展開 数学基礎論覚書 (1954)」、「理論物理学新方法論提説 理論物理学の方法としての複素変数函数論の必然性と、その位相学的性格(1955)」、「相対性理論の弁証法 (1955)」を発表。数理の歴史主義展開の後記、全集12巻の西谷啓治の解説にあるように、これらはハイデガー哲学との対決の結果生まれたものである。田辺は、ハイデガー哲学は前期から大きく変化したが、その変化の傾向に弁証法的な自覚がないとして批判した(数理の歴史主義展開、後記)。 他にポール・ヴァレリー論やマラルメ論も執筆したが、これらの文学論も、ハイデガー哲学との対決を意図する研究の一環であった(『数理の歴史主義展開』後記)。マラルメ論の執筆にあたっては、筑摩書房の編集者井上達三が、フランス文学者でヴァレリー研究者の佐藤正彰の教示をうけ、田邉にモーリス・ブランショ『文学空間』の原著を届け、田邉はこれを精読し、大変影響を受けたという[7]。
1933年、文部省による滝川幸辰京大法学部教授の免官処分に抗議して、法学部の全教官が辞表を提出する動きを見せると、田邊は文学部教授の中で小島祐馬(支那哲学)とともにこれに同調し、学問の自由と大学の自治を守る運動を起こしていた久野収らの指導学生を励ました。
1885年 東京に生まれる 1904年 府立四中(現戸山高校)を経て第一高等学校理科首席卒、東京帝国大学理科大学数学科に入学 1908年 東京帝国大学文科大学哲学科卒 1913年 東北帝国大学理学部講師に就任 1916年 アンリ・ポアンカレの『科学の価値』を翻訳 1918年 京都帝国大学で『数理哲学研究』により文学博士号を取得 1919年 西田幾多郎の働きにより京都帝国大学文学部助教授に就任 1922年 ドイツに留学しエドムント・フッサール、マルティン・ハイデッガーと交流。 1927年 京都帝国大学文学部教授に就任 1928年 マックス・プランクの『物理学的世界像の統一』を翻訳 1935年 『種の論理と世界図式』を発表 1945年 京都帝国大学文学部教授退官 1946年 『懺悔道としての哲学』を出版 1957年 フライブルク大学から名誉博士号を受ける 1962年 4月29日逝去
最近の自然科学 岩波書店,1915/同哲学叢書第2編,1920 科学概論 岩波書店,1922 カントの目的論 岩波書店,1924 数理哲学研究 岩波書店,1925 ヘーゲル哲学と弁証法 岩波書店,1932 哲学通論 岩波書店,1933/新装改版 岩波全書,2005 自然科学教育の両側面 文部省思想局,1937 正法眼蔵の哲学私観 岩波書店,1939 歴史的現実 岩波書店, 1940 哲学と科学との間 岩波書店,1942 政治哲学の急務 筑摩書房,1946 種の論理の弁証法 秋田屋,1947 実存と愛と実践 筑摩書房,1947 懺悔道としての哲学 岩波書店,1948 キリスト教の弁証 筑摩書房,1948 哲学入門 哲学の根本問題 筑摩書房,1949/筑摩叢書,1970 哲学入門 補説 第1 筑摩書房,1949 ヴァレリイの芸術哲学 筑摩書房,1951 哲学入門 補説 第3 筑摩書房,1952 数理の歴史主義展開-数学基礎論覚書 筑摩書房,1954 理論物理学新方法論提説-理論物理学の方法としての複素変数函数論の必然性と、その位相学的性格 筑摩書房,1955 相対性理論の弁証法 筑摩書房,1955 マラルメ覚書 筑摩書房,1961 没後刊行田邊元全集(全15巻) 筑摩書房,1963-64;編集委員は西谷啓治、下村寅太郎、唐木順三、武内義範、大島康正 1巻 初期論文集 2巻 最近の自然科学、科学概論 3巻 カントの目的論、ヘーゲル哲学と弁証法、哲学通論 4巻 初期・中期論文集 5巻 中期論文集 6巻 「種の理論」論文集I 7巻 「種の理論」論文集II 8巻 時事論文集 9巻 懺悔道としての哲学、実存と愛と実践 10巻 キリスト教の弁証 11巻 哲学入門 12巻 科学哲学論文集 13巻 後期論文集、遺稿
現代日本思想大系23 田辺元 辻村公一編・解説 筑摩書房,1965 近代日本思想大系23 田辺元集 中埜肇編・解説 筑摩書房,1975 懺悔道としての哲学・死の哲学 京都哲学撰書第3巻:灯影舎, 2000 仏教と西欧哲学 小坂国継編・解説 こぶし文庫34:こぶし書房, 2003 種の論理 田辺元哲学選1 藤田正勝編・解説 岩波文庫, 2010.10 懺悔道としての哲学 田辺元哲学選2.同上, 2010.10 哲学の根本問題・数理の歴史主義展開 田辺元哲学選3. 同上, 2010.11 死の哲学 田辺元哲学選4.同上, 2010.12
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| 高坂 正顕 | | 高坂 正顕(こうさか まさあき、1900年(明治33年)1月23日 - 1969年(昭和44年)12月9日)は、日本の哲学者。文学博士。専門は、カント哲学。京都学派の一人。西谷啓治、高山岩男、鈴木成高と共に「京都学派四天王」と呼ばれている。
国際政治学者の高坂正堯は次男、実業家の高坂節三は三男。
愛知県名古屋市生まれ[1][2]。 四高を経て1923年(大正12年)、京都帝国大学哲学科卒業。同期に三土興三などがいる。京都医大予科教授となり、三高、同志社大学、京大法学部文学部各講師、東京文理科大学助教授、東京商科大学、武蔵高等学校の講師を歴任[3]。
1940年(昭和15年)、京大教授に就任。1941年(昭和16年)、京都大学人文科学研究所長。戦後、大日本言論報国会理事であったことを理由として公職追放を受ける[4]。1951年(昭和26年)、関西学院大教授。1955年(昭和30年)、京大教育学部長評議員に就任[3]。
1961年(昭和36年)、東京学芸大学学長。1967年(昭和42年)、国立教育会館館長。
『新カント学派――現代の哲学(上・下)』(岩波書店, 1933年) 『歴史的世界』(岩波書店, 1937年) 『カント解釈の問題』(弘文堂, 1939年) 『カント』(弘文堂, 1939年) 『カント学派』(弘文堂, 1940年) 『象徴的人間』(弘文堂, 1941年) 『民族の哲学』(岩波書店, 1942年) 『歴史哲学序説』(岩波書店, 1943年) 『スピノーザの哲学』(玄林書房, 1947年) 『哲学の慰め』(勁草書房, 1948年) 『西田幾多郎先生の追憶』(国立書院, 1948年) 『西田哲学と田辺哲学』(黎明書房, 1949年) 『続カント解釈の問題――法と歴史の諸理念』(弘文堂, 1949年) 『キュルケゴオルからサルトルへ』(弘文堂, 1949年) 『歴史の意味とその行方』(福村出版, 1950年) 『来るべき時代のために希望と反省』(弘文堂, 1952年) 『ハイデッガーはニヒリストか』(創文社, 1953年) 『人間の解釈』(理想社, 1963年) 『西田幾多郎と和辻哲郎』(新潮社, 1964年) 『大学問題と学生運動』(南窓社, 1968年) 『開かれた大学のために』(南窓社, 1969年) 『高坂正顕著作集』(全8巻)(理想社, 1964年-1970年) |
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| 安倍 能成 | | 安倍 能成(あべ よししげ、1883年(明治16年)12月23日 - 1966年(昭和41年)6月7日))は、日本の哲学者、教育者、政治家。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣を歴任。貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長。学習院院長。
医師安倍義任、シナの8男として松山城下の小唐人町(後の愛媛県松山市大街道)に生まれた。松山中(後の愛媛県立松山東高等学校)から第一高等学校、東京帝国大学へとすすむ(ただし、家庭の経済事情より中学卒業後1年間、母校の助教諭心得(講師)として英語を教えているため、第一高等学校進学は1902年(明治35年)のことである)。
在学中、夏目漱石や波多野精一、高浜虚子の影響を受けた。同窓生の一人に、藤村操がおり、その妹・恭子と結婚した。また、一高を中途退学した同期の岩波茂雄との交流は終生続き、後年岩波書店経営方針に深く関与し、岩波の没後には、公式伝記も執筆した。
1906年、東京帝国大学1年生時に、友人が夏目漱石の元を訪問するのに同行して以来、漱石を深く尊敬師事し、後年には小宮豊隆・森田草平・阿部次郎(鈴木三重吉とする説もある)と並んで「漱石門下の四天王」と称された。鈴木三重吉や寺田寅彦との出会いも、漱石を通じてのものであった。漱石が修善寺の大患(1910年)に陥った時、安倍たちが駆けつけると、来たからには「あんばいよくなる」と言われたとの挿話があった。
帝国大学在学当時の哲学科同期生には伊藤吉之助、小山鞆絵、宮本和吉らがいた。同学卒業後、自然主義の文芸評論を手がける一方、慶應義塾大学、一高の各講師、法政大学教授を歴任し1924年(大正13年)にはヨーロッパ留学をしている。帰国後、京城帝国大学教授となり、朝鮮の文化を詳細に検討し、日本人の朝鮮蔑視感情を諌めている。1940年(昭和15年)に、母校一高校長となり名校長と謳われた。その一方で軍部が進める高等学校の年限短縮に反対したり、近衛文麿に早期和平の進言をしたために、憲兵隊から監視対象になったとされている。
戦後は、幣原改造内閣で文部大臣に就任。文相退任後も、帝室博物館総長・国立博物館館長を務めるかたわら、教育刷新委員会委員長として学制改革や教育基本法制定など教育制度改革に尽力したほか、国語審議会会長として当用漢字表、現代かなづかいの制定を推進した(なお後に「新仮名としたのは一世一代の過ちであった」と悔恨。国語学者の山田孝雄から「一世一代の過ちですむか」と叱責されたという)。同時期に新制学習院院長となり、没時まで在任した。
また平和運動にも参画し、岩波書店の『世界』創刊期の代表責任者となり、一方で1951年(昭和26年)結成の「平和問題談話会」の発起人にもなった。戦前・戦後を通じて一貫した自由主義者であり、戦前の軍国主義に対する批判のみならず、戦後の社会主義への過大な評価に対しても批判的な態度を取った。
1966年(昭和41年)、御茶ノ水の順天堂医院で没。享年82。戒名「慈仙院学堂能成居士」。墓地は東慶寺(神奈川県鎌倉市山ノ内、北鎌倉駅近く)にある。
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| 三木清 | | 人生論ノート ⊕
⊗ 目次情報 ⊗
∈ 死について ∈ 幸福について ∈ 懐疑について ∈ 習慣について ∈ 虚栄について ∈ 名誉心について ∈ 怒について ∈ 人間の条件について ∈ 孤独について ∈ 嫉妬について ∈ 成功について ∈ 瞑想について ∈ 噂について ∈ 利己主義について ∈ 健康について ∈ 秩序について ∈ 感傷について ∈ 仮説について ∈ 偽善について ∈ 娯楽について ∈ 希望について ∈ 旅について ∈ 個性について ∈∈ 後記 ∈∈ 解説
⊗ 著者略歴 ⊗
三木清(みき・きよし) 1897(明治30)年、兵庫県生れ。京都帝大で西田幾多郎に学んだ後、ドイツに留学。リッケルト、ハイデガーの教えを受け、帰国後の処女作『パスカルに於ける人間の研究』で哲学界に衝撃を与えた。法政大学教授となってからは、唯物史観の人間学的基礎づけを試みるが、1930年、治安維持法違反で投獄、教職を失う。その後、活発な著作活動に入るが、再び検挙され、敗戦直後、獄死した。
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