このサイトは持続可能な社会を目指して、地球温暖化防止、緑化の推進、世界平和、世界連邦建設等を目的としたものです。左の写真は、尾崎行雄先生と尾崎先生の意思を継承した相馬雪香先生です。相馬雪香先生の教えを受けた人は多数いると思いますが、雪香先生をおんぶしたことがあるのは、私(中澤誠)だけでしょう。
 
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2017/11/07 18:15:11|学者
宇沢 弘文

宇沢(宇澤) 弘文(うざわ ひろふみ、1928年(昭和3年)7月21日 - 2014年(平成26年)9月18日[4])は、日本の経済学者。専門は数理経済学。東京大学名誉教授。意思決定理論、二部門成長モデル、不均衡動学理論などで功績を認められた。従三位。

1983年文化功労者[4]、1989年日本学士院会員、1995年米国科学アカデミー客員会員、1997年文化勲章[4]、2009年ブループラネット賞。Econometric SocietyのFellow(終身)[5]。1976年から1977年までEconometric Society会長[6]。

浅子和美、吉川洋、小川喜弘、清滝信宏、松島斉、宮川努[2][リンク切れ]、小島寛之、岩井克人[3]らは東大時代、宇沢ゼミ出身。デイヴィッド・キャス[1]、カール・シェル、ミゲル・シドロスキーらは博士課程指導学生。ジョセフ・E・スティグリッツ[3]、ジョージ・アカロフらは、シカゴ大学時代、宇沢の授業を受けたことがある。数学者の宇澤達は長男[7]。

経済学者の田中秀臣は宇沢が生前ノーベル経済学賞受賞候補であったと推測している[8]。


鳥取県米子市出身[7]。父時夫は小学校の教師[9]。宇沢家の始祖は江戸中期にさかのぼる[9]。元は米子の南に位置する法勝寺(現在の南部町)というところの出で、のちに米子に移った[9]。生家は代々米屋を営んでいたが破産している(時期は不明)[9]。宇沢家は長い間、男の子に恵まれなかった[9]。全くの女系家族といってよい[9]。父も祖父も婿養子である[9]。祖父は大工だった[9]。父は春日村の農家の生まれで、二十歳そこそこで宇沢家に婿入りした[9]。宇沢が3歳の頃父は教師をやめ、家屋を処分し家族を連れて東京に出た[9]。

東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校を卒業。東京府立一中の同級生に速水融や田中健五がいる[10]。旧制第一高等学校の同級生に寺田和夫、伊藤順(伊藤貞市の子息)がおり、同じラグビー部に所属していた[11][12]。

1951年に東京大学理学部数学科を卒業し、数学科の特別研究生となった[13]。彌永昌吉に数論を、末綱恕一に数学基礎論を学んだが、経済・社会問題への関心から経済学に転じる。


統計数理研究所、生命保険会社などに勤務した後、スタンフォード大学のケネス・アロー教授に送った論文が認められ、1956年に研究助手として渡米。スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校で研究教育活動を行い、1964年シカゴ大学経済学部教授に36歳で就任した[13][14]。専門的な論文として最適成長論や二部門成長論の業績があった[14]。なお、ジョセフ・スティグリッツは、 1965年から1966年にかけて、宇沢の在籍したシカゴ大学の宇沢の下で研究を行った[15]。

1968年に東京大学経済学部に助教授として戻り(翌年教授)[14]、1989年退官した[13]。

日本に帰国以来40年以上にわたり日本政策投資銀行設備投資研究所顧問を務めていた[13]。

成田空港問題では成田空港問題シンポジウムを主催した隅谷調査団の団員として活動した[16]。また、地球的課題の実験村構想具体化検討委員会では座長を務めた[17]。

東日本大震災直後の2011年3月21日、脳梗塞で倒れ、その後はリハビリを続けていた[18]。

2014年9月18日、肺炎のため東京都内の自宅で死去[4]。86歳没。叙従三位[19]。

1928年7月21日 - 鳥取県米子市に生まれる
東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)卒業
1948年 - 第一高等学校理科乙類卒業
1951年 - 東京大学理学部数学科卒業、1951年から1953年まで同特別研究生
1956年 - スタンフォード大学経済学部研究員、1958年同助手、1959年同助教授
1960年 - カリフォルニア大学バークレー校経済学部助教授
1961年 - スタンフォード大学経済学部準教授
1962年 - 経済学博士(東北大学) 博士論文:「レオン・ワルラスの一般均衡理論に関する諸研究」[20]。
1964年 - シカゴ大学経済学部教授
1968年 - 東京大学経済学部助教授、1969年同教授、1980年同経済学部長
1989年 - 東京大学を定年退官、東京大学名誉教授。新潟大学経済学部教授に就任
1994年 - 同大学退官、中央大学経済学部教授
1999年 - 同大学経済学部教授定年退職、中央大学経済研究所専任研究員、国際連合大学高等研究所特任教授
2000年 - 中央大学研究開発機構教授
2003年 - 同志社大学社会的共通資本研究センター所長
2009年 - 慶友国際医療研究所社会的共通資本研究室長
2014年9月18日 - 肺炎のため東京都内で死去。86歳没。


新古典派の成長理論を数学的に定式化し、二部門成長モデルや最適値問題の宇沢コンディションも彼の手による。新古典派経済成長モデルではその成長経路が安定的とされてきたが、宇沢は「安定的」なものではなくむしろ不安定なものである、また経済はケインズ的な失業を伴うという点に着目した[21]。不均衡動学の展開により、アメリカ・ケインジアンたちに挑んだが、自らの着想の定式化に苦心した。


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2015年9月)
健康法はジョギング[7][22]、趣味は山歩き[7]であった。ランニングと短パン姿の宇沢は東京都内でよく目撃されており、新幹線の中でもその姿が目撃されている[22]。
数学から経済学へ転じたのは、河上肇の『貧乏物語』を読み感動を覚えたからと言われる[13]。また、太平洋戦争敗戦による日本の経済困窮をなんとかしたいという希望から経済学に転向したとも言われる[23]。
アメリカのシカゴ大学で「教授」であったにもかかわらず帰国した東京大学でなぜ「助教授」なのかと当時の世界の経済学界で話題となった[24]。日本の当時の大学は年功序列で、宇沢が教授になる年齢に達していなかったというのが理由である[24]。また、アメリカを去った理由の一つとして、当時のアメリカがベトナム戦争にコミットしていたことに抗するところがあった[24]。著書『再検討』で、アメリカの経済学者が、費用便益分析でベトナム戦の殺戮率を計算していたことを批判している[21]。宇沢は「ベトナム戦争は、広島・長崎への原爆投下にも匹敵する人類に対する最悪・最凶の犯罪である」と述べている[25]。
後年は、成長優先の政策を批判する立場に転換した[26]。日本に戻ってから当時の日本の社会問題であった公害による環境問題に関心を寄せ、自動車を批判し、環境運動の先端に立つようになった[24]。1974年に都市開発・環境問題への疑問を提起した『自動車の社会的費用』を発表し、「社会的共通資本」の整備の必要性を説いた[27]。『自動車の社会的費用』は「ベストセラー」[28]や「ロングセラー」[29][リンク切れ]と評された。水俣病問題や三里塚闘争の仲裁にも関わり、地球温暖化に警鐘を鳴らした[30]。地球温暖化の問題では、「(比例型)炭素税」を導入を主張した[2][リンク切れ]。東大教授時代は、電車や車を使わず、自宅からジョギングで通っていた[31]。
大気や水道、教育、報道など地域文化を維持するため一つとして欠かせないと説き、市場原理に委ねてはいけないと主張している[30]。シカゴ大学で同僚だったミルトン・フリードマンと激しく対立し、フリードマンの市場競争を優先させたほうが経済は効率的に成長するという主張に対し、宇沢は効率重視の過度な市場競争は、格差を拡大させ社会を不安定にすると反論した[32]。
吉本隆明は、宇沢のいっていることは何かといえば「緑を大切にしろ」という寝トボケタことばかりで、それで世界的な学者だと喧伝されるのは、「バカじゃねえか」「呆れます」と評している[33]。
東大の経済学部の講義では、自身の思想に共鳴しない学生を排除することもあったため、ゼミの学生がゼロになることもあった[34]。
東京大学在職中に、五月祭のポスターに天使の姿で起用されたことがある[35]。もともとは学生服姿を要請されたのだが「権威的なものを感じる」と拒否した経緯がある。[要出典]
2011年からTPPを考える国民会議の代表世話人を務めていた。
飛行機という手段で移動することに嫌悪感をもっており、海外への渡航にはやむを得ず使うが、国内の移動には沖縄を例外として決して用いようとしなかった。シカゴ大教授時代、羽田からシカゴへの直行便に搭乗する度にベトナム戦争で「ジェノサイド」を行っていた米兵と乗り合わせなければならず恐怖を感じていたことに由来するとしている[36]。

家族・親族[編集]

宇沢家[編集]
(鳥取県米子市、東京都)祖父(大工[9])
父・時夫(小学校の教師[9])
母・寿子(としこ[9])
兄[7]
弟[7]
妹[7]
妻[7]
長男・達[7](数学者)
二男・聡[7](生物学者)
長女[7](内科医)

『自動車の社会的費用』(岩波書店〈岩波新書〉, 1974年)
『近代経済学の再検討――批判的展望』(岩波書店〈岩波新書〉, 1977年)
『ケインズ「一般理論」を読む』(岩波書店, 1984年/岩波現代文庫, 2008年)
『近代経済学の転換』(岩波書店, 1986年)
『経済動学の理論』(東京大学出版会, 1986年)
『現代を問う』(東京大学出版会, 1986年)
『現代日本経済批判』(岩波書店, 1987年)
『公共経済学を求めて』(岩波書店, 1987年)
Preference, Production, and Capital: Selected Papers of Hirofumi Uzawa, (Cambridge University Press, 1988).
Optimality, Equilibrium, and Growth: Selected Papers of Hirofumi Uzawa, (University of Tokyo Press, 1988).
『経済学の考え方』(岩波書店〈岩波新書〉, 1989年)
『学問の自由と経済学の危機』(かもがわ出版:かもがわブックレット, 1989年)
『「豊かな社会」の貧しさ』(岩波書店, 1989年)
『経済解析――基礎篇』(岩波書店, 1990年)
『「成田」とは何か――戦後日本の悲劇』(岩波書店〈岩波新書〉, 1992年)
『二十世紀を超えて』(岩波書店, 1993年)
『地球温暖化の経済学』(岩波書店, 1995年)
『地球温暖化を考える』(岩波書店〈岩波新書〉, 1995年)
『経済に人間らしさを――社会的共通資本と共同セクター』(かもがわ出版:かもがわブックレット, 1998年)
『日本の教育を考える』(岩波書店〈岩波新書〉, 1998年)
『算数から数学へ』(岩波書店, 1998年)
『方程式を解く――代数』(岩波書店, 1998年)
『図形を考える――幾何』(岩波書店, 1999年)
『代数で幾何を解く――解析幾何』(岩波書店, 1999年)
『ゆたかな国をつくる――官僚専権を超えて』(岩波書店, 1999年)
『社会的共通資本』(岩波書店〈岩波新書〉, 2000年)
『ヴェブレン』(岩波書店, 2000年)
『図形を変換する――線形代数』(岩波書店, 2000年)
『関数をしらべる――微分法』(岩波書店, 2001年)
『微分法を応用する――解析』(岩波書店, 2001年)
Economic Theory and Global Warming, (Cambridge University Press, 2003).
『経済学と人間の心』(東洋経済新報社, 2003年)
『経済解析――展開篇』(岩波書店, 2003年)
Economic Analysis of Social Common Capital, (Cambridge University Press, 2005).
『経済学は人びとを幸福にできるか』(東洋経済新報社, 2013年)
『経済と人間の旅』(日本経済新聞出版社, 2014年/日経ビジネス人文庫, 2017年)
『宇沢弘文の経済学 社会的共通資本の論理』(日本経済新聞出版社, 2015年)
『宇沢弘文 傑作論文全ファイル』(東洋経済新報社, 2016年)
『人間の経済』(新潮社〈新潮新書〉、2017年)。講演録
\]
Studies in Linear and Non-Linear Programming, with Kenneth J. Arrow and Leonid Hurwicz, (Stanford University Press, 1958).
(稲田献一)『現代経済学(5)経済発展と変動』(岩波書店, 1972年)
『現代経済学への反省――対談集』(岩波書店, 1987年)
(宮本憲一・石川経夫・内橋克人・佐和隆光)『社会の現実と経済学――21世紀に向けて考える』(岩波書店, 1994年)
(内橋克人)『始まっている未来――新しい経済学は可能か』(岩波書店, 2009年)
『講座21世紀へ向けての医学と医療(4)医療の経済学的分析』(日本評論社, 1987年)
『日本経済――蓄積と成長の軌跡』(東京大学出版会, 1989年)
『日本企業のダイナミズム』(東京大学出版会, 1991年)
『三里塚アンソロジー』(岩波書店, 1992年)


(竹内啓・伊藤誠・石井寛治)『経済学と現代』(東京大学出版会, 1974年)
(鬼塚雄丞)『国際金融の理論――変動相場制と経済政策』(東京大学出版会, 1983年)
(篠原一)『世紀末の選択――ポスト臨調の流れを追う』(総合労働研究所, 1986年)
(河合隼雄・藤沢令夫・渡辺慧)『岩波講座転換期における人間(全11巻)』(岩波書店, 1989年-1990年)
(堀内行蔵)『最適都市を考える』(東京大学出版会, 1992年)
(高木郁朗)『市場・公共・人間――社会的共通資本の政治経済学』(第一書林, 1992年)
(國則守生)『地球温暖化の経済分析』(東京大学出版会, 1993年)
(茂木愛一郎)『社会的共通資本――コモンズと都市』(東京大学出版会, 1994年)
(國則守生)『制度資本の経済学』(東京大学出版会, 1995年)
(國則守生)『地球温暖化と経済成長――日本の役割を問う』(岩波書店〈岩波ブックレット〉, 1997年)
(花崎正晴)『金融システムの経済学――社会的共通資本の視点から』(東京大学出版会, 2000年)
(田中廣滋)『地球環境政策』(中央大学出版部, 2000年)
(薄井充裕・前田正尚)『社会的資本としての都市(1)都市のルネッサンスを求めて』(東京大学出版会, 2003年)
(國則守生・内山勝久)『社会的資本としての都市(2)21世紀の都市を考える』(東京大学出版会, 2003年)
(武田晴人)『日本の政策金融(1)高成長経済と日本開発銀行』(東京大学出版会、2009年)
(大熊孝)『社会的共通資本としての川』(東京大学出版会, 2010年)
(橘木俊詔・内山勝久)『格差社会を越えて』(東京大学出版会, 2012年)
]
『宇沢弘文著作集 新しい経済学を求めて』(岩波書店, 1994年-1995年) ISBN 978-4-00-203160-6 1巻「社会的共通資本と社会的費用」
2巻「近代経済学の再検討」
3巻「ケインズ『一般理論』を読む」
4巻「近代経済学の転換」
5巻「経済動学の理論」
6巻「環境と経済」
7巻「現代日本経済批判」
8巻「公共経済学の構築」
9巻「経済学の系譜」
10巻「高度経済成長の陰影」
11巻「地球温暖化の経済分析」
12巻「20世紀を超えて―都市・国家・文明―」







2017/10/20 15:29:12|学者
土方成美博士喜寿記念論文集

経済体制および経済構造 寡占体制下における価格理論(福田省三)

日本経済の二重構造について(三宅鹿之助)

人口転換過程からみた日本の近代化(館稔)

開放経済下の企業における人的体制(中山三郎)

現行国際通貨制度における金問題(野田利根夫)

社会主義経済の自由化(松平忠晃)

イギリス労働党の経済政策(長守善)

イギリスの産業国有化政策(岡野鑑記)

『資本論』から百年目(日下藤吾)

「レーニンの帝国主義論」批判(佐藤克己)

フーゴー・スチンネス(古賀英正)

経済と統計 経済価値の構造(楠井隆三)

物的流通の管理と組織化(関口猛夫)

不在所有制度論(ヴェブレン著 油本豊吉訳)

統計表と統計図表との分類について(猪間驥一)

明治年間における米収高と米価(中川友長)

随筆 旅を思う心(土方成美) 他21編.






2017/10/19 8:04:23|学者
難波田 春夫

佐藤克己先生同様 難波田先生は 東京帝国大学の土方成美先生の弟子であります。
難波田 春夫(なにわだ はるお、1906年3月31日 - 1991年9月1日)は、日本の経済学者。元関東学園大学学長。

兵庫県出身。東京帝国大学経済学部卒業と共に母校の助手となる。東京帝国大学の土方成美の愛弟子である[1]。1939年の平賀粛学では同僚と共に辞表を提出するものの撤回して助教授に昇進、1945年には経済学研究所所長となるが公職追放で大学を追われる。

追放解除後の1952年に東洋大学教授。その後、東京都立商科短期大学・早稲田大学・大東文化大学教授を歴任する傍ら内外経済調査室理事長を務め、関東学園大学・酒田短期大学では学長となった。

ヴェルナー・ゾンバルトの社会経済学をいち早く日本に紹介し、共同体に基づく統制経済を主張。その独特の主張には、学界のみならず財界や政界に少なからず支持者を獲得した。『国家と経済』に感銘した読者の一人であった慶応大生の伊藤淳二(元カネボウ会長)が、太平洋戦争(大東亜戦争)出征前に難波田(当時東京帝大助教授)を訪問して教えを請い、以後私淑した[要出典]。

1991年9月1日死去。享年85。

弟子に武井昭、田村正勝(早稲田大学教授)など。

『国家と経済』 第1巻〜第5巻(日本評論社、1938年 - 1942年)
『スミス・ヘーゲル・マルクス』(講談社、1948年)
『国家と経済』(講談社、1953年)
『国家と経済―近代社会の論理学―』(前野書店、1969年)
『社会科学研究』(前野書店、1969年)
『日本経済研究』(前野書店、1970年)
『経済社会学研究』(前野書店、1971年)
『難波田春夫著作集』全10巻(早稲田大学出版部、1982年 - 1983年)






2016/09/18 2:13:20|学者
宮地 傳三郎

宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。

1925年 - 東京帝国大学理学部動物学科卒業
1933年 - 京都大学 理学博士 「Studies on the bottom fauna of Japanese lakes(日本湖沼の底棲生物の研究)」[1]

職歴[編集]
1925年 - 京都帝国大学理学部講師(大津臨湖実験所 1991年、生態学研究センターに改組)
1936年3月 - 京都帝国大学理学部助教授(瀬戸臨海実験所)
1942年4月 - 同教授(動物学教室)
1961年4月 - 理学部長(1963年4月まで)
1964年1月 - 定年退官、名誉教授
1964年(昭和39年) - 日本モンキーセンター所長就任
1976年(昭和51年) - 日本モンキーセンター退職


京都大学評議員(1945年9月より1947年9月まで)
京都大学理学部附属瀬戸臨海実験所所長

学外における役職[編集]
日本学術会議会員(1959年11月より)
日本学術会議第四部幹事(1960年1月より)
日本生態学会会長(1960年8月より1971年11月まで)
日本モンキーセンター所長(1964年より1976年まで)
淡水生物研究所所長


学術上の功績主に、湖沼、河川など淡水に棲息する水棲生物の生物相の解明から、底生生物群集の研究、生物指標を用いて湖沼型の分類を日本で行った。後進の育成第二次世界大戦後は生理生態学講座の教授として、後進の研究体制を支援する体制を確立し、多くの研究者を育てた。たとえば今西錦司を中心とした伊谷純一郎などによるニホンザルの研究、およびそれを含む哺乳類社会の研究なども彼の元でおこなわれたもので、日本モンキーセンターの設立に大きな力になった。

内湾のベントス(底生生物(海洋、湖沼、河川などの水底に生活する動物の総称))群集を中心とする類型化の研究
河川における魚類の生息状態、特にアユの縄張りの研究
ニホンザルの社会構造の解析

毎日出版文化賞(1960年) 受賞作『アユの話』
朝日賞(1968年度)
紫綬褒章(1968年)
勲二等瑞宝章(1971年)
中日文化賞(第24回、1971年) 受賞理由「霊長類研究と普及活動」[2]
従三位(1988年)


宮地が停年退官後、京都大学の教室は京都大学出身で九州大学の助教授であった森下正明が引き継いだ。
その森下正明が停年退官後、川那部浩哉が引き継いだ。 杉山幸丸も宮地の流れをくんでいる。


宮地伝三郎 『大連市上水道水源地の底棲生物』 [出版者不明]、1940年。NCID BB03212855。
宮地伝三郎 『動物通信簿 : 随筆』 光文社、1957年。NCID BN13595562。
アユの話 岩波新書、1960 のち同時代ライブラリー 宮地伝三郎 『アユの話』 岩波書店 岩波新書 青-386、1960年。NCID BN01795644。
宮地伝三郎 『アユの話』 岩波書店 同時代ライブラリー 192、1994年。NCID BN11055236。

宮地伝三郎 『動物生態学』 朝倉書店、1961年。NCID BN02657114。
宮地伝三郎 『淡水の動物誌』 朝日新聞社 コンパクト・シリーズ 29、1963年。NCID BN09759804。
宮地伝三郎 『サルの話』 岩波書店 岩波新書 青-603、1966年。NCID BN01802182。
宮地伝三郎 『動物社会 : 人間社会への道標』 筑摩書房 筑摩総合大学 4、1969年。NCID BN02254377。
宮地伝三郎 『原色日本淡水魚類図鑑』 保育社 保育社の原色図鑑 32、1970年。NCID BN02527709。
宮地伝三郎 『宮地伝三郎動物記 全5巻』 筑摩書房。NCID BN0244329X。1972-1973 宮地伝三郎 『十二支動物誌』 筑摩書房 宮地伝三郎動物記 / 宮地伝三郎著 1、1972年。NCID BN02443267。
宮地伝三郎 『なわばり』 筑摩書房 宮地伝三郎動物記 / 宮地伝三郎著2、1973年。NCID BN02443336。
宮地伝三郎 『順位』 筑摩書房 宮地伝三郎動物記 / 宮地伝三郎著3、1973年。NCID BN0244337X。
宮地伝三郎 『本能と文化』 筑摩書房 宮地伝三郎動物記 / 宮地伝三郎著 4、1973年。NCID BN02443405。
宮地伝三郎 『自然との対話』 筑摩書房 宮地伝三郎動物記 / 宮地伝三郎著5、1973年。NCID BN0244345X。

宮地伝三郎 『動物の社会と人間の社会』 富山県教育委員会 精神開発叢書 39、1975年。NCID BN14216295。
宮地伝三郎 『生物学の視座から』 人文書院、1980年9月。NCID BN00716405。
宮地伝三郎 『俳風動物記』 岩波書店 岩波新書 黄-268、1984年。NCID BN00264267。
宮地伝三郎 『十二支動物誌』 筑摩書房 ちくま文庫、1986年。NCID BN09886517。
宮地伝三郎 『岩魚百態』 筑摩書房 渓流の本 3、1987年。NCID BN09589227。
宮地伝三郎 『山女魚百態』 筑摩書房 渓流の本 2、1987年。NCID BN09589271。
宮地伝三郎 『香魚百態』 筑摩書房 渓流の本 1、1987年。NCID BN09589329。

吉津良恭、川村多実二 and 宮地伝三郎 『原色圖解熱帶魚の飼育と観賞』 アルス、1934年。NCID BN15323053。
上野益三、宮地伝三郎 『上高地及び梓川水系の水棲動物 . 附信州の魚類』 岩波書店、1935年。NCID BN13021665。
宮地伝三郎 『有用動物學』 宮地伝三郎(編)、朝倉書店、1953年。NCID BN08633844。
森主一 、宮地伝三郎 『動物の生態』 宮地伝三郎(編)、岩波書店 岩波全書 179、1953年。NCID BN02894834。
宮地伝三郎 『ダーウィニズムと現代の諸科学 : 進化論100年記念』 宮地伝三郎(編)、理論社、1958年。NCID BN10516785。
宮地伝三郎、川那部浩哉、水野信彦 『原色日本淡水魚類図鑑』 保育社 保育社の原色図鑑 32、1963年。NCID BN02527822。
森主一、宮地伝三郎 『動物の生態 第10刷』 岩波書店 岩波全書 179、1964年。NCID BA60285503。
宮地伝三郎、川那部浩哉、水野信彦 『原色日本淡水魚類図鑑 改訂版』 保育社 保育社の原色図鑑 32、1965年。NCID BN03179186。
宮地伝三郎、川那部浩哉、水野信彦 『原色日本淡水魚類図鑑 全改訂新版』 保育社 保育社の原色図鑑 32、1976年。NCID BN01424653。
宮地伝三郎著、佐藤春雄、朝日稔 『全集日本動物誌 3』 講談社、1982年7月。NCID BN06286954。
宮地伝三郎、佐藤春雄、朝日稔 『アユの話 . はばたけ朱鷺 . 日本の哺乳動物』 講談社 全集日本動物誌 3、1982年。NCID BN06286954。
宮地伝三郎、増井光子、林良博 『不思議な動物本能』 リブリオ出版 いきいきトーク知識の泉 : 大きな活字で読みやすい本 . 著名人が語る〈考えるヒント〉 ; 9、1997年。NCID BA3497211X。

セーレル・エイマール、アーブン・ドボア (著) 『霊長類』 タイムライフブックス編集部(編)、宮地伝三郎(訳)、時事通信社 ライフネーチュアライブラリー、1966年。NCID BN06590784。
セーレル・エイマール、アーブン・ドボア (著) 『霊長類』 タイムライフブックス編集部(編)、宮地伝三郎(訳)、タイムライフインターナショナル タイムライフブックス . ライフ大自然シリーズ ; 10、1970年。NCID BN01698998。
セーレル・エイマール、アーブン・ドボア (著) 『霊長類 改訂版 タイムライフブックス ライフネーチュアライブラリー』 タイムライフブックス編集部(編)、宮地伝三郎(訳)、1972年。NCID BN14615428。
セーレル・エイマール、アーブン・ドボア (著) 『霊長類 3版 タイムライフブックス ライフネーチュアライブラリー』 タイムライフブックス編集部(編)、宮地伝三郎(訳)、1973年。NCID BA65476509。
セーレル・エイマール、アーブン・ドボア (著) 『霊長類 改訂版 タイムライフブックス ライフネーチュアライブラリー』 タイムライフブックス編集部(編)、宮地伝三郎(訳)、1973年。NCID BN10301224。
セーレル・エイマール、アーブン・ドボア (著) 『霊長類 改訂版 タイムライフブックス ライフネーチュアライブラリー』 タイムライフブックス編集部(編)、宮地伝三郎(訳)、1974年。NCID BN04532721。
セーレル・エイマール、アーブン・ドボア (著) 『霊長類 新装版 タイムライフブックス ライフネーチュアライブラリー』 タイムライフブックス編集部(編)、宮地伝三郎(訳)、1975年。NCID BN11195097。
セーレル・エイマール、アーブン・ドボア (著) 『霊長類 パシフィカ ライフネーチュアライブラリー』 タイムライフブックス編集部(編)、宮地伝三郎(訳)、1977年。NCID BN05451079。
セーレル・エイマール、アーブン・ドボア (著) 『霊長類 タイムライフブックス ライフネーチュアライブラリー』 タイムライフブックス編集部(編)、宮地伝三郎(訳)、1980年。NCID BN08083583。






2016/07/20 20:32:04|学者
平賀 源内

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年〈1728年〉- 安永8年12月18日〈1780年1月24日〉)は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。

源内は通称で、元内とも書いた。諱は国倫(くにとも)[1]、字は子彝(しい)。数多くの号を使い分けたことでも知られ、画号の鳩渓(きゅうけい)、俳号の李山(りざん)をはじめ、戯作者としては風来山人(ふうらいさん じん)[1]、浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくうち きがい)[1]の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)[2]などといった別名でも知られていた。

平賀源内作のエレキテル(複製)。国立科学博物館の展示。
讃岐国寒川郡志度浦[3](現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門[3](良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされる。後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めている。

幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる[4]。宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。

大坂、京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。宝暦9年(1759年)には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する[4]。このとき「仕官お構い」(奉公構)となり[5]、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。宝暦12年(1762年)には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する。

宝暦13年(1763年)には『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)を刊行[1]。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。

安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。

安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない。


平賀源内墓、さぬき市志度の自性院。
戒名は智見霊雄。墓所は浅草橋場(現東京都台東区橋場)にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。また、その背後には源内に仕えた従僕である福助の墓がある。友人として源内の葬儀を執り行った杉田玄白は、故人の過日を偲んで源内の墓の隣に彼を称える碑を建てた。この墓の敷地は1931年(昭和6年)に松平頼寿により築地塀が整備され、1943年(昭和18年)に国の史跡に指定された。



平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」 (ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)(大意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか
また故郷のさぬき市志度の自性院(平賀氏菩提寺)にも源内の義弟(末妹の婿)として平賀家を継承した平賀権太夫が、義兄である源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために建てたと伝えられる墓が存在する。

一般には橋場の墓が葬墓で志度の墓が参墓(いわゆる両墓制)といわれているが、上記経歴にて前述したように源内の最期や遺体の処され方については諸説ある(上述した高松松平家庇護説に則った場合は葬墓と参墓の関係が逆転する)。

天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。
男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。
『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや〔貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった。〕)とあり、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。
発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布[1]の開発がある。一説には竹とんぼの発明者ともいわれ、これを史上初のプロペラとする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する。該当項目参照)。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。
エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという[6]。
土用の丑の日にウナギを食べる風習は、源内が発祥との説がある[1]。ただし大伴家持が発祥ともいわれている。また明和6年(1769年)にはCMソングとされる歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。
浄瑠璃作者としては福内鬼外の筆名で執筆[1]。時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で[1]、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年(明和元年)に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。
鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。
文章の「起承転結」を説明する際によく使われる、「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説がある。






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