このサイトは持続可能な社会を目指して、地球温暖化防止、緑化の推進、世界平和、世界連邦建設等を目的としたものです。左の写真は、尾崎行雄先生と尾崎先生の意思を継承した相馬雪香先生です。相馬雪香先生の教えを受けた人は多数いると思いますが、雪香先生をおんぶしたことがあるのは、私(中澤誠)だけでしょう。
 
CATEGORY:世界連邦建設に力を注いだ人物

福田 篤泰

福田 篤泰(ふくだ とくやす、1906年10月13日 –
1993年8月7日)は昭和期の男性政治家。
東京都出身。府立三中、旧制浦和高等学校を経て、
1930年東京帝国大学経済学部を卒業後外務省に入省。
情報局秘書課長などを経て吉田茂首相秘書官となる。
吉田の名代として林譲治や益谷秀次との折衝を任されるなど
信頼を得ていた。
1949年第24回衆議院議員総選挙に旧東京7区から
日本自由党公認で立候補し当選、以後当選10回。
吉田系の中央官僚出身政治家にしては珍しく、
保守合同後は大野伴睦派-村上勇派-三木武夫派と、
党人派系の派閥を遍歴している。

入閣歴は豊富で、1959年第2次岸内閣で総理府総務長官、
1963年第2次池田内閣で防衛庁長官、
1965年第1次佐藤内閣で行政管理庁長官兼北海道開発庁長官、
1976年三木内閣で郵政大臣を務めた。
また、戦争で離島を余儀なくされた小笠原島民の要望に応え、
1960年小笠原協会会長に就任、日米両国政府にロビイングを行い
1968年の日本復帰に道を開いた。

1979年落選により政界引退。1977年勲一等旭日大綬章受章。
1993年8月7日死去。享年88(86歳没)。  

世界連邦運動の推進団体・世界連邦日本国会委員会第8代会長である。







朝比奈宗源
小生が高校二年のとき、国際平和研究所レポートのなかに、平和は家庭から始まっている。とのことが書いてありました。目から鱗が落ちた瞬間でした。

臨済宗の僧。円覚寺派管長。
明治24年1月9日、静岡県生れ。号別峰。
日大宗教専門部卒。駒沢大教授。
京都妙心寺、鎌倉円覚寺で修行。
『碧巌録訳註』『臨済録訳註』等の著がある。
昭和54年歿、享年88。

なお、尾崎行雄先生の墓が北鎌倉の円覚寺に
ありますが、これも朝比奈宗源先生との世界
連邦という志の関係であったことが解りました。






清水安三先生と世界連邦

桜美林学園の創設者・清水安三先生は,
玉川学園の創設者・小原國芳先生と計らって,
世界連邦町田支部を立ち上げた方です。
賀川さんは桜美林学園初代理事長であります。
賀川先生は世界連邦建設同盟 副会長がお金をだして
創設した学園と考えてよいのです。
また、尾崎行雄世界連邦建設同盟会長の高弟 佐藤克己先生
も大学で教鞭をとられていたことを考えると
先生の中には世界連邦主義者が多かったことがわかる。

 賀川さんと桜美林学園(『百三人の賀川伝』から)
       清水安三

 大正八年、賀川先生が第一回支那伝道の途次、
北京へ来遊した時、私は、人を介して、
北京見物のガイドを頼まれた。北京飯店の一室をレザーヴして、駅に迎えたところが、「君の家に泊めてもらう」との仰せである。私はまるでザアカイが主イエスから、「われ汝の家に宿らん」と言渡された時のように感激したが、何分その頃私は電話局技師の家に食客生活をしていたので、一応ことわった。
すると先生は「かまわん、僕も一諸に食客になるよ」とのこと。そこで三日間の滞在中、ベッドを並べていっしょに眠ることにした。
 私は賀川さんを万寿山や北海公園や、ラマ廟、孔子廟、
それから天壇、大和殿寺の名所旧跡へ案内したばかりでなく、陳独秀、李大?、胡適、周作人、魯迅等の新進思想家たちにも引合せた。
また支那の斑子(吉原のような所)、貧民娯楽
街(東京の浅草、ニューヨークのコニアイランドみたいな所)をも見せた。

 その頃、私はまだ何の事業にも着手せず、毎日同学会へ通学して、専ら中国語を学んでいた。
私が賀川先生を天橋の泥棒市場(後年私は林歌子女史の後援で愛隣館と称するセッツルメントを天橋に開いた)へ案内した。

「清水君、僕が君だったら、シナのスラムへ飛びこむよ」と賀川さんは言った。
そしてこのことぱを一度や二度でなく、何度もくり返した。
私がシナの貧民街において事業を始めたのも元をただせぱ、賀川さんの示唆によるものだった。

 私はもと組合教会からシナに派遣されていたのであるから、殆んど毎年一度、京阪神、または東京へ帰って来て、年会に出席する機会をもった。
帰朝の都度、私は神戸の新川に賀川さんを訪れた。米沢牧師に伴われて行ったこともあったし、岩間牧師、長谷川牧師と共に行ったこともあった。

 昭和三年、亡妻清水美穂は、京都府立病院で死んだが、彼女は賀川崇拝者で、賀川さんの著書菟集マニアであった。著書ばかりではなく、賀川さんの文章の載る雑誌、新聞はどんなものでも、銭を惜しまず集めていた。
北京で賀川さんの宿をした時、よほど敬服したものと見える。彼女が病篤く、到底再び立ちえぬであろうということが賀川さんの耳に入ったと見え、一日、賀川さんは府立病院の病室を見舞って下さった。
その翌朝、彼女は死んだのであるが、賀川さんに祈って
いただいたおかげだろう、その臨終はまことに信仰的にして、うるわしいものだった。

 昭和十九年賀川さんは北京を訪れ、朝陽門外の拙宅に治まった。私の家は崇貞
学園の寮の一角に設けられていた。賀川さんが泊まった部屋は、ベッドも、机も
椅子も、寝巻も、そのままにしておいて、「賀川屋子」と名づけ、永久に崇貞学
園に遺すことにした。

 昭和二十年の八月十五目、私たちは終戦の詔勅が放送されるのを北京で聞いた。
私は「さあ、大へんなことになった。よし、前途の方針を立てるため、一つ瞑想
にふけることにしよう」と心を定め、一塊の食バンを持って、例の「賀川屋子」
ヘ入り、中から鍵をかけて、三日二晩、自らを座敷牢に開じこめて、瞑想と祈り
の時をもつことにした。

 私は賀川さんのやすんだベッドの傍で脆いて祈り、またその上で眠った。ねて
もさめても、頭の中をぐるぐるまわる問題は、「この後自分は何をなすべきか」
ということであった。私はひたむきに神の声を聞こうとあせった。

 三日目の朝であった。ベッドの側にある小卓の抽出の中に、一冊の本が入って
いるのを見つけた。それは賀川さんの著書で、農村伝道に関するものであった。
このような本を私は買ったおぼえがない。賀川さんがおき忘れて行ったものであ
ろう。

 私は貪るようにその本を読んだ。その中にはデンマークの預言者グルンドヴイ
ッチや、フランスのジョン・フリードリッヒ・オベリンの物語が、かなり詳しく
書いてあった。恥かしいことではあるが、私はその時初めてグルンドヴイッチの
ことを知ったのであった。グルンドヴイッチはデンマークの神父で、土を愛し、
人を愛し、国を愛せよと説き、敗戦後の祖国をみごとに立ち直らせた。

 ジョン・フリードリッヒ・オベリンは、戦争のため焼野原になった故郷アルサ
スへ帰り、学校と教会とを建てた人物である。

 賀川さんの本は私にとってインスピレーションであった。よし、敗戦の日本へ
帰り、農村に入りこみ、学校と教会とを打ち建てる事業をやろうと、私は決心し
たのである。私は自分がそうした召命を受けたのみでなく、呆然としてただ帰国
を待つ日本の兵隊さん達を、北京附近の各兵営に訪れて、グルンドヴィッチとオ
ベリンの物語を講演して歩いた。これは帰国後のことだが、御殿場で開かれた
「イエスの友会」に出席したところ、三方ケ原で、戦車を耕転機に改造して開墾
している除隊士官二人に出逢った。彼らはいずれも、終戦直後、北京で私の講演
を間いて決心したといっていた。

 昭和二十一年三月二十二日、私共は背にリュックサックを負うて、東京駅に辿
り着いた。その頃は大路にすら焦げたブリキ板の破片がころんでいたし、焼け残
った金庫が、かなたこなたの家跡に立っていた。そして町には、トコロテンの外
には、食物を売る店は一軒もなかった。

 私たちは神田のYMCAを宿にしようと思い、これを目標にして帰ったのであ
ったが、YMCAは米軍婦人のアパートになっていて、身をよせるべくもなかっ
た。そこで私たちは神田界隈の旅館や下宿屋を訪ねたが、にべもなくことわられ
た。糸のような雨の降っている日だった。私たちはびっしょり濡れてしまった。
しかし絶望せずに探し歩いた結果、八軒目にやっと一晩だけという固い条件で、
お座敷へ通してくれた旅館があった。それは神田の昇竜館だった。

「昇竜館には一晩しか泊めてもらえない。この分では明日も宿は与えられまい。
明日からは上野のガード下にでも行って寝なけれぱなるまい」と思うと、私は立
ってもいてもたまらず、眠ることができない。そこで床の土に坐して、「神よ、
もししもべに三畳の一室を与え給わば、しもべはこの地に止まって、あなたのた
めに、身を粉にして働きます」といって祈り、かつ訴えた。

 翌日、私はもうかれこれ三力月もお湯に入っていないから、一つ東京名物の朝
風呂を享楽しようと思い、神田の銭湯へ行き、ゆで章魚のようになり、ぬれ手拭
をさげて宿に向かって歩き、小川町の通りまで来ると、ばったり賀川さんに逢っ
た。

「おお、清水君か。何時帰って来たか。生きて帰れてよかったネ。君はこれから
後、何をするつもりだね」

 明治書院の前での立話である。私が「農付へ入り、学校と教会とを建てて、ジ
ョン・フリードリッヒ・オベリンの真似をやるつもりです」と答えると賀川さん
は「そうか、それでは一つ、僕が大きい学校向きの建物を紹介してあげるよ」

と云った。賀川さんは立話をつづけた。それによると次の通りである。前夜、賀
川さんは、片倉組社長片倉直人氏の招待を受けた。それというのは、片倉社長の
邸宅が、米人のために接収されることになったのを、賀川さんがその米人を説き
伏せて、片倉邸の中に同住することを承諾させ、応接室と日本座敷二室だけを提
供して、あとは勘弁してもらうことにしたのであった。何しろ十数室もある大邸
宅のことだから、二室や三室を占領されても片倉家の方は平気である。ところで
賀川さんを招待した席上、社長は、お礼の意味で、片倉組の所有する建物を賀川
さんに提供すると申し出たのである。

 翌二十四日、私は賀川さんの秘書の小川清澄氏に伴われて、武相国境にある片
倉組の建物を見に行った。それは大小八棟から成っていて、十五畳の室が八十室
もある、でっかい建物である。私は三昼の部屋の与えられんことを祈ったはずだ
のに、これはまた大きい建物が与えられたものである。私はあとになって賀川さ
んと次のような会話をかわした。

「賀川さん、あんたが片倉組の社長から、建物の提供を受けたのは三月二十二目
の午後十時頃でしょう」
「そうだ。丁度その頃だ。それは僕が玄間で靴をはいている時だったから、まあ
十時一寸過ぎだったろうよ」
「賀川さん、その日その時刻に、僕は神田、昇竜館で三畳の部屋が与えられるよ
う神に祈っていたのです」

 世にはコインシデンス(偶然の一致)ということがあるが、それはコインシデ
ンスと云うにはあまりにも神秘であった。しかも、賀川さんが招かれて行った片
倉邸と、私の治まっていた昇竜館とは、駿河台の大通りを隔てて、シンメトリイ
をなしており、五百米程の距離にあった。

 昭和二十一年六月五目、片倉組の建物を校舎とした桜美林学園は、理事長賀川
豊彦さんを迎えて、入校式を開いた。後になって賀川さんは三百万円の大金を作
って、この校舎を片倉組からそっくり買収して下さったのである。

 ああ、もしあの朝、私が銭湯の朝風呂に行かなかったならば、桜美林学園は存
在しなかった。

 否、もう五分も、或いは早く、或いは遅く、湯から出たら、今日の桜美林学園
は生まれなかったのである。

 私たちはこの度、賀川さんの大きな写真を頂戴して、学園の大講堂の正面に掲
げることにした。

 また賀川さんの著書をことごとく一冊残らず菟集して、賀川文庫を作ることに
した。その上にこの度、賀川さんのお骨を少し分けて頂いた。そして学園の背景
をなすイースターヒルの頂に五百坪の土地を買い、そこにエパーグリーソパーク
を建設し、賀川さんの遺骨を納めるために舎利塔を建てることにした。また賀川
さんの歌碑もそのパークに建てることになっている。賀川さんは学園の創立費を
作るために、「銀色の泥濘」という短歌集を出版し、その印税をことごとく献げ
て下さったので、学園は歌碑を建てて永久に資川さんを世に伝えようと思うので
ある。これは一つには、賀川さんのご恩を、私たちが忘れていないことを天上の
霊に告げるため、二つには、学園に学ぶ青少年たちが、賀川大先生から、いつま
でもいつまでも大いなる感化を受けることができるようにとの念願から出たもの
である。

 同志社ボーイ、同志社ガールたちは、同志社に、生けるプロフュッサーが多数
いるにもかかわらず、亡き新島襄から大いなる教えと感化とを受けている。その
ように桜美林ボーイ、桜美林ガールたちが、たとえ生ける私たちから学ぶところ
がなくとも、亡き賀川豊彦から教えられ、感化されるようにと、私たちは心から
願うのである。

 東京都町田市矢部町二六九三 清水安三(七十一歳)







相馬雪香(尾崎行雄記念財団副会長,世界連邦運動協会顧問)

尾崎行雄記念財団主催 がく堂塾 1期生 中澤誠相馬雪香先生は、がく党塾塾長でもあります。世界連邦運動協会 顧問に就任されました。 なお、相馬雪香先生は、尾崎三良という明治維新を動かした方の血も引き継いでいるのです。あの坂本龍馬が死ぬ間際にあっていた人物こそ、尾崎三良(幕末の三条家家人。明治政府に仕えて元老院議官・法制局長官などを歴任した。諱は盛茂。別名・戸田 雅楽(とだ うた)であった。 1912年1月26日生まれ。憲政の父・尾崎行雄の三女。 79年、国際NGO「インドシナ難民を助ける会」(現・難民を助ける会)を立ち上げ、難民救済に取り組む。 84年、「尾崎行雄記念財団」の副会長に就任し、国際的リーダーの育成、民主主義と平和思想の普及・啓発に取り組む。 97年、「難民を助ける会」が調整委員団体を務める ICBL(地雷禁止キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞。
思えば、高校2年の時尾崎行雄先生に出会ってから、尾崎行雄先生の高弟 佐藤克己先生の紹介により、相馬先生と26歳の時にお会いしました。それから、がく堂塾で教えをいただき、今日までありがとうございました。
 






世界連邦運動協会の新顧問

世界連邦運動協会の顧問に新たに
次の5氏が就任されました。

アグネス・チャン(歌手・教育学博士)
梅原 猛(哲学者)
河野洋平(衆議院議長)
千 玄室(裏千家前家元)
相馬雪香(尾崎行雄記念財団副会長)


従来からの顧問は、次の方々です。

稲盛和夫(京セラ株式会社名誉会長)
久司道夫(久司財団会長)
尚 弘子(琉球大学名誉教授)
土井たか子(元衆議院議長)







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