新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
CATEGORY:高校文芸集選評

2012/11/15 7:15:32|高校文芸集選評
高校芸術文化祭(文芸部門)表彰式

標記の催しに文学館に行く。
何もかもだが、こちらも1年ぶりだ。部会長のKさん、文学館のIさんなど、いずれも懐かしく面映ゆい。皆、年代的に、次第に公務の中心から離れようとしている。よいことだ。教え子で、今年から文学館に勤務しているFさんにもあう。


時期が修学旅行シーズンだったりして、参加できた生徒は若干少なくさびしく感じた。「文化局」軽視でなければいいが。とはいえ、先生方の強い薦めもあるのだろうが、高校生の年代で、書いたものを人前に出そうという気になるのは、自分の同年代の時のことを考えると、かなり意識的なことだ。プライドも反対にコンプレックスも強い時期だろうに。だからこそ、書かれたものは粗末にはできない。「書くこと」に意欲関心を持ち、若い表現者の一人になって行ってくれればと思う。そうでなくても、それぞれの高校生の内面の発露になればいい。


選考委員が「推敲」の重大さとか、高校生たちにアドバイスをし、入選作の講評をし、三神弘さんの「ものを書き始めた時」の講演を聞く。原稿用紙の中に鳩を飼っていた思春期。


会の後、近所で三神さんとコーヒーを飲みつつ、少しばかり話す。この頃のこと、雑誌「猫町文庫」の件、文学結社・団体の件、深沢七郎のことなど。水木さんにも話して、暖かいものを囲んでちょいとやりたいですねと話してお開き。自分の文章も仕上げておかないと……。


夜、浅川玲子先生と電話で県立図書館のことを話す。開館記念式典が余りにも役所的だったという話。県立県営に留まったことはともかくよかったが、とりわけ「人」に関する部分で、これからが苦になる。


写真は慈雲寺のワンコ。







2010/11/11 19:43:31|高校文芸集選評
2010年高文連表彰式&勉強会
山梨県高校芸術文化祭の文学部門表彰式に出てきた。
行きは小説の三神弘氏と同道。

三神(小説)、井上康明(俳句)、私(エッセイ及び文芸評論)が選評を述べる。
今回、選考委員の出席は3人だったので、1時間半で終了した。

毎年、ことばによる表現を試みる高校生たち、その作品との出会いが、忙しいが、楽しい。
表現活動を諦めないうちは、そして、それを「ひと」に見せているうちは大丈夫だ、と思う。
見せるのが、ネットなんかでなくて、アナログの文字であってほしい。
そこには書き手も読み手も「顔」が見えるから。

それにしても、文化部の活動、とりわけ文芸となると、大方女子だ。
男子も出でよ!!

このブログには、平成9年からだったか、過去の私の選評もアップしている。
今年のものも載せることになろうが、彼らの作品が読めなければ、選評の意味も半減、四半減するだろう。
なかには、今や新進の映像作家・中島良へのエールも含まれているのに。

高校文芸集選評






2008/11/26 13:30:27|高校文芸集選評
不自由な言葉だからこそ(H18)
「話せばわかる」
「問答無用」
 後は銃声がこだまするばかり。
一九三二年五月一五日、軍人たちが首相官邸に突入して犬養首相を暗殺したいわゆる五・一五事件である。
冒頭のやりとりの前者は犬養首相、後者は決起した軍人たちで、この事件の悲劇性を象徴している。
前者は言葉による分かり合いや問題解決を無限に信じている。
後者はそれを一切信じない。
その後の歴史の車輪は言葉を信じない、すなわち歴史を信じない者達が回していったのは知ってのとおりだ。

 言葉による分かり合いを無限に信じるのも、残念ながら、誤りだし、信じないのはもっと悲劇的である。
分かり合いたい、分かり合うにはどうしたらいいかと不完全な言葉にいつも悩みながら、我々は言葉に頼るほかないのである。

 このところ家族や友人・恋人同士、学校といった人間の小さな単位から、組織、地域、国、国と国といった大きな単位に至るまで、人と人とはどうやって分かり合うのだろうと考えさせられる情況が多い。
手紙、電話からラジオ、テレビ、メール、インターネットと伝達手段はより遠く、より広く、より速く発達するのと反比例して、ますます分かり合えなくなり、分かり合える範囲はどんどん狭くなって行くようだ。
「話せばわかる」と「問答無用」の両極端の考えや行動が横行するのは恐ろしい。

 思うに、この発達の仕方に大きな問題があったのではないか。
いや、このような伝達手段に頼りすぎてしまったことが間違いだったのである。
より遠く、より広く、より速く伝達することを目指せば目指すほど、一人一人の人間の姿は見えなくなる。
一人一人が抱えている思いや暮らしなどへの想像力は働かなくなる。
伝達方法はますます間接的であり、筆跡や肉声や表情はどこかへ行ってしまうのだから。

 我々はメールやネットあるいはマスコミニュケーションの限界を知っておかねばならない。
そして、いっそう直(じか)に、慎重に、話し、聞かなければならない。
それも家族、友人、知人、世代、性別、人種を越えて。
少なくとも自分からそういう機会を狭めてはいけないだろう。

 伝達方法が間接的になり、相手の「顔」見えなくなればなるほど、伝えたいことをいかに簡潔に、なるべく忠実に「書く」か、また、必要な情報をいかに的確に「読む」かについていっそう苦心しなければならないだろう。
言い換えれば、誤解を生みやすい感情的な言辞や借り物の決まり文句を「書く」ことはしない、主観的に自分に都合良く「読む」ことをしないという点である。
「顔」が見えない場で「書く」行為はサディスティックな言辞を連ねやすく、ロマンチックな表現を使いたがる。
そこでの「読む」行為は書かれた言辞にむやみに激昂しやすくなったり、過度に感情移入し過ぎることがある。
昨年の佐世保の小学生の不幸な事件は、こういう背景の中で起こってしまったものだ。

 インターネット、メールの時代だから、「書く」「読む」ことの修練は不要だ、もっと気軽に扱っていいのではないかとは決して言えない。
それどころか、そういう時代であればこそ、いっそうきちんと「書く」ことができ、「読む」ことができるような努力が必要だろうと思う。

 今年、毎日でなくともいい、思ったこと、感じたことを書きつける君の「心のスケッチブック」を持ち歩いたらどうだろう。
これは評論、随筆の練習のためというばかりではない。

評論部門

 山梨学院大附属の鬼頭君は今年も「舞姫の魅力」という力作を寄せてくれた。
あまり好感度が高くなかった森鴎外という文学者は、小説「舞姫」を読んでも印象はあまり変化しない。
けれども、鬼頭君はその文体「擬古文」の力に注目するところから表現の問題に気付き、ベストセラーの「セカ中」「電車男」にも触れながら、「話し言葉=書き言葉で、それが文学を創造し得るだろうか」と書き付ける。
ここには、話すとおりに書く、書けるなどということはありえない、少なくとも簡単にはそれはできないという大事な気づきがある。

 甲府東の藤川さんの「『山梨の民話』を考える」は、民話、伝説から環境問題や現在の身の回りに思いをはせる。
民話・伝承は確かに子ども向けや昔懐かしさで終わらせてはもったいない。
新設の県立博物館の展示にも通じる、我々の親やそのまた親やもっと昔の親が体験してきた生活がそこには反映しているのではないか。
藤川さんが民話に触れることで「未来も見えてきた」と書き付けているのは、とても心強い。

 甲府東の川澄君の「偶然が生み出した実感」は一見小説的に始まる。
これから何が起こるのだろうと思わせる。
実は「どこにでもあるような、海辺の一般的な土地」への小旅行の印象なのだ。
同じ横須賀線を舞台にとった芥川龍之介の小説「蜜柑」を読んだ後、川澄君は「目に映る」人間のふるまいで土地への印象が暖かくも美しくも変わることに気付く。
川澄君にとっての「蜜柑」に当たるものが書かれていればさらに良かったと思う。

随筆部門

 甲府南の佐藤さんの「ツバメの旅立ち」では、毎年作られるツバメの巣、そこにやってくるツバメの家族を見つめ、見つめ続ける視線の温かさが印象的だ。
この温かさは、そのまま気取らない、素直な文章となって現れていて、とても気持ちのいい随筆となっている。
身近を見つめることの心地よさを教えてくれる。

 甲府東の飯塚君の「暇」はやらねばならないことばかり多くため息ばかり出る現在の日常から始められる。
一冊の本は、飯塚君に少年時代の、自分が「元気に時間を泳いでいた」日々を思い起こさせてくれる。
あの頃と今と、なぜ時間がこうも違って感じられるのか。
「時間に追われているという錯覚」に気付き、その「錯覚」こそが自分を「制限しているのだ」と気付く結末にはほっとさせられる。






2008/11/23 15:43:53|高校文芸集選評
論じること(H19)
文芸評論・文芸研究 H19

 評論とは当面自分の中に芽生えた結論を人に納得させる作業だ。

 結論を得るきっかけ=対象は事象であっても、文学作品であってもよい。
自分はこの対象からこういう考えを得た、こう読み解いたという内容を説き明かすのである。
それは、もちろん、対象に対する肯定でも、否定でも、違う領域に及んでもかまわない。
「誰がなんと言おうと自分はこう思うのだ」というのは、感想であっても評論ではない。
感想が評論に高まるには、かなり用意周到な仕掛けが必要になる。
読む方だって、一方的に書き手に説得されはしないだろうから。
読み手は刻々反発や批判、あら探しをするだろう。
書き手は例を挙げ、論拠を説明し、反発や批判の種はできる限り封じておかねばならない。

 ずいぶんやっかいなようだが、こういう頭の使い方は常日頃やっていることだ。
ただ、日常では「なんとなく」感情的に反感や抵抗感を抱いて済んでいることも多い。
故意に抑えていることもある。
「売り言葉に買い言葉」で思ってもいない反応をしてしまうこともあるだろう。

 うっぷんを晴らすためだけではない、自分を強くするためにも、一人、ことばを書き付けていく評論のかたちがある。

 中島雄斗君(都留高)の「ウルトラマンの宗教、仮面ライダーの宗教」にはほとんど説得されかかってしまった。
ウルトラマンの登場は一九六六年、仮面ライダーはその五年後。
五年で世の中の価値観は変わり、二人(?)のヒーローの意味合いが変わってしまった、とする指摘はきわめて面白い。
前者は科学や発展を無邪気に信奉していた時代の正義のヒーローだという。
後者は多様な正義が衝突しあい、科学万能主義や善悪の判断基準が曖昧になった時代に個人の主体を尊重するヒーローだという。
事象や世相……高校生にとって評論したいタネは無限にあろう。
こういう評論をもっと読みたいものだ。

 芦沢実彩さん(甲府第一高)の「『五位』と『芋粥』」は芥川龍之介作品とまともに向き合っている。
この作品を価値観の食い違いが交錯する際に生じる意図しない残酷さと理解する者は多い。
が、表題の付け方からも分かるとおり、筆者が着目しているのは、主に個々の人間の価値観、いや、欲望の在りどころである。

 木村元紀君(都留高)の「『羅生門』と生きることへの選択」は、高校生で読まない者のない作品にあえて挑戦した。
下人の行動を、人間としてではなく、たとえ生き物としてであっても生きることを選択した、と分析した点が注目される。
しかも、これが環境問題などに脅かされる人間の未来のテーマとなるかも知れないという指摘は恐ろしい。
しかも、選択の「行方(結末)は誰も知らない」のだから。
  
 評論分野に多くの高校生に挑戦してもらいたいものだと思う。






2008/11/23 15:38:41|高校文芸集選評
過程(H19)
随筆・生活記録 H19

 随筆を読ませてもらう楽しみというのは、一人一人の書き手とじかに対話しているような気持ちになることに尽きる。
随筆では、書き手の一人一人が自分の内面と向き合って、かたちになりづらいものをかたちにしようとして苦心している一生懸命さに触れられる。
また、自分の外の世界の事物や人々に向けた書き手のまなざしも感じられる。

 自分に向かう視線はたいてい厳しく、自然や高齢者、障害者などのいる外界に向かってはたいていまなざしは温かい。
これこそが政治的あるいは経済的でも宗教的でもない、文学的な表現の価値なのだろうと思える。
ことに高文連の文芸部門に参加してくる世代の書き手には、こういう潔癖さと心優しさが際だっているように感じる。

 随筆は答えを想定せず書いてもいい。考える過程、見つめる過程、過程そのものを書いてもいいジャンルだ。
 
 田草川萌(めぐみ)さん(甲府南高)の「悩みについて悩む」は、まさにことばの不自由さ、コミュニケーションの難しさについて、マジメに「悩む」過程をかたちにしてくれた。
自分なりの当面の答えとして、田草川さんは「悩み」は結局自分一人のものだと気づき、「人生の同伴者」である「悩み」から逃げず、「誠意を尽くし」「とことん悩むことで見出せる新しい世界観や価値観の発見の感動を望む」と前を向いている。

 清水絵夢さん(甲府東高)の「『幸せ』の価値」では、障害者のことを「不幸・可哀想」と決めつける残酷さに触れて、幸せとは何だろうと考え始める。
「大切なのは、『幸せ』を共に感じることのできる存在や環境」だと気づき、幸せとは「全て誰かとの『幸せ』」だとことばにして、世界とつながっている。

 古屋有希さん(甲陵高)の「月下美人」は、その名のとおり、真夜中人知れず咲くサボテンの花である。
祖父にとってこの花は祖母との思い出があるようだ。
祖父は開花を見ることにこだわらない。
筆者一人、月下美人の開花を夕食時から真夜中まで見続ける。
花の描写が実に的確であり、作品は小説の一場面を切り取ったかのようだ。

 これからも多くの書き手の目や思いのこもった随筆を通して「対話」したいものだと思う。






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