新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2013/06/13 14:53:45|本・読書・図書館
子どもの本の講座、県立図書館の「繁盛」
山梨子ども図書館の本年度総会に参加してきた。
子どもの本の専門家講座が始まって9年になるだろうか。
講師も一流、年間90分×2講座を20回ほどもやってきた。
聴講者に実費負担はしていただくものの、こういうレベルの高い子ども読書専門の勉強会は、日本広しといえどもそうはないだろう。
図書館はもちろん、地域や教育機関に根付いて、子どもに手渡す本を選書できて、実際「手渡す」(これは広義で使うが)活動もできる「ひと」の養成は重要なテーマだ。

総会終了後、昨年11月に移転新設された山梨県立図書館についての現状報告があった。
周辺では既に承知の通り、図書館は土日のショッピング・モール並みの混雑である。
「もう図書館行ったケ? 利用者カード作ったケ? まだ行ってインサ テッ!」というのが、一時、挨拶文句になった。

閲覧席で学習する高校生から大学生がむやみに多い。
が、図書館資料をそれほど活用しているわけではない。
高齢者の新聞・雑誌読み、居眠り。
かけっこする子どもたち。
構想段階からあった「賑わいの創出」には大成功しているわけだ。
疑問だったけれど。

これまた構想にあった「交流」はどうか。
交流スペースは、主に外部の様々なテーマのグループに貸与されている。
図書館として「交流」を造ろうという余裕も意思もなかろう。
図書館はもともと平等なる「個人利用」が前提である。

館長も唱え、前々からの課題だった「ひと」の件は?
正規の司書職は増えてはいない。
むしろこの7年間減り続けている。
地域資料について司書にレファレンスをしたいが、気の毒で、まだできないでいる。
よほど待つ気なら可能なのだろうが。
以前に倍する施設を作り、施設・資料、人材の有効活用をしてもらおうというには、県当局の意識はいかにも低すぎる。
ことに「ひと」と資料費のテーマにおいて。
今所属している司書たちは、心身共に大変なオーバーワークになっているだろう。

館長は「民度の向上」と言っているようだが、この地域で、それ以上に必要なのは「官度の向上」なのではないかと、常々思っている。
このままでは、「繁盛しているから、大成功だ」というトンチンカンな評価に陥りそうだ。
この人不足を、民間人の非正規雇用で補填しようという道筋もアブナイ。
知らぬ間に我々が否定してきた道をたどっているのでは、困る。

まだまだ全国に自慢できる「県立図書館」への道のりは遠い。







2013/06/08 9:42:50|その他
「懐旧」社会・ワシモ族・独善老人
5月、6月は同窓会だの、各種団体だの、懐旧団体だの、「総会」と称する会が多い。
年会費もお支払(振込)いするべき時で、これもなかなか楽ではない。
ここ何年も失礼していた会が多く、いくつかは顔出しをしようと思った。
懐かしい会もあるが、極めて居心地が悪く、「しまった、出席にするんじゃなかった」というのもある。

この5年間で、私も人相が変わった(急激に歳をとった)から、最初気付かずに、気付いてぎょっとする人もいる。
複雑な気持ちだ。

まあ、いくつか出てみると、たいていは高齢で、暇で、小金があって、役職も済んで、要は孤独で淋しくてという人が世話人なんかをひきうけて、知り合いを集めているようなパターンが多いような気もする。
「懐旧」社会だな。
物理的に高齢でなくても、孤独でさびしい人というのは常にいて、自分がその立場を選んだにもかかわらず、他人に寄り添い、なんだかんだとお節介を焼きたくなる人もいる。
かつてのヒエラルキーを死ぬまで保持し続けたがるひともいる。
話題に上る全ての人の悪口を言う。

「ワシモ」族という人種も多い。
妻や周囲の人のすることに何でも「ワシモ、ワシモ」と合流したがる。
スーパーなんかのカートの後ろをくっついて歩いて、妙に通路妨害しているのもこういう人たちに多い。

彼らには世の中には自分の用事しかないと思っている。
こちらが対応を逡巡していたりすると、「何してんだ」とはっぱをかける。
むやみに威張る、怒る、思い込みが激しい。

こちらはそれほど暇でも淋しくもないから、こういう言動に付き合わされるのは迷惑である。
参加する年代ではないなと思うのは、そういう人たちの多い会だ。

町内でこういうギャップが出てくると、関わり合いが厄介だ。
「犬のフンを持ちかえれ」と道路路面上に白ペンキで大書する。
それも自分の家とは微妙に離れた隣家の前にだ。
庭木なんかがはみ出せば大変だ。
穏やかならざる性状の年寄りだ。
自分こそが正義の味方と思っている。
そのくせ家に駐車場がないから、近くに不法駐車をしばしばする。

匿名で、さらに陰湿なのもあるが、今は触れないでおこう。
人中へ出てゆくのもためらわれることもある。







2013/06/06 9:29:09|本・読書・図書館
「質のいい読書でなくては」という線は譲れない
大学の講義の中で、「大人が子どもに読むことを薦めなくてもいい本」という話をした。
案の定、久しぶりというか、質問や反発があって、面白かった。

若い人に限らず、広く行われている論に、「本を『差別』しない」、「良書」の「おしつけ」への疑問である。

食べ物と人間の体・精神とのかかわりと、本と心の栄養・育ちとのかかわりとどこが違うのか?
合成甘味料や着色剤、保存料、農薬・科学物質、遺伝子組み換え食品、放射能汚染した食品もある。
こういうものを子どもに食べさせることに抵抗のない親はいない(はずだ)。

本だって、「毒にも薬にもならぬ」というより、ドラッグのような本があるのだが、子どもたちが好む、人気がある、よく売れているという理由で、「悪書」だと思われていない。

ある時期めちゃくちゃ流行って、映画化されたものもことごとくヒットしてという作品の特徴を以下に4点だけあげてみよう。

●唐突に脈絡なく起こる事件
●非現実的で納得できない解決
●困ったり悩んだりする暇もなく行動する主人公たち
●ふつうならあるはずの感情の欠如

こういうものを大人が喜んであたえてよいものだろうか?
エンタテイメントを禁止せよ、というのではない。
エンタテイメントは放っておいても子どもは手にする。
大人が子どもに薦めるのなら、エンタテイメント重視、面白・おかしさだけで選書するのは如何なものか。

こういうことをしていると、ベストセラーや自己啓発本、歴史書、ミステリー、アジア経済やら政治状況など流行りものばかり「量的」に読む大人ができてしまう。
彼らがチョイチョイ紹介する本の類は、玉石混交、愚書が多く、見ていてみっともないことが多い。

子どもに読ませるのなら、「量より質」。
本の善い悪いはちゃんと指摘する。
大人から、本の善い悪いを見分ける目を養う。
これが課題だし、大人の責任だなと思う。

レンゲつつじを撮ってみたが、実物はもっとオレンジが買っていて、のんびりする印象があった。ケイタイ写真の色調が違っている。







2013/06/01 9:18:26|MY FAVORITE THINGS
100円ショップ
かつては100円ショップというものを嫌悪していた。
特に県下の高校生の進路指導について、教育行政的に手伝っている時期は、とりわけそうだった。
いささか短絡的だが、
「製造現場が中国なんかに行っちゃうから、高卒の就職希望者の行く先がなくなるんだ」と。
現に県内の企業に、求人を出してくれるように頼んで回っても、大方の会社で製造機械は間引き運転をしていた。
なかにはコンピュータの電源部分を作っていた会社が、今や高性能の小型焼却炉を造っていた。
情なかった。
100円ショップが、たいていのものが100円でも、買う気にはならず、昔からの文具屋で買い求めていた。
縁日のゴムやプラスチックの製品みたいじゃないかと罵りつつ。
文具専門店はやっていけない訳だと嘆きながら。

この頃では、入費も限られ、100円ショップがいかに充実しているかを知るようになると、そう意地も張っていられなくなる。
殊にグループの消耗品・事務用品などを買わねばならなくなると、経済を考えて、できるだけ安価な物を選ぼうとする。
困るのは、たとえばルーズリーフのノートなど、これは具合のいい品だと使っていると、ある日、廃番になって何処にもなくなることだ。
安かろう、商品生命も短かろうというのでは困る。
またまた信頼性が薄くなる。

100円ショップ利用は、もう、一般的なようだ。
食品なんかもある。
TPPに参加したりすれば、この風潮はますます加速してゆくのだろう。
100円ショップ以外では買い物ができないことになるかもしれない。
でも、私は、今のところは、やっぱり100パーセント気を許してはいない。
いくら消耗品、事務用品といっても、好み、趣味というものが介在するのだ。
使っている気持ちよさというものも。
お礼をしたためるのには、やっぱり鳩居堂の一筆箋が気持ちがこもるので、100円ショップの手触りの悪い便箋も嫌である。







2013/05/30 8:23:30|アート
榎並和春展「どこか遠く」

「なぜか、放浪の民に共感を覚える。いつまでも漂う身のまま、答えのない問いを追いかけていたい。」個展葉書より

だからこそ、氏は現役の絵描きでい続けるのだろう。
そして、イコンや聖堂の祭壇画がそうであるように、その画は、いつも荒涼としているが聖らかで温かい「世界」へ窓があいているようだ。

願わくば、氏をわずらわす「世間」との考証は希薄なものであってほしい。

洋の東西はあるが、放浪の芸人、説経節、操り人形門付け芸などにしきりと心惹かれる昨今の私である。
「をぐり(小栗判官・照手姫)」「山椒太夫」「信太」「信徳丸」「愛護若」等々。
かれらの芸そのものが、障害や難病を抱え漂泊する者を題材とし、その再生譚である。

山口画廊は榎並氏と志の通じる画廊のようだ。
期間中に拝見したい、と思う。

画像:"Preaching(説教2013)"   色調失敬。