このサイトは持続可能な社会を目指して、地球温暖化防止、緑化の推進、世界平和、世界連邦建設等を目的としたものです。左の写真は、尾崎行雄先生と尾崎先生の意思を継承した相馬雪香先生です。相馬雪香先生の教えを受けた人は多数いると思いますが、雪香先生をおんぶしたことがあるのは、私(中澤誠)だけでしょう。
 
CATEGORY:軍人

2014/07/03 23:34:01|軍人
西郷 従徳

西郷 従徳(さいごう じゅうとく)、1878年(明治11年)10月21日 - 1946年(昭和21年)2月6日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。貴族院議員、侯爵。

西郷従道の次男として生れる。西郷隆盛の甥にあたる。1899年11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、陸軍少尉任官。最終階級は陸軍大佐。父の死去により、1902年8月9日、西郷家を継ぎ侯爵となった[1]。

1903年(明治36年)10月20日 - 貴族院侯爵議員 就任[2]
1906年(明治39年)5月30日 - 第一師管軍法会議判事 免任、近衛歩兵第3連隊付 免任[3] 同日 - 軍事参議官副官 任官、軍事参議官黒木為楨付属 仰付、陸軍省御用掛 兼任[3]

1913年(大正2年)12月20日 - 陸軍省副官 免官、近衛歩兵第4連隊付 仰付[4]

1902年(明治35年)8月9日 - 侯爵[5]
1902年(明治35年)8月30日 - 正五位[6]
1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[7]
1906年(明治39年)9月10日 - 従四位[8]
1906年(明治39年)12月3日 - 勲五等双光旭日章、功四級金鵄勲章[9]
1911年(明治44年)9月20日 - 正四位[10]
1917年(大正6年)10月1日 - 従三位[11]
1918年(大正7年)9月23日 - 勲三等瑞宝章[12]
1924年(大正13年)10月15日 - 正三位[13]
正二位・勲二等






2014/06/28 16:19:19|軍人
嶋田 繁太郎

嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年9月24日 - 1976年6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。海兵32期。最終階級は海軍大将。第47代海軍大臣。第17代軍令部総長。A級戦犯として終身刑。

4枚目の写真 左2人目から山口多聞、嶋田、大西瀧治郎
1883年9月24日東京府に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とする、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。東京中学を経て、1904年海軍兵学校32期を191人中27番の成績で卒業、海軍少尉候補生。同期に山本五十六・吉田善吾・塩沢幸一・堀悌吉らがいる。1905年5月末、巡洋艦「和泉」において日本海海戦の偵察活動に従事する。1905年8月31日海軍少尉任官。1907年9月28日海軍中尉進級。1909年10月11日海軍大尉に進級。

1910年5月23日 - 海大乙種学生。1913年12月1日海大甲種13期学生、1915年卒業。1915年12月13日海軍少佐に昇任。1916年2月10日イタリア大使館付武官着任、1919年帰国。1920年12月1日海軍中佐に進級。1923年12月1日海軍大学校教官。1924年12月1日海軍大佐に進級。1926年12月1日第七潜水隊司令。1927年美保関事件の軍法会議で、被告となった同期生水城圭次の特別弁護人となり、井上継松とともに責任は耳に障害のある水城を艦長に補職した海軍当局にあると論陣をはった[1]。1928年8月20日軽巡洋艦多摩艦長。12月10日戦艦比叡艦長。1929年11月30日海軍少将に進級。第二艦隊参謀長。1930年12月1日連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長。1931年12月1日海軍潜水学校校長。





左2人目から山口多聞、嶋田、大西瀧治郎
1932年1月上海事変勃発。1932年2月2日第三艦隊参謀長着任、上海に出動。6月28日海軍軍令部第三班長。11月15日海軍軍令部第一班長、軍令部令改正に伴い1933年10月1日軍令部第一部長。1934年11月15日海軍中将に進級。1935年12月2日軍令部次長。1937年12月1日第二艦隊司令長官。1938年11月15日呉鎮守府司令長官。1939年4月13日勲一等瑞宝章受勲。1940年4月29日功二級金鵄勲章、勲一等旭日大綬章受勲。1940年5月1日支那方面艦隊司令長官。11月15日海軍大将に進級、軍事参議官。1941年9月1日横須賀鎮守府司令長官。





1941年10月18日東條内閣において海軍大臣を拝命(在任:1941年10月18日 - 1944年7月17日)。打診された際は辞退したが、伏見宮博恭王の勧めで受諾した。就任時は不戦派だったが、伏見宮から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と言葉があり、対米不信、物資への関心からも開戦回避は不可能と判断し、10月30日に海軍省の幹部たちを呼んで「この際戦争の決意をなす」「海相一人が戦争に反対した為戦機を失しては申し訳ない」と述べ、鉄30万トンで対米開戦に同意した。また、海相に就任した嶋田がこれまでの不戦論を撤回し、陸軍に対して協調的態度を取った事により、遂に日米開戦は不可避となった。対米開戦直前、海兵同期の山本五十六は「嶋ハンはおめでたいんだから」と慨嘆したという。

1941年11月30日、軍令部員の高松宮宣仁親王が戦争慎重論を上奏した。この時、召喚された際には昭和天皇の問いに「物も人もともに十分の準備を整えて、大命降下をお待ちしております」と述べた。これに対し昭和天皇が「ドイツが欧州で戦争をやめたときはどうするかね」と訊ねると「ドイツは真から頼りになる国とは思っておりませぬ。たとえドイツが手を引きましても、さしつかえないつもりです」と述べたとされる。

真珠湾攻撃について議会で報告をした際の政治家をはじめとする国民の熱狂ぶりを見て「これからが大変なんだ」と周囲に漏らしたという。

1942年1月第三次ソロモン沖海戦において戦艦比叡と運命を共にしなかった西田正雄艦長を罷免し、査問会も開催せず、即日召集して懲罰人事を行った。山本五十六はこの措置に「艦長はそこで死ねというような作戦指揮は士気を喪失させる」と抗議したが、山本と不仲でもあった嶋田はそれを無視した[2]。1942年12月15日正三位[3]

海軍内で嶋田は、陸軍に追従する東條英機首相の腰ぎんちゃくの如き振る舞いを揶揄され、「(東條首相の)嶋田副官」のあだ名が付いた。「東條の男メカケ」とまで酷評する声もあった。 南方方面及び中部太平洋方面の米反攻に伴い海軍部内では海軍のみが戦闘をしているという考えが強くなり、連合艦隊長官古賀峯一大将は、嶋田海相と永野修身軍令部総長に対し陸兵力の同方面進出をたびたび要求するが、困難であり、二人への不満は高まっていった。海軍省でも軍務局2課を中心に嶋田は東條に従属しすぎるという声があった。1944年2月昭和19年度航空機生産に対するアルミニウムの配分で海軍の要求が通らず、大型機の多い海軍は陸軍より航空機を生産できなかったため、嶋田、永野に対する不満はさらに高まった[4]。

1944年2月19日嶋田は責任上辞任を考慮し、海相後任を豊田副武大将、軍令部総長後任を加藤隆義大将にする意向を東條英機首相兼陸相に伝えるが、東條の参謀総長兼任の決意を知り、嶋田も決意と趣旨に賛同して自らは永野修身軍令部総長を更迭し、自分が軍令部総長も兼任する決心をした[5]。

1944年2月21日軍令部総長兼任。嶋田の兼任は戦局が不利なこともあり、部内の風当たりは強く、東條に従属しすぎるという批判を著しく刺激する結果になった。岡田啓介大将は東條内閣の倒閣のため嶋田の更迭を考慮するようになる[6]。嶋田は着任すると陸海の統帥部一体化、航空兵力統合などのXYZ問題の研究を即時打ち切って、研究も禁止した[7]。情報部の実松譲が『アメリカは戦時生産から平時生産にシフトしはじめている』という情報を配布したところ、嶋田軍令部総長に『敵のことをよく書いている。まるで役に立たん』と配布禁止を食った。

1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北で、サイパン放棄を決定し、6月25日その後の方針を決めるための元帥会議に出席。会議後、嶋田は、手筈を定め今後の対策を迅速に行うこと、陸軍航空機を海上へ迅速に引き出すこと、(特攻兵器を含む)奇襲兵器促進掛を設けて実行委員長を定めることを省部に指示した。これによって7月1日大森仙太郎が海軍特攻部長に発令された[8]。

嶋田をはじめとする海軍首脳は、陸軍の主張する本土決戦で優秀な若者たちを失うのを恐れ、戦後の日本復興のことを見据え、海軍兵学校の生徒をはじめとする優秀な日本の若者を温存するための処置をとっていた[9]。

サイパン陥落で反東條に併せて反嶋田の動きが起こり、7月17日海相辞任。8月に軍令部総長を辞任。8月2日軍事参議官。1945年1月20日予備役編入。


終戦後、A級戦犯に指名され、憲兵が身柄拘束の為に高輪の自宅に訪れた際には、英語で「騒ぐな、自分は自殺しない」と言って連行されていった。新聞記者から感想を求められると「腹を切ってお詫び申し上げようと思ったが、ポツダム宣言を忠実に履行せよとの聖旨に沿う為、この日が来るのを心静かに待っていた」と語った。

極東国際軍事裁判では太平洋戦争の対米開戦通告問題につき、「海軍は無通告を主張したことはない」と、元外務大臣東郷茂徳と対立。「われわれは東郷が、われわれの注意によって、まさかああいうばかばかしいことを言おうとは思っておりません。まことに言いにくいのでありますが、彼は外交的手段を使った、すなわち、イカの墨を出して逃げる方法を使った、すなわち、言葉を換えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すために、とんでもない、普通使えないような脅迫という言葉を使って逃げた」と批判した[10]。

海軍における戦争遂行の最高責任者として死刑は免れない、という予想が大多数を占め、実際に判事の投票では11人中5人が死刑賛成だったが、自己弁護により死刑は免れ、1948年11月12日終身禁固刑判決を受けた。東京裁判での自己弁護はウェブ裁判長が褒めるほど見事なものであった。そのことを憲兵から聞いた嶋田は日記に嬉しかったと記している。終身刑の判決を受けた後、「生きていられる」と言って笑っていたと武藤章が日記に書いている。

1955年仮釈放後赦免される。海上自衛隊の練習艦隊壮行会に出席して挨拶したことがあり、それを聞いた井上成美は「恥知らずにも程がある。人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」と激怒したという。『昭和天皇独白録』では「嶋田の功績は私も認める」という天皇の発言があり、嶋田について、「知恵があり、見透しがいい」人物としつつ、「部下に対して強硬であったこと」がその不評判の原因だったとしている。

1976年死去。

妻は筑紫熊七陸軍中将の娘嶋田ヨシ、義弟に光延東洋海軍少将がいる。

1904年11月14日 - 海軍兵学校卒業(32期)。卒業成績191人中27番。
1905年8月31日 - 海軍少尉に任官。
1907年9月28日 - 海軍中尉に進級。
1909年10月11日 - 海軍大尉に進級。
1910年5月23日 - 海大乙種学生。
1913年12月1日 - 海大甲種学生。
1915年 - 海軍大学校卒業(13期)。 12月13日 - 海軍少佐に進級。

1916年2月10日 - 駐イタリア大使館付武官。
1920年12月1日 - 海軍中佐に進級。
1923年12月1日 - 海軍大学校教官
1924年12月1日 - 海軍大佐に進級。
1926年12月1日 - 第七潜水隊司令。
1928年8月20日 - 軽巡洋艦多摩艦長。 12月10日 - 戦艦比叡艦長。

1929年11月30日 - 海軍少将に進級。第二艦隊参謀長。
1930年12月1日 - 連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長。
1931年12月1日 - 海軍潜水学校校長。
1932年2月2日 - 第三艦隊参謀長。 6月28日 - 海軍軍令部第三班長。
11月15日 - 海軍軍令部第一班長。

1933年10月1日 - 軍令部第一部長。
1934年11月15日 - 海軍中将に進級。
1935年12月2日 - 軍令部次長。
1937年12月1日 - 第二艦隊司令長官。
1938年11月15日 - 呉鎮守府司令長官。
1940年5月1日 - 支那方面艦隊司令長官。 11月15日 - 海軍大将に進級。
11月15日 - 軍事参議官

1941年9月1日 - 横須賀鎮守府司令長官 10月18日 - 海軍大臣を拝命(~1944年7月17日)。

1942年12月15日 - 正三位[11]
1944年2月21日 - 軍令部総長。 8月2日 - 軍事参議官。

1945年1月20日 - 予備役編入。






2012/06/27 22:34:04|軍人
宇垣 一成

宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は日本の陸軍軍人、政治家である。成城学校から陸軍士官学校、陸軍大学校卒。陸軍大将正二位勲一等[1]功四級。拓殖大学第5代学長。元参議院議員。

慶応4年(1868年)、備前国磐梨郡潟瀬村大内(現・岡山県岡山市東区瀬戸町大内)の農家に5人兄弟の末子として生まれる。幼名は杢次(もくじ)。陸軍には志願兵として入営。成城学校を経て、軍曹のときに陸軍士官学校を受験している。
明治23年(1890年)7月26日、陸軍士官学校卒業(1期 150人中11位)。
明治24年(1891年)3月24日、陸軍歩兵少尉任官。
明治29年(1896年)、一成と改名。
明治33年(1900年)陸軍大学校卒業(14期恩賜 39人中3位)。
明治35年 - 明治37年(1902年 - 1904年)最初のドイツ留学。この間に最初の妻・鎮恵死去。
明治39年(1906年)、2度目のドイツ留学。
明治40年(1907年)、小原貞子と再婚。
明治43年(1910年)、陸軍大佐に昇進。
大正2年(1913年)、山本内閣の陸海軍大臣現役制廃止に反対する怪文書をばらまき、陸軍省から左遷される。
大正4年(1915年)、陸軍少将に昇進。
大正5年(1916年)、参謀本部第一部長。
大正8年(1919年)、陸軍中将に昇進。
大正10年(1921年)3月11日、第10師団長
大正12年(1923年)、陸軍次官。
大正13年 - 昭和2年(1924年 - 1927年)清浦内閣で陸軍大臣に就任。以後、加藤高明内閣、第1次若槻内閣まで陸軍大臣を歴任。
大正14年(1925年)、加藤内閣の時、「宇垣軍縮」と呼ばれる陸軍の整理を行う。陸軍大将に昇進。
昭和2年(1927年)、朝鮮総督(臨時代理)。
昭和4年(1929年)、濱口雄幸内閣で再び陸軍大臣に就任。再度、軍縮を検討するが、自身の健康悪化と濱口首相遭難事件で流産[2]。
昭和6年(1931年)、予備役となり、昭和11年(1936年)まで朝鮮総督。 陸軍によるクーデター未遂事件(三月事件)。陸軍桜会や右翼大川周明らの計画。武力による宇垣内閣擁立を狙ったが頓挫。宇垣は人望を失墜する。

昭和12年(1937年)、廣田内閣総辞職の後、宇垣内閣組閣の大命を受ける。しかし、陸軍内の意見を纏めきれず組閣を断念。同じ陸軍大将の林銑十郎内閣が成立。
昭和13年(1938年)、第1次近衛内閣で外務大臣に就任。後、拓務大臣を兼任。同年9月末、辞任。以後一線を退く。
昭和19年(1944年)、拓殖大学第5代学長に就任。
昭和20年(1945年)、太平洋戦争終結の後、公職追放。
昭和27年(1952年)、公職復帰。
昭和28年(1953年)、第3回参院選挙全国区で立候補し、51万票を集めトップ当選[3]。ただし、選挙運動中に倒れほとんど議員活動はできなかった。[4]
昭和31年(1956年)、静岡県伊豆長岡町(現在の伊豆の国市長岡)の松籟荘において議員在職のまま死去。享年89(満87歳没)。


宇垣は大正後期から昭和初期にかけて陸軍の中心人物の一人として存在した。彼は戦闘の場での指揮官や軍略家ではなく、政治に長けた軍政家と言える。その彼の業績のうち歴史の表舞台に表れた代表的な出来事3点記載した。


加藤内閣の陸軍大臣在任中、軍縮を要求する世論の高まりを受け、陸軍省経理局長・三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定整理委員会を設けた(宇垣軍縮)。

具体的には21個師団のうち高田の第13師団、豊橋の第15師団、岡山の第17師団、久留米の第18師団の計4師団を廃止、これに伴い連隊区司令部16ヶ所も廃止となった。また陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校も撤廃した。

だが、実はこれにより浮いた金額を欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回したというのが実情である[5]。主な近代化の内容として戦車連隊・高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾山砲連隊1個の新設、自動車学校・通信学校の開校、飛行機・戦車・軽機関銃・自動車牽引砲・野戦重砲の配備を行った。

連隊旗は天皇(大元帥)より賜った神聖なものとされ、第二次世界大戦における玉砕や降伏の際には連隊旗が敵の手に渡らないようにする「軍旗奉焼」が行われた。乃木希典は、明治天皇に殉死した際の遺書で「西南戦争で西郷軍に連隊旗を奪われた」ことを動機の一つとして書き残している。その連隊旗を連隊廃止により返還させられたことは陸軍内部に長く宇垣への遺恨として残った。またポスト的にも、師団長4人分、歩兵連隊長ポスト16人分などの削減は大きな怨念となった。

組閣大命の下る前、昭和7年(1932年)の満州事変・五・一五事件、翌昭和8年(1933年)の国際連盟脱退、昭和11年(1936年)には二・二六事件など、軍部による策謀や日本の国際的孤立化、さらには陸軍皇道派などによるテロ事件の発生、新聞報道による政治批判と政党政治の腐敗による国民の政治家不信などにより政情が不安定化していた。そして、それをきっかけとして軍部の政治への干渉が著しくなり、危険な戦争への突入が懸念された。

そこで加藤内閣の陸軍大臣であったときに内閣の方針によく協力し、軍縮に成功した宇垣の手腕を高く評価していた元老・西園寺公望などに所望され、軍部に抑えが利く人物として昭和12年(1937年)1月に広田内閣が総辞職した後、宇垣が総理大臣に推挙されることになった。陸軍の大物でありながら軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣の首班登場は、世評も高かった。

しかし、石原莞爾大佐などの陸軍中堅層は軍部主導で政治を行うことを目論んでいた。宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、彼らは宇垣の組閣を阻止すべく動いた[6]。軍部大臣現役武官制に目をつけた石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官にも工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮く。当時予備役陸軍大将だった宇垣自身が首相と陸相の兼任による内閣発足を模索し「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、湯浅に拒絶されたため組閣を断念せざるを得ない状態へ追い込まれた。石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違いとして反省している。石原の反省は、宇垣の組閣流産の後の政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるもので、石原は宇垣の力をもってすれば、この流れを変えることができたに違いないと考えたわけである。

ちなみに大正デモクラシーのさなかの第1次山本内閣において軍部大臣現役武官制を予備役に拡大したときに、もっとも強硬に反対し、陸軍首脳部を突き上げたのが当時陸軍省の課長だった宇垣であり、皮肉にも広田内閣の時に復活したその現役武官制により組閣断念に追い込まれたことになる(仮に、予備役でも陸相になることが可能であれば、宇垣自身が陸相を兼任すれば宇垣内閣が発足できた)。

この後も、重臣会議のたびに次期首相候補として名前が挙がるが(後述)、「陸軍が賛成しない」として大命降下には至らなかった。

組閣流産から半年後の昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が勃発、日中戦争に突入した。近衛文麿首相は事変初期段階での収拾に失敗し、いわゆる近衛声明(「爾後国民政府ヲ対手トセズ」)を発するに及んで泥沼化が懸念されていた。事態を憂慮していた宇垣は昭和13年(1938年)5月の改造内閣に外務大臣としての入閣を請われると、日中和平交渉の開始や「対手とせず」方針の撤回を条件に就任。早々に近衛声明の再検討を表明し、駐日英国大使クレーギー・駐中大使カーなどを介し孔祥熙国民政府行政院長らと極秘に接触、中国側からの現実的な和平条件引き出しにも成功している。しかし近衛首相は蒋介石の下野など和平条件吊り上げの姿勢を見せ、近衛声明の維持を表明するなどした。また陸軍は宇垣の和平工作を妨害する意図もあっていわゆる興亜院の設置を働きかけ、対中外交の主導権を外務省から奪うことを画策、近衛も賛成した。こうして、近衛首相からも梯子を外された形となり、外相を辞任した。なお、在任中に発生したソ連との国境紛争張鼓峰事件を外交交渉によって停戦させている。在任中には牛場信彦らいわゆる革新派とされる若手外交官が宇垣宅を訪問して対中強硬論や革新派のリーダー白鳥敏夫の次官就任といった外交刷新を訴えるといった「事件」も発生しているが、省内のこうした路線対立も宇垣の指導力発揮を困難なものにしていた。

以上のように首相や外務省の支えが無い中で、さしたる成果もあげられないまま辞任に至ったが、目下の課題を実務的に処理する堅実な姿勢を見せた。宇垣が国民政府から引き出した条件は後の日米交渉に比べてはるかに有利なものであるのはもちろん、交渉ルートが確実に国民政府中枢と通じた「筋の良い」ものであったこと、相互の信頼関係の存在などから、その後様々な形で行われた日中和平の試みのなかでも最も実現性が高く貴重なものであったとの評価もある[7]。満州事変以来の日本外交を厳しく批判していた外交評論家の清沢洌は宇垣外交を高く評価、「日本は久々に外交を持った。外交官ではない人物によって」と評したとされる[8]。

上記のように宇垣は優れた政治的手腕と極めて現実的な思考を持っており、当時の日本の置かれていた国際情勢を理解して無謀な戦争を行うことの愚かさを知っていた軍人の一人であった。しかし、陸軍の実力者であった彼をしても結局は時流に逆らえず、日本は敗戦への道をひた走っていく。

一方で、陸軍における二大勢力、薩摩閥と長州閥を巧みに利用し宇垣閥を形成していった。尉官時代には薩摩出身の川上操六の元で地位を上げ、川上の死後は長州出身の田中義一に付き昇進した。その実力ゆえに野心家と目され、警戒感を持つ向きがあったことも事実であり薩摩閥より「蝙蝠のような男」と揶揄された。司馬遼太郎はその著書『歴史を紀行する 8.桃太郎の末裔たちの国[岡山]』において宇垣の処世術を酷評している。しかしながら、尉官時代の宇垣は他人より出世が遅く「鈍垣」とあだ名されるほどであり、処世術が巧みであったとは言えなかった。

また「聞き置く」など曖昧な表現を相手によっては多用し、外相在任中に起きた張鼓峰事件について陸軍にあたかも出兵を容認したかのように受け取られた。宇垣は昭和天皇に対しては明確に反対論を上奏していたため天皇は不信感を持ったとされ、「この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ」[9]と酷評されていたことがよく知られている。昭和天皇は三月事件の遠因も宇垣の言い回しが原因ではないかと思っていた節があったようである。このように、和平派グループの宇垣に対しての高評価と違い、昭和天皇は宇垣の政治手腕と人格に終始疑問をもっていた。

朝鮮総督時代に「内鮮融和」を掲げ、皇民化政策を行う。一方で農村振興と工鉱併進政策を推進したが実効性には乏しく、宇垣の次に朝鮮総督となった南次郎の統治時代には農村振興政策は受け継がれなかった。また金の産出を奨励したものの、ほとんどの利益は日本資本が占め、朝鮮人にまで利益は行き渡ら無かった。ただし大谷敬二郎によれば、朝鮮人の間で歴代総督のなかで「朝鮮人のために尽くしてくれた唯一の総督」と宇垣が高く評価されていたと回顧している。

宇垣が和平派グループに頼りにされていたことは、二次大戦下の1943年、東條内閣に対する批判が高まり、東條内閣打倒の急先鋒だった中野正剛らにより、宇垣が後継首班としてあげられ、重臣たちの了解も取り付けたことからもよくわかる。宇垣本人も中野の策を了承し、東條内閣打倒に賛意を示した。しかし中野たちのこの倒閣運動は東條に事前に弾圧され、ここでも宇垣内閣は誕生することはなく終わった。

自他ともに認める首相候補であり、内閣流産後も幾度となく候補として名前が挙がったが、結局首相になれず候補のままで他界したことから「政界の惑星」[10]と呼ばれるようになった。議会主義を尊重していたことなどから大物軍人としては珍しく政党政治家グループにも人気があり、戦前は民政党総裁に、戦後直後には日本進歩党総裁に推されたことがあったが、これらも実現をみることはなかった。
第37代首相・阿部信行内閣:近衛文麿、西園寺公望が宇垣を推薦
第41代首相・東条英機内閣:若槻禮次郎、岡田啓介、清浦奎吾が宇垣を推薦
第42代首相・小磯国昭内閣:若槻が宇垣を推薦

なお戦後、東京裁判を主導した主席検察官のキーナンは、米内光政・若槻礼次郎、岡田啓介と宇垣の四人を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と呼び賞賛し、四人をパーティに招待し歓待している。






2012/02/15 21:16:38|軍人
乃木 希典

乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人、教育者。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年〔大正5年〕)。家紋は「市松四つ目結い」。幼名は無人で、その後、源三と名を改め、頼時とも称した[1]。 さらに後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから源希典との署名もよく用いた[2]。号としては、静堂、秀顕、石樵及び石林子を用いた[1]。「乃木大将」または「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い[3]。 日露戦争において「難攻不落」と謳われた旅順要塞を攻略したことから、東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた[4]。 しかし、旅順要塞攻略に際して多大な犠牲を生じたことや、明治天皇が崩御した際に殉死したことなど、その功績及び行為に対する評価は様々である。例えば司馬遼太郎は、著書『坂の上の雲』『殉死』において、福岡徹は著書『軍神 乃木希典の生涯』において乃木を「愚将」と評価した。他方で司馬遼太郎らに対する反論や、乃木は名将であったとする主張など乃木を擁護する意見もある[5]。 六本木ヒルズ内にある「乃木大將生誕之地」碑嘉永2年(1849年)11月11日、長州藩の支藩である長府藩の藩士(馬廻、80石)乃木希次と乃木壽子(ひさこ(壽とする文献もある[6]))との三男として長府藩上屋敷に生まれた。ただし、希典の長兄及び次兄は既に夭折していたため世嗣となる。 幼名は無人(なきと)。長兄及び次兄のように夭折することなく壮健に成長して欲しい、という願いが込められている[6]。 希次は江戸詰の藩士であったから、無人は10歳までの間、長府藩上屋敷において生活した。この屋敷は赤穂浪士・武林隆重(武林唯七)ら10名が切腹するまでの間預けられた場所であったので、赤穂浪士に親しみながら成長した[7]。 幼少時の無人は虚弱体質であり、臆病であった。友人に泣かされることも多く、無人にかけて「泣き人」(なきと)とあだ名された。 父・希次は、こうした無人を極めて厳しく養育した。例えば、「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」と述べ、無人を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。この挿話は、昭和初期の日本における国定教科書にも記載されていた[8]。 なお、詳しい時期は不明だが左目を負傷し、これを失明した。一説にはある夏の日の朝、母の壽子が蚊帳を畳むため寝ている無人を起こそうとしたが、ぐずぐずして起きなかったので、「何をしている」と言い、畳みかけた蚊帳で無人の肩をぶった際、蚊帳の釣手の輪が左目にぶつかってしまったことが原因であるという。しかし乃木は、左目失明の原因を明らかにしたがらなかった。失明の経緯を明らかにすれば母の過失を明らかにすることになり、母も気にするだろうから他言したくない、と述べたという[9]。 安政5年(1858年)11月、父・希次は、藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれ、長府へ下向するよう藩から命じられた上、閉門及び減俸を命じられた。無人もこれに同行し、同年12月、長府へ転居した[10]。 安政6年(1859年)4月、11歳になった無人は、結城香崖に入門して漢籍及び詩文を学び始めた。また、万延元年(1860年)1月以降、流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術及び剣術なども学び始めた[10]。 しかし、依然として泣き虫で、妹にいじめられて泣くこともあった。文久2年(1862年)6月20日、集童場に入った。同年12月、元服して名を源三と改めたが、依然、幼名にかけて「泣き人」と呼ばれ、泣き虫であることを揶揄された[10]。 元治元年(1864年)[11]3月、16歳の源三は、学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して、萩まで徒歩で赴き、玉木文之進への弟子入りを試みた。玉木は乃木家の親戚であった。文之進は、源三が父・希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述べて、源三の弟子入りを拒絶した。しかし結局、源三は玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた[12]。 元治元年(1864年)9月から、源三は明倫館文学寮に通学することとなったが、一方で、同年11月から一刀流剣術も学び始めた(一刀流については、明治3年(1867年)1月に目録を伝授されている)[13]。 第2次長州征討に従軍 [編集]元治2年(1864年)、源三は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した[14]。 慶応元年(1865年)、第二次長州征討が開始されると、同年4月、萩から長府へ呼び戻された。源三は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口での戦闘(小倉戦争)に加わった。この際、奇兵隊の山縣有朋指揮下において戦って、小倉城一番乗りの武功を挙げた[15]。しかし、そのまま軍にとどまることはなく、慶応2年(1866年)、長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に入学(復学)した[14]。 その後報国隊は、越後方面に進軍して戦闘を重ねたが、これに参加しなかった。明倫館在籍時に講堂で相撲を取り、左足を挫いたことから、藩が出陣を許さなかったのである[16]。 源三はなんとしても出陣しようと、脱藩を決意して馬関まで出たが、追補され、明倫館に戻された[17]。 慶応4年(1868年)1月、報国隊の漢学助教となるが、同年11月、藩命により、伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学んだ[18]。これは、従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助が、源三に対し、学者となるか軍人となるか意思を明確にせよと迫り、源三が軍人の道を選んだことから、御堀が周旋した結果発せられたという[19]。 明治2年(1869年)7月、京都河東御親兵練武掛となり、次いで、明治3年(1870年)1月4日、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官となる[20]。 そして、明治4年(1871年)11月23日、陸軍少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した[21]。 当時22歳の源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢であったが、これには、御堀を通じて知り合った黒田清隆が関与したとみられている。乃木は少佐任官を喜び、後日、少佐任官の日は「生涯何より愉快だった日」であると述べている[22]。 明治4年(1871年)12月、正七位に叙された源三は、名を希典と改めた[23]。 その後、東京鎮台第3分営大弐心得[24]及び名古屋鎮台大弐を歴任し、明治6年(1873年)6月25日には従六位に除される[25]。。 明治7年(1874年)5月12日、乃木は家事上の理由から辞表を提出して4か月間の休職に入るが、同年9月10日には陸軍卿伝令使となった。この職は、陸軍卿(当時は山縣有朋)の秘書官または副官といった役割であった。なお、この時期の乃木は、まっすぐ帰宅することはほとんどなく、夜ごと遊興にふけり、山縣から説諭を受けるほどだった[26]。 明治8年(1875年)12月、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ、小倉に赴任した。不平士族の反乱に呼応する可能性があった山田頴太郎(前原一誠の実弟)が連隊長を解任されたことを受けての人事であった[27]。 連隊長心得就任後、実弟の玉木正諠(たまき まさよし、幼名は真人。当時、玉木文之進の養子となっていた)がしばしば乃木の下を訪問し、前原に同調するよう説得を試みた。しかし乃木はこれに賛同せず、かえって山縣に事の次第を通報した[28]。 明治9年(1876年)、宮崎車之助らによる秋月の乱が起きると、乃木は、他の反乱士族との合流を図るため東進する反乱軍の動向を察知し、豊津においてこれを挟撃して、反乱軍を潰走させた[29]。 秋月の乱の直後、萩の乱が起こった。弟の正諠は反乱軍に与して戦死し、学問の師である文之進は自らの門弟の多くが萩の乱に参加したことに対する責任をとるため自刃した[30]。 萩の乱に際し、乃木は、麾下の第14連隊を動かさなかった。これに対し、陸軍大佐・福原和勝は、乃木に書簡を送り、秋月の乱における豊津での戦闘以外に戦闘を行わず、大阪鎮台に援軍を要請した乃木の行為を批判し、長州の面目に関わると述べて乃木を一方的に非難した。乃木は、小倉でも反乱の気配があったこと等を挙げて連隊を動かさなかったことの正当性を説明し、福原の納得を得た[31]。 明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると、同年2月19日、乃木は第14連隊を率いて久留米に入り、同月22日夕刻、植木町(後の熊本市植木町)付近において西郷軍との戦闘に入った。乃木の連隊は主力の出発が遅れた上に強行軍を重ねていたから、西郷軍との戦闘に入った当時、乃木が直率していた将兵は200名ほどに過ぎなかった。これに対し、乃木を襲撃した西郷軍は400名ほどだった[32]。乃木は寡兵をもってよく応戦し、3時間ほど持ちこたえたが、午後9時頃、退却することとした。その際に連隊旗を保持していた河原林雄太少尉が討たれ、連隊旗を西郷軍に奪われてしまう。西郷軍は、奪取した連隊旗を見せびらかした[33]。 連隊旗喪失を受けて、乃木は官軍の実質的な総指揮官であった山縣に対し、4月17日付けの待罪書を送り、厳しい処分を求めた。しかし、山縣からは、不問に付す旨の指令書が返信された[34]。これに対し、乃木は納得せず、何度も自殺を図った。児玉源太郎は自殺しようとする乃木を見つけ、乃木が手にした軍刀を奪い取って諫めたという[35]。 その後、乃木は、部下が止めるのも構わず、弾丸の下を奔走して連隊を指揮し、重傷を負って野戦病院に入院してもなお脱走して戦地に赴こうとした。この時の負傷が元となり左足がやや不自由となる[36]。 熊本城を包囲していた西郷軍が駆逐された後の4月22日、乃木は中佐に昇進するとともに、熊本鎮台の参謀となり、第一線指揮から離れた[37]。 秋月の乱以後、西南戦争に至る一連の士族争乱は、乃木にとって実に辛い戦争であった。連隊旗を失うという恥辱もさることながら、萩の乱では実弟・正誼が敵対する士族軍について戦死し、師であり、正誼の養父でもあった玉木文之進が切腹した。 西南戦争の後、乃木の放蕩が尋常でなくなり、自宅にいるよりも料亭にいる時間の方が長いほどで、その放蕩ぶりは「乃木の豪遊」として有名になった[38]。 明治11年(1878年)10月27日、お七(結婚後に静子と改名した。静ともいわれる。)と結婚する。しかし、風采優美な偉丈夫として花柳界に知られていた乃木は、祝言当日も料理茶屋に入り浸り、祝言に遅刻したほどであった。乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留学まで続いた[39]。 明治12年(1879年)12月20日、正六位に叙せられ、翌13年(1880年)4月29日に大佐へと昇進し、同年6月8日には従五位に叙せられた[40]。 明治16年(1883年)2月5日、東京鎮台参謀長に任じられ、同18年(1885年)5月21日には少将に昇進し、歩兵第11旅団長に任じられた。また、同年7月25日には、正五位に叙せられた[40]。 この間、長男・勝典(明治12年(1879年)8月28日生)及び次男・保典(明治14年(1881年)12月16日生)がそれぞれ誕生している[40]。 明治20年(1887年)1月から同21年(1888年)6月10日まで、乃木は政府の命令によって、川上操六とともにドイツ帝国へ留学した[41]。乃木は、ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介された参謀大尉デュフェーについて、『野外要務令』に基づく講義を受けた。次に乃木は、ベルリン近郊の近衛軍に属して、ドイツ陸軍の全貌について学んだ[42]。 ドイツ留学中、乃木は森鴎外とも親交を深め、その交友関係は以後、長く続いた[43]。 帰国後、乃木は実質的に乃木単独で作成した復命書を大山巌に提出した(形式上は川上と乃木の連名であったが、川上は帰国後病に伏したので、ほとんどを乃木が記述した)。復命書は、軍紀の確保と厳正な軍紀を維持するための綱紀粛正・軍人教育の重要性を説き、軍人は徳義を本分とすべきであることや、軍服着用の重要性についても記載されていた[44]。 帰国後の乃木は、復命書の記載を体現するかのように振る舞うようになった[45]。 留学前には足繁く通っていた料理茶屋・料亭には赴かないようになり、芸妓が出る宴会には絶対に出席せず、生活をとことん質素にし(平素は稗を食し、来客時には蕎麦を「御馳走」と言って振る舞った)、いついかなる時も乱れなく軍服を着用するようになった[46]。 こうした乃木の変化について、福田和也は西南戦争で軍旗を喪失して以来厭世家となった乃木が、空論とも言うべき理想の軍人像を体現することに生きる意味を見いだしたと分析している[47]。 一方、乃木の著書を書いた松田十刻は上記の復命書で軍紀の綱紀粛正を諫言した以上、自らが模範となるべく振舞わねばならないと考えての結果という分析をしている[48]。 帰国後、乃木は第11旅団(熊本)に帰任した後、近衛歩兵第2旅団長(東京)を経て、歩兵第5旅団長(名古屋)となったが、上司である桂太郎第3師団長とそりが合わず、明治25年(1892年)、病気を理由に2度目の休職に入った。休職中の乃木は、那須野に購入した土地で農業に勤しんだ。これより後、乃木は休職するたびに那須野で農業に従事したが、その姿は「農人乃木」と言われた[45]。 明治25年(1892年)12月8日、10か月の休職を経て復職し、東京の歩兵第1旅団長となった。明治27年(1894年)8月1日、日本が清に宣戦布告して日清戦争が始まると、同年10月、大山巌が率いる第2軍の下で出征した[49]。 乃木率いる歩兵第1旅団は、9月24日に東京を出発し、広島に集結した後、宇品を出航して、10月24日、清の花園口に上陸した。11月から乃木は、破頭山、金州、産国及び和尚島において戦い、同月24日には旅順要塞をわずか1日で陥落させた[50]。 翌 明治28年(1895年)、乃木は蓋平・太平山・営口および田庄台において戦った。特に蓋平での戦闘では日本の第1軍(司令官は桂太郎)第3師団を包囲した清国軍を撃破するという武功を挙げ、「将軍の右に出る者なし」といわれるほどの評価を受けた[51]。日清戦争終結間際の4月5日、乃木は中将に昇進して、仙台市に本営を置く第2師団の師団長となり[50]、また、8月20日には男爵として華族に列せられることとなった。 台湾征討(乙未戦争)への参加と台湾総督への就任 [編集]詳細は「乙未戦争」を参照 明治28年(1895年)、台湾民主国が独立を宣言したことを受け、日本軍は台湾征討(乙未戦争)に乗り出したが、乃木率いる第2師団も台湾へ出征した[52]。 明治29年(1896年)に会津中学を訪問し講演を行った際の乃木(前列左から3人目)。明治29年(1896年)4月、第2師団は台湾を発ち、仙台に凱旋したが、凱旋後半年ほど経過した同年10月14日、台湾総督に任じられた[53]。乃木は、妻の静子及び母の壽子を伴って台湾へ赴任した。乃木に課せられた使命は、台湾の治安確立であった[54]。 乃木は、教育勅語の漢文訳を作成し、台湾島民の教育に取り組み、現地人を行政機関に採用して、現地の旧慣を保護して施政に組み込むよう努力した。また日本人に対しては、現地人の陵虐及び商取引の不正を戒め、台湾総督府の官吏についても厳正さを求めた[55]。 しかし乃木は、殖産興業等の具体策についてはよく理解していなかったため、積極的な内政整備をすることができず、民政局長曾根静夫ら配下の官吏との対立が激しくなって、乃木の台湾統治は不成功に終わった[56]。 明治30年(1897年)11月7日、乃木は台湾総督を辞職した。辞職願に記載された辞職理由は、記憶力減退(亡失)による台湾総督の職務実行困難であった。 乃木による台湾統治について、官吏の綱紀粛正に努め自ら範を示したことは、後任の総督である児玉源太郎とこれを補佐した民政局長・後藤新平による台湾統治にとって大いに役立ったと評価されている[57]。 また蔡焜燦は「あの時期に乃木のような実直で清廉な人物が総督になって支配側の綱紀粛正を行ったことは台湾人にとってよいことであった」と評価する[58]。 乃木希典那須野旧宅。日清戦争後に閑居していた時期に使用された。台湾総督を辞任した後休職していた乃木は、明治31年(1898年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。 しかし、明治34年(1901年)5月22日、馬蹄銀事件[59]に関与したとの嫌疑が乃木の部下にかけられたことから、休職を申し出て帰京した。ただし、表向きの休職理由は、リウマチであった[60]。 乃木は計4回休職したが、この休職が最も長く、2年9か月に及んだ。 休職中の乃木は、従前休職した際と同様、栃木県那須野石林にあった別邸で農耕をして過ごした。農業に勤しみつつも乃木はそれ以外の時間はもっぱら古今の兵書を紐解いて軍事研究にいそしみ演習が行われると知らされれば可能な限り出向き、軍営に寝泊まりしてつぶさに見学してメモをとり、軍人としての本分を疎かにはしなかった[61] 。 日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職したが、この後備任務が不満だった[62]。 5月2日、第3軍司令官に任命された。乃木はこれを喜び、東京を出発する際に見送りに来た野津道貫に対し、「どうです、若返ったように見えませんか? ども白髪が、また黒くなってきたように思うのですが」と述べている[63]。6月1日、宇品を出航し、戦地に赴いた。[64]。 なお、乃木が第3軍の司令官に起用された背景について、司令官のうち薩摩藩出身者と長州藩出身者とを同数にすべきであるという藩閥政治の結果とする主張もある[65]。 乃木が日本を立つ直前の5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した。乃木は、広島において勝典の訃報を聞き、これを東京にいる妻・静子に電報で知らせた。電報には、名誉の戦死を喜べと記載されていたといわれる。勝典の戦死は新聞でも報道された[66]。 乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団及び第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略であった[67]。 明治37年(1904年)6月6日、乃木は塩大澳に上陸した。このとき乃木は、大将に昇進し、同月12日には正三位に叙せられている[64]。 第3軍は、6月26日から進軍を開始し、8月7日に第1回目の、10月26日に第2回目の、11月26日に第3回目の総攻撃を行った[68]。 また、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した[69]。 乃木はこの戦いで正攻法を行いロシアの永久要塞を攻略した。第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となり(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の強襲法しかなかった)、乃木の指揮について例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった[70]。 乃木は補充のできない要塞を正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し相手を消耗させる事で勝利出来る事を確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。第3軍は満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したが、十分な補給がおこなわれる事はついになかった。旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時、乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている[71]。また大本営は度々第三軍に対して直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示を出し、混乱させた。特に203高地を攻略の主攻にするかについては第3軍の他にも軍が所属する満州軍の大山巌総司令や児玉源太郎参謀長も反対していた。それでも大本営は海軍側に催促された事もあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍にし、乃木達を混乱させた[72]。 乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられた[73]。 11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した。これを知った乃木は、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と述べたという[74]。 長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、2人なくした人もある」という俗謡が流行するほどだった[75]。 明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり抵抗も不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(ステッセルとも表記される)は、乃木に対し、降伏書を送付し、同月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した[76]。 なお、この戦いに関する異説として旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。この異説は司馬遼太郎の小説が初出で世に広まり、以降の日露戦争関連本でも載せられる程となったが司馬作品で発表される以前はその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない[77]。203高地は児玉が来る前に1度は陥落するほど弱体化しており再奪還は時間の問題であった。 また、この戦いで繰り広げられた塹壕陣地戦は後の第一次世界大戦の西部戦線を先取りする様な戦いとなり鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地に機関銃や連装銃で装備した部隊が守備すると如何に突破が困難になるかを世界に知らしめた。他にも塹壕への砲撃はそれ程相手を消耗させない事や予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能である[78]など第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。しかし西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り第一次世界大戦で大消耗戦となってしまった[79] 。 水師営会見 中央二人が乃木将軍とステッセリ将軍(後列左4人目松平英夫)旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)1月5日、乃木は要塞司令官ステッセリと会見した。この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセリが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう要請した[80]。 これを受けて、乃木は、ステッセリに対し、極めて紳士的に接した。すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセリに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた[81]。 また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた[82]。 こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され、賞賛された[83]。 また、この会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載された[84]。 乃木は、1月13日に旅順要塞に入城し、翌14日、旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。その姿は、日本語が分からない観戦武官及び従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の意訳を求めた[85]。 乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると判断していた。当初は東端の鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていた。旅順での激闘での消耗が回復していない第3軍は進軍開始直後は予定通り進撃していた。しかし西端こそが第3軍である事に気付いたクロパキトンが兵力の移動を行い第3軍迎撃へ投入、激戦となった。 第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された[86]。 その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。こういった第3軍の奮戦によって、クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上であると誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部及び中央部のロシア軍を退却させた。これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した[86][87]。 アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォッシュバンは、「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と述べた[88]。 乃木は、日露戦争の休戦を奉天の北方に位置する法庫門において迎えた。この際、参謀の津野田是重に対し、日露講和の行く末について、戦争が長引くことは日本にとってのみ不利であること、賠償金はとれないであろうこと及び樺太すべてを割譲させることは困難であること等を述べている[89]。 明治38年(1905年)12月29日、乃木は法庫門を出発し、帰国の途についた。明治39年(1906年)1月1日から5日間、旅順に滞在して砲台を巡視した後、大連を出航し、同月10日には宇品に、14日は東京・新橋駅に凱旋した[90]。 乃木は、日露戦争以前から国民に知られていたが[91]、「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した[92]旅順要塞の攻略が極めて困難であったことや、二人の子息を亡くしたことから、乃木の凱旋は他の諸将とは異なる大歓迎となり、新聞も帰国する乃木の一挙手一投足を報じた[93]。 乃木を歓迎するムードは高まっていたが、対する乃木は、日本へ帰国する直前、旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、戦死して骨となって帰国したい、日本へ帰りたくない、守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい、箕でも笠でもかぶって帰りたい、などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断った[94]。 凱旋後、乃木は明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。復命書の内容は、第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるものとし、また将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼む内容となっている。自らの作戦指揮については旅順攻囲戦では半年の月日を要した事、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかった事、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにも関わらず達成できなかった事を上げて、甚だ遺憾であるとした。乃木は、復命書を読み上げるうち、涙声となった。さらに乃木は、明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされる[95]。 『ニーヴァ』誌に掲載された乃木の挿絵旅順攻囲戦は日露戦争における最激戦であったから、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価され[96]、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置もまた賞賛の対象となり、特に、水師営の会見におけるステッセリの処遇については、世界的に評価された[83]。 乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また、子供の名前や発足した会の名称に乃木や乃木が占領した旅順(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した[97]。 加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された[98]。 明治40年(1907年)1月31日、乃木は学習院院長を兼任することとなったが、これには明治天皇が大きく関与した。 山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を明治天皇に内奏した。しかし、明治天皇はこの人事案に許可を与えず、自身の孫(後の昭和天皇ら)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院院長に指名した[99]。 明治天皇は、乃木の学習院院長就任に際して、次のような和歌を詠んだ[100]。 いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ また明治天皇は、乃木に対し、自身の子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれる[101]。 乃木は、当時の学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、生徒の生活の細部にわたって指導に努めた。また、乃木は、剣道の教育を最重要視した[102]。時には、日頃の成果を見せよといって、生徒に日本刀を持たせ、生きた豚を斬らせることもあった[103]。 こうした乃木の教育方針は、「乃木式」と呼ばれた[104]。 乃木は、自宅へは月に1、2回帰宅するが、それ以外の日は学習院中等科及び高等科の全生徒と共に寄宿舎に入って寝食を共にした。乃木は、生徒に親しく声をかけ、よく駄洒落を飛ばして生徒を笑わせた[105]。 学習院の生徒は乃木を「うちのおやじ」と言い合って敬愛した[106]。 他方で、そうした乃木の教育方針に反発した生徒たちもいた。彼らは同人雑誌『白樺』を軸に「白樺派」を結成し、乃木の教育方針を非文明的であると嘲笑した。これらの動きに乃木は、以前から親交のある森鴎外にも助言を求めている[107]。 明治41年(1908年)4月、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力した。昭和天皇は、乃木を明治天皇が崩御してから(といっても、乃木は崩御からわずか3ヶ月程で殉死する)は、その遺言に従って「院長閣下」と呼び、後に自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ[108]。 当時、裕仁親王は皇居から車で学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した。裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになったという。 旧乃木希典邸。乃木および静子夫人が自刃した場所でもある。 自刃前の乃木 [編集]乃木は、大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)及び光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。当時10歳の裕仁親王は、乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、「閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたという[109]。 (1912年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった[110]。 当時警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況等について詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している[111]。 1.乃木は、大正元年(1912年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町自邸居室において明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。 2.将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や辞世等を作成し、心静かに自刃を断行した。 3.夫人(静子)は、将軍が割腹するのとほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、将軍にやや遅れて絶命した。 4.乃木は、いくつかの遺書を残した。そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた[112]。乃木は、以下のような辞世を残した。 神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり また、妻の静子は、 出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき という辞世を詠んだ[113]。 なお、乃木の遺書には、遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておく旨の記載等があり、乃木自刃後も妻の静子が生存することを前提とした[114]。 乃木自刃に対する反応 [編集]乃木の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。乃木を慕っていた裕仁親王は、乃木が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ、「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついた[115]。 乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。特に、ニューヨーク・タイムズには、日露戦争の従軍記者リチャード・バリーによる長文の伝記と乃木が詠んだ漢詩が2面にわたって掲載された[116]。 一方で上記の乃木の教育方針に批判的だった白樺派の志賀直哉や芥川龍之介などの一部の新世代の若者たちは、乃木の死を「前近代的行為」として冷笑的で批判的な態度をとった[117] 。 これに対し夏目漱石は小説『こゝろ』、森鴎外は小説『興津弥五右衛門の遺書』をそれぞれ書き、白樺派などによってぶつけられるであろう非難や嘲笑を抑えようとした。 乃木夫妻の葬儀は、大正元年(1912年)9月18日に行われた。葬儀には十数万の民衆が自発的に参列した。その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現された[118]。 第三軍に従軍していた記者スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死を聞いて、『乃木大将と日本人』(原題『Nogi』)を著し故人を讃えた。 東京乃木坂にある乃木神社乃木の死去を受け、読売新聞のコラム「銀座より」では、乃木神社建立、乃木邸の保存、新坂の乃木坂への改称等を希望するとの意見が示された。その後、京都府、山口県、栃木県、東京都、北海道など、日本の各地に乃木を祀った乃木神社が建立された[119]。 嘉永2年(1849年)12月11日 - 誕生安政5年(1858年)- 長府に帰郷。慶応元年(1865年)- 長府藩報国隊に入り奇兵隊と合流して幕府軍と戦う。明治4年(1871年) - 陸軍少佐に任官。名を希典と改める。明治10年(1877年) - 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。この際、軍旗を西郷軍に奪われた(軍旗を参照)。明治19年(1886年) - 川上操六らとともにドイツに留学。明治25年(1892年) - 歩兵第5旅団長を辞任して2月に休職となる。12月に歩兵第1旅団長の就任ため復職。明治27年(1894年) - 歩兵第1旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。明治28年(1895年) - 第2師団長(陸軍中将)として台湾出兵に参加。明治29年(1896年) - 台湾総督に就任。母の壽子も台湾に来るが、すぐマラリアに罹患し、病没した[121]。明治31年(1898年) - 台湾総督を辞職。明治32年(1899年) - 第11師団の初代師団長に親補せられる。明治37年(1904年) - 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、第3軍司令官(大将)として旅順攻囲戦を指揮し、また奉天会戦に参加する。乃木勝典が金州南山で、乃木保典が203高地でそれぞれ戦死する。明治40年(1907年) - 学習院院長として皇族及び華族子弟の教育に従事。明治44年(1911年) - 7月1日に大英帝国のハイドパークで英国少年軍(ボーイスカウト)を閲兵。大正元年(1912年) - 明治天皇大葬の9月13日夜、妻・静子とともに自刃。享年62。墓所は港区青山霊園。大正5年(1916年) - 裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼に際して、正二位を追贈される。 明治11年(1878年)1月30日:勲四等明治18年(1885年)4月7日:勲三等旭日中綬章明治28年(1895年)8月20日:功三級金鵄勲章、旭日重光章、男爵明治30年(1897年)6月26日:勲一等瑞宝章明治37年(1904年)9月21日:伯爵受爵明治39年(1906年) 4月1日:勲一等旭日桐花大綬章 9月8日:ドイツ帝国からプール・ル・メリット勲章受領。明治40年(1907年)4月16日:フランス政府からレジオンドヌール勲章受領。明治42年(1909年)4月28日:チリ政府から金製有功章を受領。明治44年(1911年)10月25日:ルーマニア国王カロル1世からルーマニア星勲章を受領。明治45年(1912年) 5月10日:イギリスからグランド・クロス・オブ・ザ・ヴィクトリア勲章受領。 6月5日:イギリスからバス勲章受領。






2011/08/15 20:26:43|軍人
立花 小一郎

立花 小一郎(たちばな こいちろう、1861年3月20日(万延2年2月10日) - 1929年(昭和4年)2月15日)は、日本の陸軍軍人、政治家。男爵、陸軍大将、第10代福岡市長、貴族院議員。

1861年、三池藩家老・立花硯の長男として生れる。

1883年(明治16年)12月、陸軍士官学校(旧6期)を卒業し、陸軍少尉任官。1889年(明治22年)12月、陸軍大学校(5期)を優等で卒業した。陸士教官、参謀本部第1局員を歴任し、日清戦争では第1軍参謀として出征した。1896年(明治29年)から1899年(明治32年)までオーストリアに留学し、その後、清国駐屯軍参謀、参謀本部付(袁世凱軍事顧問)、陸軍省人事局恩賞課長、補任課長などを歴任した。

日露戦争では、第4軍参謀副長として出征した。1905年(明治38年)3月、奉天会戦直前に陸軍大佐に進級し大本営参謀に発令され帰国した。さらにポーツマス講和会議全権随員、アメリカ大使館付、陸軍省副官などを経て、1909年(明治42年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第22旅団長、歩兵第30旅団長、近衛歩兵第1旅団長、朝鮮駐剳軍参謀長、朝鮮駐剳憲兵隊司令官兼朝鮮総督府警務総長を務める。1914年(大正3年)8月、陸軍中将となり、第19師団長、第4師団長、関東軍司令官を歴任。1920年(大正9年)8月、陸軍大将となり、シベリア出兵では、最後の浦塩派遣軍司令官を務めた。その後、軍事参議官を務め1923年(大正12年)3月に予備役に編入。同年10月、男爵を叙爵し華族となる。

その後、1924年(大正13年)8月から翌年8月まで福岡市長、1925年(大正14年)7月から1929年(昭和4年)2月まで貴族院議員を務めた。







[ 1 - 5 件 / 17 件中 ] NEXT >>