二科 山梨支部

◇事務所 公益社団法人二科会山梨支部事務所 〒408-0036 北杜市長坂町中丸1498-3 [支部長]矢野兼三☎0551-32-3661     ◇事務局 [事務局長]出月智子☎055-272-2466 [事務局長補佐]菊島ちひろ☎0551-28-5447 [事務局長補佐/広報・ホームページ編集]坂本充☎0551-36-5903          
 
2014/08/31 8:33:37|その他
第99回二科展への挑戦、お待ちしています


公益社団法人 二科会 第99回二科展のご案内

 二科会が設立されたのが1914年、今年がちょうど100年になりますが、
 二科展は,、太平洋戦争により二年間(二回)開催出来ず、第99回目となります。


第99回展の開催概要

 会期  :  9月3日(水)〜15日(月) 但し 9月9日(火)は休館
         午前10時〜午後6時迄(入場は午後5時半迄)
         金・土曜日は午後8時迄(入場は午後7時半迄)
         最終日は午後2時終了(入館は午後1時まで)

 場所  :  東京都六本木 国立新美術館

 特別展示: 終戦後、中心になって二科会を復活し、二科会中興の祖とも言うべき
       東郷青児の作品、絵画9点、彫刻2点を展示します。

 会期中、金・土曜日にナイトミュージアム、9月12日18:00〜のミニコンサート、
 ギャラリートーク などいろいろ催しがございますので、お楽しみください。

 二科会絵画部・彫刻部・デザイン部・写真部会員による小作品のチャリティーコーナー
 を設け、 その売り上げを、NHK厚生文化事業団や被災地へ義捐金として寄付致します。
 お気に入りの作品見つけた方は、ご協力お願い致します。



二科展出品・挑戦のご案内

二科展には、二科山梨支部同人8名に加え、支部展受章者等出品致しますが、
一般の方で、二科展に挑戦しようという方は、二科会山梨支部支部長・事務局、
甲府市内の画材店のペキン堂・シンプク画材に公募要項がございますので、
お問い合わせください。

二科会では、若手美術家育成の為、35歳以下の出品者には、出品料の減額等
支援を図っていますので、一般部門出品挑戦お待ちしています。
又作品搬出入は、二科山梨支部が契約している搬入出業者さんをご紹介します。
個人で手配されるより、割安に出品できますので、二科会山梨支部にご相談ください。

 







知ってますか山梨の宝、青楓美術館

知ってますか山梨の宝、青楓美術館
 

 二科山梨支部は、県立美術館での第四回支部展を無事
終了しましたが、この会期中に笛吹市立青楓美術館関係
者が相次いで来場され、二科山梨支部の活躍を喜んで
頂き、青楓美術館の存在を二科関係者に伝えてほしいと
のメッセージを頂きました。
 2005年に山梨県北杜市に移住し、支部設立に注力、
何とかこの山梨県に二科会の活動の種まきと思って活動
し、支部長を務める私は青楓美術館のことは全く知
らずにいました。

 公益社団法人二科会は今年設立百周年を迎え、来年
は第百回記念展を予定していますが、青楓美術館の存在
を知ったことに不思議な巡り合わせ・縁を感じています。

 というのも青楓美術館は、100年前の二科会創設者の
一人津田青楓の美術館なのです。なぜ京都出身の青楓
の美術館が山梨県笛吹市にあるのか興味津々、支部展
終了後、早速青楓美術館を訪問し、答を頂きました。

 津田青楓と親交のあった一宮町出身の歴史家小池唯則
氏が、山梨県の文化の向上の為、美術館を作りたいという
思いを津田青楓に伝えたところ、青楓が心打たれ、美術館
設立の資金作りに役立ててほしいと自分の作品数十点を
寄付した。小池氏は津田青楓の作品を売ることなく、更に
青楓の作品等収集、多くのコレクターなどの協力・寄贈も
重なり、集まった青楓にまつわる美術品は500点。山梨
県立美術館開館に先駆けて、小池氏は40年前に私財を
つぎ込んで美術館を建て、津田青楓の作品や関係者の作
品の公開を開始したことをお聞きし、大変感動しました。
規模はともかく、山梨県で最初の本格的な美術館と言う事
になるのではないでしょうか?

 その後小池氏のご遺族が美術館・作品を笛吹市に
寄贈し、現在に至っているが、笛吹市のみならず、
山梨県には貴重な文化財だと感じました。

 津田青楓は、二科設立者の一人として知られるが、
その波乱万丈の経歴から、一般の方には馴染みの薄い
面もあるが、夏目漱石と親しく、その小説の表紙絵など
数多く手がけ、又歌人与謝野晶子との交流も知られて
いる。

 画家として洋画・日本画・水墨画に通じ、書家、歌人、
随筆家として、又良寛研究家等マルチ芸術家として活躍
した。最初の妻は洋画家山脇敏子で、後にデザイナーと
して活躍、山脇洋装学院を創設した事で知られる。

 今連続ドラマ「花子とアン」で山梨が注目されている
村岡花子との交流や村岡花子の生涯の友として登場する
柳原白蓮との交流等、この青楓美術館を訪ねると、青楓
の作品、彼の生き様を通じて多くのドラマ・感動を楽しめ
ると思います。  

 そして何よりも、自分さえよければという風潮の中、
私費を投じ、県民、全国の愛好家に美術館を残した
小池氏の足跡、私心を超えた熱き思いに共鳴する人々、
これこそ大きなドラマであり、小池氏が私達に残した
最大のメッセージではないでしょうか。

公益社団法人二科会(絵画・彫刻)の二科山梨支部
は、山梨県内ではほぼゼロからスタート、多くの人の支え
を得て、二科百回記念展の来年は支部展第五回の節目
を迎えます。支部として十名近くなった同人達と、青楓
美術館関係者と協力して、津田青楓、小池唯則氏の
足跡・功績を県民、全国に広く発信したいと思って
います。
  
           二科会山梨支部長  矢野兼三           
 








2014/07/17 7:30:17|その他
続 織田廣喜先生のこと
続 織田廣喜先生のこと

95才の誕生日の頃の対談より


この対談の中で、織田先生の生い立ち、人柄、絵に対する取り組みなどにじみ出てきますが、戦後二科の復興につくし、多くの画家を育て、世に送り出した東郷青児の人間としての器の大きさ、二科会が作家の個性、一人一人の自由を尊重する伝統を感じとって頂ければと思います。



画家 織田 廣喜 氏
日本女性は素晴らしい

 (インタビュアー 橋本純子)

「お誕生日おめでとうございます」そんなリボンのかかったたくさんの胡蝶蘭が玄関に飾られていた。
 
お誕生日だったんですね

 ええ、四月に九十五歳になりました。 絵が好きで好きで十歳から描き始めて九十五歳です。周りからの反対ばかりからはじまりましたが、 人生、絵一筋でした。
 僕は男ばかりの九人兄弟の長男でしたが、 逆に僕の母は女ばかりの姉妹の長女で、 幼い時から母方の叔母たちに囲まれて育ったようなものです。 夏には山の中の小さな川で叔母達が行水をします。 それをじっと眺めて遊んだり、 家でそれぞれ化粧をする姿を見ていました。顔も違い、 化粧の仕方も違いその仕草は絵を描くのと同じでしたのでとても勉強になりました(笑い)。 叔母達はあんまり魅力がなかったのでモデルにはしませんでした(笑い)。
 父も絵が好きだったようですが、 僕なりに東京へ出て美術学校へ入りたい。 しかし、家が貧乏で描きたくても絵の具もない。 周りから、「就職して結婚したほうがいい。 絵描きなんて食べていけないのだから」と言われ続け、 毎日泣いていました。
せっかくこの世に生まれてきて、こんなに絵が好きで絵描きになれないなんて‥ってね。
 そんな時、恩師の犬丸琴堂先生が母を説得してくださり十八歳の時、下関からひとり夜行列車に乗って上京することができて、 二十歳の時に美術学校へ入学しました。 先生のおかげです。 故郷の碓井の美術館も開館十二年目でたくさんの人に観に来ていただいて感謝しています。


今、毎日お描きになるのですか。

 そうです。次から次に追われています。 二百号や三百号の大きな絵を十枚も二十枚も頼まれることもあります。 小さな絵を一枚描くのも大変ですが、 却って力が集中して、元気が出るものです。
 
先生にとって「絵」とは?


 人生そのもの。 命です。 絵の完成はなかなか簡単にはできませんが、 嬉しい時っていうのは、 その場その時にあります。 完成に至るまでの中間の時ですね。 そしてたまに思いとおりに完成した時。 モデルなしで苦労もしますが、 どこにもないものが出来上がった時、静かに眺めて涙が出ます。 捨てたものではないなぁと思います。
 僕には絵以外ありませんが、 妻がそれを支えてくれました。 神様は僕にちょうどいい相手を与えてくださいました。 彼女は素晴らしい絵描きでしたし、 学校に行かなかった僕にそれ以上の力で助けてくれて、 絵一筋にさせてくれました。 僕の絵を批評してくれて、 そのおかげでいい絵に仕上がったものです。
 これからの希望はいい絵を描くこと。 自分で考えた、誰にも描けない、描いたことのないものを描きたいと思っています。
 画風は若い頃と変わりません。 変わろうと思ってもなかなか変えられません。 これは親に貰った性格で、 僕は弱虫で、 それが絵に出てしまいます。
 
画家にとってフランスとは憧れの地ですか。


 フランスは素晴らしいところです。 でも僕は言葉などわかりません。 手振り、身振りです(笑い)。 日本語と仏語で、 「私は貧乏絵描きです。 学校へも行っていません。 少女の絵を描きます。 ご希望の方は観て下さい」と書いた紙を胸から下げて絵を広げていました。 そうしているうちにだんだんと顔見知りになって、 しまいには友だちになっていきました。
 フランス人は「日本にはモデルとして日本女性がいるの、になぜフランスへ来るのですか」と言いました。 今、想うと日本女性が一番です。 小柄で美しくやさしい。 絵が好きで、夫を大切にします。 いくつになっても、 九十歳を過ぎても素晴らしい。
 
エピソードがあるそうですね。


 東郷青児先生に推薦していただきフランスに行ったのに、 絵も描けずに帰国の日が迫ってきた時、 その日を延ばすために映画出演の試験を受けました。 日本軍の部隊長の役でしたが、 カンヌ映画祭にも出た映画です。 ギャラをいただき、タキシードも二着いただきました。
 それで一年帰国が延びたのですが、叱られるのを覚悟で先生に「絵を描かずにサボって申し訳ありませんでした」とお詫びしました。そうしたら「絵描きは色んなことが勉強なんだ。いい勉強をしてくれた」と羨ましがってくれました。
 それからわかったことは、絵描きの人生はまじめだけではなくいろんなことで幅広く美しさを追求しなければならないということです。

 
先生の絵のなかには「さびしさ」のようなものが感じられます。

 絵は漫画のようになってはいけません。 ある程度の楽しさはあっても厳粛で哀愁をもつべきです。 いいモデルを求めて、どこかにいないかと世界中を旅して回ってもなかなかいないものです。 女性の美しさは見ただけではわかりません。裏、表、斜めから見るのです。 モデルには必ず良さがありますし、おかしいところは直せばいいのです。 つまり、モデルは作り物でもあります。 例えば、鼻の高さ、左右の目の働き、顔の輪郭、流行のおしゃれなどを含めて勉強して、 それをコントロールしながら地球上に同じ物が二つとないものを描くのが絵描きでもあります。 そのコントロールができるようになって女性の美しさがわかってくるのです。
 しかし、 これまた「人間の顔」が一番難しくてなかなか思い通りにいかないし名画に繋がらないのです。 僕は女性の表情のなかに幸せな寂しさを出したいと思っています。

 
二科会の理事長として

 昨年から二科展会場を永年の上野より六本木の国立新美術館に移しました。 今秋も九月十五日、 第九十三回二科展が終了したところです。 展覧会にはみんな懸命に描いて出品してきます。 ちょっとした呼吸で褒められた人はそのひと声で有名になって期待されていく。 その繰り返しですが、 なかなか褒められないものです。 神ではなく人間が審査し、その審査員によって評価が違ってきますから、 必ずしも入選作が自慢できるとは限りません。しかし、入選すると大変な騒ぎになりますね。
 
健康法は?

 特別にはなにもありません。 若い頃は日本酒を好みましたが、今は焼酎が好きです。 食事は子供の頃から貧乏でしたから何でも食べるようになっています(笑い)。
 兄弟は僕と一番末の弟以外は亡くなりました。 みんなそれだけ年なんですよ。 僕自身、一日に描く時間は不定ですが立て込んだ時は続けて描くので手足がしびれたりします。 でも大きな三百号などを描く時に梯子を使って描いたりしますので運動になりますね。



 
 







2014/07/15 23:29:00|その他
二科会前理事長 織田廣喜先生のこと
二科会前理事長織田廣喜先生のこと

 雲の上の巨星ともいえる織田先生ですが、そのお人柄は、先輩の先生方や多くの方から聞く話や、私が接した印象では、絵にかいたような「絵描き」さんで、世俗的な上下関係や権力欲とは無縁の、純粋で皆さんいに敬愛される人柄でした。大まかな経歴は下記の通り:

 1914年 - 福岡県千手村(現嘉麻市)に生まれる。
 1939年 - 日本美術学校西洋画科卒業。
 1940年 - 二科展に初入選する。
 1946年
- 戦後一回目の第36回展二科賞受章。

 1950年 - 二科会会員に推挙される。
 1960年 - 初渡仏。
 1968年 - 第53回二科展で総理大臣賞受賞。
 1971年 - 第56回二科展で東郷青児賞受賞。
         パリで初の個展開催。

 1992年 - 勲四等瑞宝章受章。
 1994年 - 恩賜賞、日本芸術院賞受賞。
 1995年 - 日本芸術院会員になる。
 1996年 - 碓井町立織田広喜美術館開館。
 1997年 - 碓井町名誉町民の称号を受ける。
 2003年 - 勲三等瑞宝章、フランス政府芸術文化勲章
         シュヴァリエを受章。

 2006年 - 二科会理事長。
 2012年5月30日 - 心不全のため死去[1][2]。98歳没。
         没後、従四位に追叙された
[3]

 織田先生は二科会誕生の1914年に生まれ、今年2014年は生誕100年ということで、いくつかの展覧会が次から次に催されており、私も横浜の催しに、先日お伺いし、新たな感動を頂きました。現在東京都調布市のギャラリーで織田先生、リラ夫人、ご子息の家族四人展も開催されています。

 1940年第27回展で初入選、1946年終戦後、復活した二科会最初の第36回展で二科賞を受賞し、その後も
数多くの実績を積み上げられ、2007年に二科展が東京都美術館から国立新美術館に移ったが、その前年の2006年に、役員制度・審査制度の大改革の仕上げの時に理事長に就任されました。いつも自然体で、二科と共に歩んできた、二科の申し子と言える存在ではなかったかと思うのです。

 先生のお人柄を示す話は、諸先輩から、次から次に出てきます。そしてすべて、先生の純朴で、温かい人柄を浮かび上がらせ、皆さん、懐かしそうに、先生への敬愛の思いを込めて語ります。
 
 織田廣喜の本を読んだ事ありますが(家中探しても出て来ないのですが)、パリ時代に、生活費に困って映画に出たことがあるとか(昨年、織田廣喜を偲ぶ会で、その映画を見ましたが、捕虜になった日本軍の将校役で、まじめな顔で詩吟を朗詠していました)、奥様も画家でしたが、奥様が病気で先に亡くなるのですが、
奥様をとても大事にし、アトリエにベッドを移し、奥様を介護しながら制作に取り組んでいた話し、貧しい中、狭い土地を手に入れ、そこに自分で家(粗末なものらしいですが)、一階は土地に合わせた小さい面積で、二階は敷地からはみ出す状態(冗談のような話ですが)、その後、土地を手に入れたのかよくわかりませんが、プールを作り、二階からそのプールで泳ぐ女性(奥様?)をスケッチしたり、それが後の浴場を題材にした作品になったとか、いろいろ思わず吹き出しそうな話の数々を思い出します。
 又、奥様が古くなった麻布を洗い、それを縫い合わせる光景を目にした人もおり、奥様に何をされているか聞いたら、なんと織田先生がF500号の絵を描くのに使うキャンバスにするのだとということで、赤貧の中でも、夫婦で前向きに絵を描くことだけを考えている姿勢に感動したという話しもお聞きしました。

 私が、初めて織田先生を近くで見たのは、二科展に出品しだした頃、初日の二科展開場での出品者懇親会で、挨拶される姿でした。「絵はうまく描くという事でなく、自分の心をこめて、しっかり足を地につけて、泥まみれになるぐらい、出品する直前まで描きこんだ絵が強いのです」というような話だったと記憶していますが、一生懸命話しされている内に、織田先生は、「自分で、何を言っているかわからなくなった、私は口下手でね・・・・・」となんとも飾らない、素朴な人柄にとにかく魅力を感じました。
 次は、二科展で会友推挙頂いた授賞式の後、そのあと、私の所属する支部の幹部、二科の大幹部の有志が上野のアメ横あたりで二次会の場所を探して、うろうろし、何とか席を確保した喫茶店で、やはり絵はうまくなってはいけないよということを繰り返しておられました。
 又、私が千葉支部の事務局をやっているときに、津田沼の駅前のホテルで、支部の新年会際に、来賓としておいで頂きましたが、挨拶の訥弁・
口下手ぶりは全く変わらず、そのあと会場にいた女性の二科出品先輩仲間が、先生を取り囲み、先生に似顔絵をせがむといやな顔せずに、一生懸命ハンカチやらスケッチブックなど出されたものに、一生懸命相手を見ながら、描く姿が、魅力的でした。「顔は難しい、特に女性は目が大事だから、鼻も大事、口も大事だが描き過ぎては台無し」とか、自分と周りを諭すように独り言言い乍ら、夢中になって描く姿、恐らく3人ぐらい続けて描いたとお思いますが、どの人の顔も、私には同じように見えるが、でも何か違う、織田廣喜の世界が見えたのを思いだします。恐らく先生の目と心には独特のフィルター、先生の也の造形が生まれつき備わっているのかなと思いました。
 
 そして最後の経験は、織田先生が銀座の日動画廊で開催した個展最終日の出来事です。私が日動画廊で、作品を拝見していると、織田先生が現れ、来客に会釈しながら、画廊の真中のテーブルの前に立って、ポケットをごそごそ手探りし、絵の具四色(ホワイト、ヴァーミリオン、ウルトラマリン、イエローオーカ-)と先がちびた太い丸筆一本を出し、画廊の人に、テレピン油と何かお皿みたいなもの二枚を貸してほしいとお願いされたのです。画廊側もびっくりして、事情を聞くと、日動画廊が次に九州に巡回展の為、展示作品を送る前に、どうしても二点だけ、気になるので直したいのだという返事でした。画廊側も慌てて、お皿二枚と、恐らく近所で買ってきたテレピン油をテーブルに準備しました。そして、先生の作品の手直しが始まりました。お皿の1つに、テレピン油を入れ、もう一つに、絵の具四色をチューブから搾り出し、手にした太い丸筆を、まわしながら絵具四色手慣れた様子で筆先にのせ、F10号ぐらいの作品に着彩しながら、もう一つの手は指を使いながら、描画開始、大家の実技が始まりました。私含め、会場にいた人たちが、周りを囲み、その中で、先生は一生懸命筆と手を使って制作に没頭。一時間近くだったでしょうか、先生は、よくなったと顔をあげて、私に向かって、「この絵を額に入れてみてくれませんか」と声をかけられたので、言うとおりにすると、そのキャンバスの周囲は、テレピン油で溶けた絵具でべたべた、私の手も絵具で汚れました。
そして、先生の手を見ると、とにかく絵具だらけ、白いワイシャツの袖も、そして高級そうな
ジャケットの袖も汚れていました。「先生、袖が大変です、折り返した方がいいですよ」と言いますと、違う絵を指さして、「それよりも、あの絵を額から外して持ってきてほしいのだけど、申し訳ないね」ということなので、言うとおりにしました。そして、二点の修正を終えると、にこにこして、「これで安心して作品を九州に送り出してもらえるね」という先生の満足げな様子を忘れません。恐らく、汚れたシャツもジャケットも安物ではないはずですが、先生の頭には絵のことだけ、他のことにはまったく頓着しないのでしょう。そういう先生ですから、指の爪先は、いつも絵具がこびりついていました。
 私は、そんな絵描きの生身の姿を拝見し、その世界に引き込まれたひと時は何物にも代えがたい思い出になり、他の来場客も一様に、こんな場面に居合わせて幸運だったとささやき合っていました。東京銀座四丁目の日動画廊で
テレピン油の匂いが充満する中での充実・感動の二時間でした。

 振り返ると、織田先生に限らず、二科の偉大な先輩である先生方とお話しできる機会は、常に手の届くところにあるのが二科会であり、そいう経験ができる二科会に感謝するばかり。今の理事長の田中先生も大変謙虚、決して、威張り散らすことの無い、
温厚な人柄で、私が一般出品者に過ぎない頃から、私含め誰にもいつもニコニコ声をかけてくれました。それは、私が、会友になり、会員になっても全く変わりません。この二科山梨支部の誕生にご支援頂いた多くの先生方二科会幹部、事務局含め、権威・上下意識は無く、助けてくれましたし、私達も、そういう精神を受け継ぎ、絵と共に人格の面でも魅力ある先生方に一歩でも近ずければと思います。

 今年は二科展は99回展、来年の二科会100回記念展に向けて、みんなで、前を向いて、精進しなくてはと思います。

             二科山梨支部長
             公益社団法人二科会会員 矢野兼三


最後に、織田先生の真髄を表す言葉を、冒頭で紹介した織田先生と対談した岸ユキさんの記事から抜粋しますと、

 織田  ・・・しかし絵がうまくならないのですよ。
    だんだん下手になるのですよ。

 岸  熊谷守一さんが、「下手も絵のうち」とおっしゃ
    っています。

 織田 そう、本当の意味での下手はいいけれど、
    つまらない絵になってくるとね。下手のおもしろさ
    というか、一生そういう絵で行けると大したもので
    しょうね。

 岸  たいていあるところまで行くと、うまくなって、うまく
    なりすぎるということもありますね。自信にあふれ
    ていて。

 織田 そうなったら絵の命はないですよ。絵でなくてはで
    きないものがあるわけですから。絵とはやはり
    デフォルメの適当に効いたものであり、子供の描
    いたような、いわゆる下手の味を残しながら、
    ”生命”を描くものなのです。風景でも人物でも、
    いい絵には香りがあります。そうは言っても、長い
    間描いていると概念が働いて、どうしても俗っぽく
    なってきます。といって、神経がいかれた気狂いで
    はだめでして、健康な心と目を持っていないとね。
     人が見ていないからちょっと鼻紙を捨てようという
    気持ち、小さな虫だから平気で踏みつぶす気持ち、
    そういうのはいけません。
    日常の細かい気遣いが絵に関係してくるのではない
    でしょうか。・・・・・

    絵にならないところでも、描いてみようと思ったら、
    どこにでも描く材料はあります。これは絵になるなと
    思うところを描いたらつまらない。常識的な絵になっ
    てしまう。絵にならな所を描くとコンポジションを
    工夫するでしょう。そこに心が出て来るからいい。
      パリは、そういう意味でどこもかしこもよすぎて
    キャンバスにパッとおさまってしまう。非の打ち処
    がないからかえって難しい。日本は電柱はあるし、
    広告はあるしめちゃくちゃです。その汚い所を絵に
    しようと思うと、よく見て取捨選択をする。それが
    大事なのです。
    いらないものを捨て、必要なものをバランスよく強調
    する、これを積み重ねていくと構図が取れて来て、
    いい絵になっていく。
    心の目でよく見ることですね。・・・







2014/07/03 18:29:00|山梨支部イベント・案内
第四回二科山梨支部展盛況の中、無事終えました

第四回二科山梨支部展盛況の中、終了しました


 公益社団法人二科会(絵画・彫刻部門)の山梨支部
(絵画)は6月6日〜12日の間、甲府市の山梨県立美
術館にて第四回支部展を開催し、12日盛況の内に、
無事終了致しました。

 過去三回展迄は二科役員・会員の賛助出品作品を
併せ展示しましたが、今年の第四回展では、山梨支部
同人八名の新作22点と昨年の二科展・山梨美術協会展
で受章した四名の受賞作品4点に加え、一般公募部門の
15点計41点を展示しました。

 お陰様で来場者は、過去三回の入場者数を大きく上回
る結果となり、多くの来場者より大変高く評価いただき、
有難く思っています。

 一般部門は、昨年に比べ大作に挑戦する出品者が増え、
国立新美術館での二科展を目指す意欲的な人も現れ、
明るい将来の可能性を強く感じることができました。

写真は、会場の様子です。
上三枚は同人の部、一番下は一般の部の様子です。

尚、来年の2015年には、二科会は第100回記念展を迎
えますが、山梨支部も第五回展の節目の年になります。
現在8名の同人も10名に増える見通しで、来年の第五回展
も山梨県立美術館で開催出来る様手続中ですが、来年の
展示は二科会100回記念展・山梨支部五回展を飾るに
ふさわしい、充実した、幅広い展示を検討しております。
ぜひ楽しみにしていただきたいと思います。


尚、同人であった、二科会会友の原ユキ子さんは、社団法人二科会に退会届を提出され、二科山梨支部も支部展の前に退会されました。従い、同氏に関係する投稿は抹消させて頂きました。