我々は、その時の自分に必要な情報をすべて持ちうることはできない。 古来、大きな文庫を構え、数多くの書籍を集めた著名な人々も、自分に必要な情報の何割かを蒐集しえただろうか。 この自覚がないから、この国には「ものしり」や「好事家」は育つが、大きな学問体系や古今東西に影響力を持つ学者、作家、思索家は育たない。 知りえた範囲でしかものを語れないからである。 世に行われる著述もしかり。 彼の知りうる(捉えうる)範囲からしか、ものを言えない。
個人が持たなければならないのは、何を見れば、どこへすっ飛んで行けば「そのことが分かるか」「何が最新段階で正確か」というインデックスである。 これが精細に出来ていればいるほどよい。 ネット上の情報を連想したら大間違いだ。 ネット上の情報が、どの程度正確で、量的にも圧倒的か否か、だれも保証してくれない。 むしろ、捨てるべき情報の多い、無駄に広いジャングルの感がある。 肝心なのは、そのインデックスを活用できる図書館の充実である。 これは個人の文庫や蔵書、コレクションをはるかに超える者でなければならない。 各地の図書館は、さらにさらに充実し、サービス体制や人的体制も含めて、さらにさらに中身のあるものとならなければならない。 図書館は、もう「完成した(成熟した)」ものではないのだ。
つまり、インデックスの次に大事なのは、図書館をどれほど活用できるか、その体制を用意できるか、である。
新年度の非常勤の講座が決まってきそうだ。 正直、身体的にもきついから、そろそろ引退させてもらおうかと考え始めていた。 が、上記のような、最も伝わっていない、伝えるべき考え方を片端でも伝えたいから、また、引き受けることにした。 小中高大という教育課程において、こういうことを教育されてこなかった彼らに、これを伝えることは大きいだろう。 知る範囲では、最も伝え甲斐と理解能力のある学生だとも思う。
写真:写真と記事とは関係ありません。甲州市塩山「さぬき」のかき鍋焼き。これの美味い季節になってきた。ここの出汁と手打ちのさぬき麺を大いに気に入っている。 |