旅先で触れる「芸能」にも様々あって、旅の感懐を一層深めてくれることが多い。
予定して出合った「芸能」より、思いがけなく遭遇したものの方が、心をつかまれることが多いような気がする。
旅人が出合う「芸能」にも、急きょ旅人用にこしらえられたものもあるだろう。
素人の高齢夫人や若者が練習を重ねて演じているもの。
ある時期から保存会、研究会という名の下に公開し始めたものもある。
一度途絶えた「芸能」をよその演者や指導者を頼んで、復活させたものなどもある。
これらはわりあいショーアップされていて、見栄えがする。
そうかと思えば、何百年間地の者に受け継がれてきたというようなものもある。
ここにはおいそれと外部の者は受け容れないというような雰囲気もある。
おうおうにして、歴史や由緒はありそうだが、あきあきするほど地味で単調なものもある。
被差別を想起させるような芸能で、下火になったもの(あるいは消滅したもの)もすくなくないだろう。
地元でも「甲斐国志」「裏見寒話」「甲斐の落葉」などの地誌を読んでも、おびただしい芸能が姿を消している。
諸相あるだろうが、旅先でなるべく「芸能」を見ようと思い始めたのは、ベトナムのハノイで水上人形劇を見てからである。
最初観光客向けの子供だましだろうと思っていたところもあったが、そんなものではなかった。
ホーチミンの肝入れがあったばかりではないだろうが、本格的なのである。
国の認めた楽師号を持った人々が座り、木(竹)琴、増え、太鼓で序曲を始める。
まるで日本の追分馬子唄のようでとてもノスタルジックだ。
舞台に当たるところにはこぶりのプールのようなのものがあって、バスクリンを入れたような色をしている。
背景は中国風の館を模した描き割。
囃子の調子が変わって、水上に人形だの龍だの舟など、スワンだの、天女だのが飛び出して演じる。
漁業の景色、田植えの景色、雌雄の龍のデートと子龍の誕生、将軍の凱旋パレード……まことに素朴でユーモラスかつ祝祭的な雰囲気のある空きのこない出しものだった。
どういう仕組みになっているのかと思ったら、最後にキャストが総登場した。
胸まではいるゴム長をはいてプールに入り、描き割のむこうで長い棒の先の人形を操っていたのである。
見ながら「どうしてこういう演出を考えたのだろう」と気になっていた。
翌日版画村ドンホーへ行く時通った土手の両脇に、沼のような田が広がっていた。
また、沼そのものも。
ドンホー人々、それに水牛は溺れそうになってこの泥田の中で格闘していた。
ベトナム煉瓦の運送も水路なくしてはできない。
水から生まれ、水と共に生き、水に死んでゆくこの国の死生。
水上人形劇もごく自然なのだ。
ハノイの街もホアンキエム湖という大湖が町の中心にある。
王朝総性の説話もこの湖に芽生えた。