新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2014/03/08 13:45:18|アート
加島査展
スケッチがよかった。
地中海周辺によくある崖上の集落。
つんと突き出たカテドラルも特徴だ。
スペイン南部やマジョルカ島の集落なんかには、私も心ひかれる。
健康が許せば、今も盛んに歩いていただろう。
一時は住みついてもいいなんて夢想していたくらいだし。

しかし、この光景を絵にすると、おやおや、またかいという話になる。
構図として最初から面白いから、作家の構成意識が希薄になるのではないだろうか。
凡庸で見なれた絵柄になってしまう。
何を表現しようとするかが、絵として緩んでしまうのだ。
残念。







2014/03/06 8:29:33|その他
ビットコイン
ITビジネスがさらに進展すれば、そのシステム利用した大規模犯罪が起こるだろうとは思っていた。
プログラムの脆弱な点をついて、ネット上の仮想通貨ビットコインが盗まれたという。
最大の取引機関マウントゴックスでは65億111万円相当の被害だそうだ。
現金も取られたと言っているが、これはいかなるからくりかわからない。

ネット上の商取引が拡大してくれば、そこ独自の決済の仕方が成長してくるだろう、とは容易に想像がつく。
楽天だののポイントもこの電子マネーに変わらない。
アマゾンだって、そのほかのネット商売でも、これをやりたいに違いない。

様々な仮想空間でアイテムを売り買いしているのも、その世界だけの仮想通貨である。
とは言え、それらには最初、プリペイドで現実の金で払われる。
通用してくるポイント自身金銭の価値を産む。
最初は利便性から、ついで投機的な目的も生じてくる。

ネット上の数字の入れ替えだから、やる側もさほどの罪悪感を持たぬかもしれない。
ハッカーならやりそうなことだ。

これだけ進展し、さらに想像もつかぬほど進む領域で、便宜上の仮想通貨めいたものが生じるのはやむをえない。
いや、ただこれでぼろもうけしようと言う発想の裏には、犯罪の必然性が潜んでいることを忘れてはいけない。

子ども銀行の紙幣や特定の商店街の商品券は、そこだけのものである。
どこかで売買されるようなものではない。
それを売買しようとするから、悪い奴も出てくる。
等価交換なんてやっていられるか、金がだめならビットコインさとばかりに。

仮想通貨利用のシステム運営側にも、あたまのいい、数学に強い連中が揃っているのだから、完璧なシステムを構築すべきである(可能ならね)。
彼らのありがちな、不完全なものを「独り歩き」させてお人よしが犠牲になることは具合がわるいのではないかと思う。

政府がこの取引も課税の対象にするなどと言い出しているのも、対策としては見当外れだし、この際、割り前にあずかりたいというみっともなさが露呈している。
放置するのとどっちが悪いか?

写真:映画「ノックは無用」のマリリン・モンロー







2014/03/04 6:12:20|アート
竹久夢二
大雪の葬儀のあわただしさもあり、到着のお知らせがおくれていた。
廣田知子さんより、『竹久夢二−大正ロマンの画家、知られざる素顔』(河出書房刊)を戴いていた。

今年は夢二の生誕130年の年に当たるという。
副題の示す通り、家庭人、一人の男性……の夢二の横顔について、30氏近い観察で収めている。
廣田氏のものは、「猫町文庫」第4集に載ったときから、新鮮な切り口だなと感心していたが、この一書で改めて読んでみて、作品の貴重さが痛感された。

夢二と言えば、昔々訪れた、東北の古い街喜多方での伝聞の印象が強かった。
それは、もう、晩年近かった頃のことろう。







2014/02/25 10:59:01|その他
将求山道不知母
14,15日は甲府の気象台で記録が始まって以来の大雪だった。

この間、94の父を恙無くおくることができた。
雪中、徒歩で弔問においでくださった先輩、知人、教え子の方々のご厚意は並々ならぬものを感じる。
心より感謝を申し上げたい。
父は「翁命おきなのみこと」というおくり名をいただいた。
ちちにまことにふさわしい気がするし、残された者たちをもほっとさせるおくり名である。
やがて春になったら甲府市街を眺める奥津城におさめることとなる。

一方、ショックだったのは、私より一回り若い教え子のくも膜下出血による突然死である。
昨年のY君の時にも、私はがっかりしてふさぎこんでしまったが、なんとかならなかっただろうか、と思う。
「寿命」とか「運命」とかいいたくはない。
まっとうさせてやりたいのは「いのち」である。

秋山之黄葉千茂迷流妹乎将求山道不知母(万葉集・208・柿本人麻呂)







最先端無用
初雪だ。
しかもかなりの大雪。
予定をひとつキャンセルした。
個人的には残念である。

「やむを得ず受け容れさせられていること」
というのが、この世の中にはずいぶん多いのだと感じる。
歳を経て、できれば次第にそういうところから離れたいと思うが、全てがすべてそうもいかないのが「世の中」である。

コンピュータが世に用いられ始めたころは、それを操作できることは特殊技能だった。
やらせることを考えて、せっせと自らプログラムを組んで、操作した。
単純な操作から、次第に複雑な操作へと進んだ。
それができる者は職場でもどこでも尊敬と違和のまなざしで見られた。
これをやるには、それなりの勉強・修業も必要だった。
オタクたらざるを得なかった。

ウインドウズというソフトができてから、コンピュータ操作の特殊技能性、専門技能性は薄れた。
予め組んであったプログラムを選べば、猫も杓子もその作業ができるようになった。
代表的な規制プロ不ラムはアイコンとしてコンピュータ画面に常置するようになった。
勉強・修業の度合いも以前よりはるかに軽減した。
コンピュータをいじっていても、もはやオタクとも言われない。

コンピュータ操作が大衆化したのである。
これは、一方では、結構なことだ。
けれども、大衆化すれば、既成のプログラムを使って、あるいはその陥穽を狙って、悪用しようとするものが出てくる。
バグ(プログラムの不備)も発見されやすくなる。
さらに高度な操作を期待するようになった。

よって、ウインドウズはしょっちゅう改訂をしなければならない。
改訂即応のコストは、当然利用者負担となる。
またかと思っても、「やらされ感」だらけでも、やらねばならない。
外へつながっているPCなどはとりわけそうだ。

スマホもしかり、LINEやツイッターを含むSNSもそうだ。
原発から供給されなければならない電力使用も。
そのたもろもろ。

何時の間にやら、時流に乗ってはいかん、と思う。
世間並の生活形態を保とうとするのも、いかがなものか?
もっと古臭くて、頑固で、非能率でいいのだ、と。
最先端である必要はない。