ここ数年、学校図書館での子どもたちの「読書活動」を盛り上げる一方で、図書館(やそこのメディアを)自身を大いに学習利用したいものだということを講義している。 なぜそう強調するかについては、学生諸君にもなんとなく理解されるのだが、本に「いい本」と「よくない本」とがあることを理解させるのは、なかなかホネである。 「よい本を読むべきだ」「子どもによい本を薦めるべきだ」と唱えると、「本に善し悪しはない。第一誰がどんな基準で善し悪しを決めるのか。何をどう読んでもよかろう」と反論される。 「よい本」を読ませたいというのは、大人の「おしつけ」であるかのような印象を持つらしい。
そのうち気づいたのは、彼らのほとんどが「選書」指導を受けたことがないということだ。 知的なものに目覚める段階になって、あちこちの著名本のリストなどを覗くことはあっても、発育過程で「この本はよい。この本はよくない。君にふさわしいのはこれだ。なぜならば……」と教えてくれる年長者が、彼らの周辺にはいなかったのだ。 だから、立派な人がびっくりするようなタイミングで、呆れるような本に感心していたり、ブログに引用していたりしているのを見かけて、ひとごとながらみっともない気のすることもある。 「今、こんな本を読んで喜んでいちゃだめだろう。まして、人に語っていてはいけない」と思う。 入ってしまえば、勉強しないでも済む難関大学に籍を置いた名残だな、と。 余りに個人的趣味の収書の弊害もあるな、と。 書店などで「おススメする本」としてあるのも、基準が、営業的に感じて首をかしげることも少なくない。
「好きな本」を「好きなように」読めばいいじゃないか。 「大人や教師がとやかくいうことはないじゃないか」 私はノーだと言いたい。 好きな本に出会うためには、過程があるのだ。 これを踏まなくては、時間の無駄だし、頭脳やハートを悪くする。 第一、過程を踏まない読書は、ひどく偏った知性のあり方しか作らず、正しい読解力を養わない。
今年もまもなく開講になる。 がんばって説いていきたい、できる間は。 |