新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2014/01/30 11:48:33|本・読書・図書館
県立図書館を語る会、解散
山梨県立図書館を語る会、解散。

いつの間にか10年経った。
10年前、県立図書館はPFI方式で(すなわち民間の経済力で)建て替えられようとしていた。
県立、県営、教育委員会管轄という組織からも離れて、指定管理者による運営が当然導入されるという見通しだった。
日本中の体育施設、ホール、社会教育施設が荒波のように同様の模様替えが進んでいた。
危機感を感じた有志で組織したのが「語る会」である。

私も創設から参加して、状況に憤懣やるかたない思いでいた。
県の総務課がこういう計画を推し進めようとしたのは、英国サッチャー、日本小泉依頼だから、ありがちの発想だった。
管理が教育委員会から離れればそれは法律上図書館ではない。
指定管理の運営になれば、地域の永続的な資料収集・保管期間ではなくなってしまうだろう。


図書館に対する地域のインフラ的な意味合いなど理解していなかったし、図書館・読書・本・検索ということについて、なんらの愛情を抱いていない人が多かった。
が、もっとショックを受けたのは、図書館内部(あるいはOB)の一部が、「図書館もこれまで同様では生き延びられない、指定管理なり民間の活力を使わなければ」と言い始めたから腹が立った。
と同時に、「もう、県立図書館は県の中央図書館でなくともかまわない。市町村図書館とは対等だし、役割分担だ」とも言いだした。
戦後以来がんばってきた県内の図書館運動の落日をみる思いであった。
私は当時教育研究機関にいて、まさか、図書館に配属されることはあるまい、自分の図書館への思い、信念からすれば、最悪のタイミングだからだ。
「語る会」のメンバーとして、当時の県の施策として推し進められていた上記のような計画に毒づいていた。

行政は恐ろしく皮肉である。
一番批判の急先鋒だった自分は、図書館に送り込まれたのである。

その後の県政の状況の変化で、上記の計画は白紙に戻った。
以後、再出発した図書館のあり方について、「語る会」は必死の、不利な戦いを推し進めてきた。
昨年の開館を迎えても、危惧される点はいくつも残った。

いくつも残った危惧は開館一年を経て、ますます色濃くなっている。
雪崩のように流されて行きながら、図書館は少なくとも半世紀は立て直すことはないだろう。

ともかくも「語る会」は解散した。
これからも凝視し、おかしいことはおかしいと言い続けなければならない。







2014/01/18 14:32:49|文学
事実と学問
作家論か作品論かという議論がある。
最終的には作家論に行き着くべきだが、それは作品論を積み上げた成果としてなされるべきだろうと思う。
そうして作家論は最終的には文学史を指向すべきだということになる。
ためにする作家論というのは、事実考証や時代考証、社会背景を語ることに偏して、何事かを語った気になるという弊害がある。
自然主義、私小説、リアリズム、プロレタリア文学などに大きなウエイトを置いてきたわが国文学を語ろうとすると、こうなりがちであった。
もっとも文芸学というものの未成熟な我が国においては、作品論は常に感想めいて科学的な学問たりえななかった。
そこに哲学も言語学等を基盤とする学問的な構造はなかったのである。
だから、大学においては、近代文学の講座を閉め、日本文芸学として古典文学中心にやるところも出てきている。
古典文学研究の方が、たとえ勲功注釈の文献学的であっても、あるいは本居宣長以来の国語学的ではあっても、まだ学問であるべき「方法」はあったのである。

単純にいえば、事実に淫し過ぎてはいけないということである。
個々の事実がいかに刺激的であってもだ。
これをコレクションするのは研究の準備であって、研究そのものではない。
むしろ好事家の仕事である。







2014/01/09 13:40:44|ベトナム
ハノイの水上人形劇
旅先で触れる「芸能」にも様々あって、旅の感懐を一層深めてくれることが多い。
予定して出合った「芸能」より、思いがけなく遭遇したものの方が、心をつかまれることが多いような気がする。

旅人が出合う「芸能」にも、急きょ旅人用にこしらえられたものもあるだろう。
素人の高齢夫人や若者が練習を重ねて演じているもの。
ある時期から保存会、研究会という名の下に公開し始めたものもある。
一度途絶えた「芸能」をよその演者や指導者を頼んで、復活させたものなどもある。
これらはわりあいショーアップされていて、見栄えがする。

そうかと思えば、何百年間地の者に受け継がれてきたというようなものもある。
ここにはおいそれと外部の者は受け容れないというような雰囲気もある。
おうおうにして、歴史や由緒はありそうだが、あきあきするほど地味で単調なものもある。

被差別を想起させるような芸能で、下火になったもの(あるいは消滅したもの)もすくなくないだろう。
地元でも「甲斐国志」「裏見寒話」「甲斐の落葉」などの地誌を読んでも、おびただしい芸能が姿を消している。

諸相あるだろうが、旅先でなるべく「芸能」を見ようと思い始めたのは、ベトナムのハノイで水上人形劇を見てからである。
最初観光客向けの子供だましだろうと思っていたところもあったが、そんなものではなかった。
ホーチミンの肝入れがあったばかりではないだろうが、本格的なのである。

国の認めた楽師号を持った人々が座り、木(竹)琴、増え、太鼓で序曲を始める。
まるで日本の追分馬子唄のようでとてもノスタルジックだ。

舞台に当たるところにはこぶりのプールのようなのものがあって、バスクリンを入れたような色をしている。
背景は中国風の館を模した描き割。

囃子の調子が変わって、水上に人形だの龍だの舟など、スワンだの、天女だのが飛び出して演じる。
漁業の景色、田植えの景色、雌雄の龍のデートと子龍の誕生、将軍の凱旋パレード……まことに素朴でユーモラスかつ祝祭的な雰囲気のある空きのこない出しものだった。

どういう仕組みになっているのかと思ったら、最後にキャストが総登場した。
胸まではいるゴム長をはいてプールに入り、描き割のむこうで長い棒の先の人形を操っていたのである。

見ながら「どうしてこういう演出を考えたのだろう」と気になっていた。
翌日版画村ドンホーへ行く時通った土手の両脇に、沼のような田が広がっていた。
また、沼そのものも。
ドンホー
人々、それに水牛は溺れそうになってこの泥田の中で格闘していた。
ベトナム煉瓦の運送も水路なくしてはできない。

水から生まれ、水と共に生き、水に死んでゆくこの国の死生。
水上人形劇もごく自然なのだ。
ハノイの街もホアンキエム湖という大湖が町の中心にある。
王朝総性の説話もこの湖に芽生えた。







2014/01/02 8:53:54|病を飼いならす
非人の意識
新年のご挨拶を申し上げます。
変わらぬご厚誼をお願いいたします。
世の中をいじろうとする人のいる限り、留めようもなく、ますます厳しい世相になってゆくような予感がしますが、子や孫や親愛する人のためにがんばっていただきたい。

月水金、月水金……と人工透析に頼っている自分は、大晦日も元日もありません。
特別な用事があって変更をしない限り、生きている限り、いつも同じペースです。
今年も元旦から4時間ベッドです。
まあ役立たの、いわば「益なき者」である。

病をしてから、わがままなようだがはっきりと思い決めたのは、「残り時間をなるべく自分のために、したいことのために使おう」ということだった。
世のため人のためにはなんら役に立たぬかもしれない。
社会保障制度などにはむしろ依存しているウエイトの方が高いかも。
その合理化、事業仕分けに怯えているし。

最近、民俗学方面の文献を読んでいて、そこに現れる「非人」とは自分のことだとつくづく思いいたった。
時代的な社会的事象と思っていたことが、振り返ってみたら……。

二度目の危機から3年は経った。
常に、どこからともなく湧いてくる、生きているだけまし、現状維持できればいいやという気持ちを、もはや抑えねばいけない、と自分でも思う。
気が弱くなっているのではないけれど、億劫になってきているのである。
がむしゃらがなくなってきた。
さらに、他人に語りかけることもしたいし、まとめる仕事もしたいし、気になっていることに眼を停めて考えてみたい。
これをしなけりゃ駄目でしょ!

写真:富士川町穂積あたりから 冬至前の候







2013/12/31 14:09:02|本・読書・図書館
壊れかけのノート
いつぞや「猫町文庫」執筆者の集いがあった時、大学時代からの友人が、当時の老教授の雰囲気について話した。
「毎年毎年かわることのない講義を、えんえんとノートにとらせていた」と。
すると、違う大学だった出席者のある人から
「それは誰か?」
という質問もあって、私自身、ふとある老教授のことが目に浮かんだ。
先生のノートはまくる時気をつけないと、ぽろぽろと崩れてしまいそうな印象があった。
さらにあちらこちらに、つぎはぎをした跡も多かった。
内容はギリシャ・ローマの野外劇から、現代のミュージカルにまで及んだ。

今思うのは、先生は、退官までかかってあのノートを仕上げたのだろうと思った。
学会でその領域の大賞を取られたのも、あのノートが骨子だったろう。
私が卒業して間もなく、先生は退官された。
わずかな期間私大に出られたが、すぐに北陸の自分の寺を守って過ごした。
庫裏には誰もが見られる文庫があったという。
先生は日本芸能史の権威だったし、学会の中心におられた。
先生の没後に出た著作集も、あのノートが威力を発揮していただろう。

さらに毎年毎年同じような、部分的には増補されている、講義内容を打ち立てるというのは、大変な精神力と日ごろの施策が必要だと思いなおした。
変わり映えのしない、至極つまらない講義に見えたのは、自分たちが不勉強だったし、学問をまだ始めていなかったからだ、と、今になれば恥ずかしい。

webでこのところ数年変わらぬ講義シラバスを送信しながら考えた。
シラバスは守らなくちゃな。
内容の充実、改変ははからなければならない。
しかも、学生の折々の疑問や問題提起を無視して、形式的な講義を強行する訳にもいかない。
形式的でも「対話」は残しておかねばならない。
そういうことさえなくなれば、もはや教育ではない。
まして大学での。
なるべく、シラバスは守ろう。
学生にも、就活ばかりに追いまわされる本末転倒は止めよと言っておこう。
勉強も含めて、好きなことを、思いっきりできる大事な時間で、それこそが生涯の仕事の元になる、と。