半井桃水の指導を受けながら小説を作ろうと悪戦苦闘していた樋口一葉の随筆(ネタ帳とも思えるが)に、甲州財閥の雄・若尾逸平の30歳のエピソードの記述がある。
逸平は山梨の「いとかすかなる商人」だったが、「土地にも暮らしわびて」江戸で「なりはひの途もとめん」とて、上京しようとした際のこと。 一泊した八王子で、夜中に目覚めて隣室の二人の話を聞く。 「この頃横浜の沖に外国船多く来てこの国の物産をあがなひゆくといふ 水晶などは殊に高価」だから、 明日は甲州に行って、安く買占めよう、と。 翌朝、隣室の二人は深酒をして寝坊をし、若尾は未明に出発して、甲府に着いた。 水晶の専門の人々を説き歩いて、全て自分に売る約束を取り付けた。 他県の二人が入県した時には「塵ばかり」も残っていなかった。 値を問わないと説得して、三つある水晶山のうちの一山をようやく手に入れた。 その後、若尾はやることなすこと順調に行って、「去年」国会開設にあたり、山梨の多額納税議員として貴族院議員になっていた。 横浜若尾銀行、東京馬車鉄道会社、東京電灯会社等々。 「森のした艸一」所収。 馬場孤蝶や新世社版全集は随筆扱い、筑摩の全集では日記扱いである。
一葉が何のためにこれを書きつけたか、国会開設の歳の感懐か、小説のネタとしてか。 書きぶりには説話のような、落語の枕のようないい味がある。 ネタだとすれば、小説は世俗のネタを拾って話に仕立てるという「かわら版」的な作法が彼女にはまだ残っていた。 そしてこれは、師匠半井桃水が大阪の朝日新聞で行っていたことである。 一葉との会話で、桃水は自分の作風を「こんなものしか世に容れられない」と、自虐的に語っている。 『たけくらべ』も『にごりえ』『わかれ道』、一葉の代表作は、実際はこの手法を昇華させたものである。 町の人々の喧騒と会話、噂、スキャンダル……これがその小説の骨格であり、重要なファクターである。 眼で読んで分かりづらく、耳で聞いたら分かりいいのもそのせいだ。
写真:秋の瑞垣山麓。 |