新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2013/11/21 9:40:53|その他
運転
車の運転が好きだ。
かつては陸続きのところなら、あくまで車で行きたいという気持ちだった。
仕事を終えて、近所を少し歩いてみたいという心理も働く。
もちろんまとまった休みでも取れればそれはそれで自分の興味関心で出かける。

高速道路を飛ばすのが好きだ。
自動車マニアではないし、余裕もないから、特別な車に乗るわけではない。
その普通の車で、カーステレオ、カーラジオと共に、西へ東へ車を走らせて(ここじゃそれしかないが)、遠景近景、季節の推移などを眺めるのがとても好きだ。
古い知人ゆかりの地を通りながら、旧友を思い出したり偲んだり、とりとめもなく次々に想念が浮かぶのに任せている。
覚えておいてメモでもしておけばよかったというような鮮やかな考えが浮かぶこともあるが、たいていは煙草の煙のようなはかないものである。
しっかりと考え続けた訳ではないから、メモしておいても、使い物にはならないだろうと思う。
このぼんやりした、しかも様々なことを浮かべては沈める時間が好きである。

かつては何時間運転していても平気だったし、楽しかった。
今も腰痛の問題がなければ「どこまーでも行こうー」とムッシュかまやつの古いコマーシャルソング口ずさみながら何時までも運転していることだろう。
それとも最近のトラックのCMか。

5カ月もの入院の間辛かったのは、病院の館内から一歩も出られないことだった。
人や車の行き交う明け方や夕間暮れの街を見下ろして、我が愛車はどうなっていることだろうと思うのは辛かった。

外気温を示す数字も、ずいぶん下がってきた。
それでもまぶしいくらいの日差しが車内に差すこともある。
紅葉の鮮やかな地もあるが、枯葉が路面やフロントウインドウに舞い散ることも多い。
目的のない車での遠出はこれからも止められそうにない。
今日は点検と共に冬タイヤにかえておこう。

年賀状のデザインを、さて、どうしようか?







2013/11/21 9:05:31|病を飼いならす
腰痛辛し
慢性的な腰痛だ、それも週3回の透析患者の宿命だろう、などと思っていたが、今回のはひどかった。
椅子にすわているのはいい。
たとえば車の運転など。
しかし、降りて歩こうとするととてもとても辛い。
腰のちょうつがいがまっすぐ伸びず、まっすぐには立てない。
無理やりやろうとするととても痛い。
動かないでいればどうなるか分からないから、少しは動いて身の回りのことをする。
動くことがいい影響をもたらすか、悪影響になるか分からない。
温めたり、貼り薬を貼ったり、気休めみたいなことを色々やってみる。

出席すべき会合を直前になってひとつ失礼してしまった。
今度のひどい腰痛が支障なくなるまで5日もかかってしまった。
発作というのかどうか、こういう症状がやってきて回復するのに次第に日数がかかるようになっている。
思えば、不安なことは多い。







2013/11/17 9:34:41|アート
榎並和春展
榎並和春展いったりきたりが始まったので早速見せてもらう。
今回は、絵の方から抜け出たかのようなお面が二階を占領する。
これがとてもいい。
様々な感情が穴のあいた目や口から漏れ出て、思わず聴き耳を立ててしまう。
不気味さや神性あるいは反感ではない、人間らしい感情の揺らぎ、饒舌のあとの、いや、祝祭の後の一瞬の放心を感じて親しみが持てる。
この試みをブログ上で拝見した時とは、また、違った印象を受けた。
いろんな場面で見るお神楽のヤマタノオロチだとかスサノオノミコトなんかを思い出させる。
またはサバンナの人々の祭りの面。

1階の絵には、ますます音楽が聞こえる。
リュートとかなにかのかすかだがしっかりした音だ。
大作「音を観る」は観音かな、魔崖仏のように心強い。

会場で榎並氏とお会いする。
何年かに一度個展を開催する画家に比べて、自分などはさほど忙しくない、と言われるが、やはり、年間3から4回の各地での個展は勤勉でなければできない、と感じてしまう。
体調を維持して、ますます健筆をふるわれることをご期待したいものだ。

写真:榎並和春ブログから借用

甲府丸の内画廊イノセント
11月16日ー24日 11時ー18時







2013/11/15 16:31:05|甲府
甲府オリオン通り
恵比寿講だからか、甲府オリオン通りの小さなギャラリースペースで古い甲府の写真展をしていた。
久しぶりに名を聞いたのが映画館「オリオン・パレス」だ。
私などは「オリオン座」と言っていたものだが、正式には「パレス」らしい。
しかも、この映画館の名にちなんで甲府紅梅町の一画を「オリオン通り」と名付けたという。
私などは通りの名が先かと思っていた。
観終わったら、町内会の人だろう、お礼と共に「よっちゃんイカ」を3袋くれた。

アメリカ映画中心の洋画専門館だった。
一番の思い出は、婚約中の叔母夫婦のデートの監視役で、何回か映画を見せられたことだ。
叔母は見合いで結婚したものの、照れくさくて初めての甥っ子を引っ張り出したのかもしれない。
帰りにはハヤシライスかアイスクリームかがついていたように思う。
私は叔母たちにかなり利用された。

五人姉妹の惣領が母である。
二番目は特養に入っている。
デートに同行させられた三、四、五番目の叔母たちは、もうこの世にいない。
ある時期、若い方からぱたぱたと亡くなってしまった。

「みちくさ」は画廊喫茶になって存続している。
味も変わらず濃厚なコーヒーだった。

写真:昭和38年頃のオリオン通り







桃栗3年柿8年
屋敷の中には甲州百匁というのか、渋柿ばかり3本植えてあった。
柿の木に跨がって、我慢できずに梢の柿にかみついて、口の中に苔を作って、それが甘柿だったらどんなにいいか、と私は思った。
手間のかかる渋柿だけなのかが不思議で、理由を祖父に聞いたがはっきりしなかった。

祖父は獲った柿をせっせと樽に入れては焼酎を吹きつけたり、ふろの残り湯につけたりして渋抜きをしていた。
焼酎の匂いのする樽柿は、私は苦手だった。
皮をむいた干し柿(甲州ではころ柿というが)は殆どやらなかった。
梢に残ってゼリー状になった熟柿は自分は好きだった。
祖父もこれが大好物だったと思う。
これを味わいたがために渋柿を植えていたくような気がする。
あるいは生まれ故郷の北巨摩へのノスタルジーか。
一本の木に「ひとつだけは実を残せ」と祖父は言った。

祖父が柿の取り入れから始末をしなくなって、渋柿はだれも収穫せず、梢の熟柿も野鳥のついばむのに任せていた。

柿の葉の紅葉ほどつややかな、鮮やかな美しさを、私は知らない。
「枝が折れやすいから」と言われていたが、私は塀伝いに柿の木には毎日のように昇った。
実際落ちてけがをしたことはなかった。

甲州市松里あたりの柿すだれを眺めてはカメラに収めて散策する人々の多い季節である。
石和あたりの富有柿もいいが、百匁のような渋も、私は好きである。
熟柿やそれをシャーベットにしたのなどは今や夢である。