新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2013/05/14 8:01:36|その他
つきあわされてはたまらない
歳を取るとだんだんフィクションを読まなくなってくる。
頭の中で想像して創造しつつ読み進めると言うことがおっくうになってくるのだろう。
知的な力が衰えるとも言えるが。

かわりにエッセイだの、歴史もの、「史実」や政治的な動きの片ペンなどに関心が偏るようになる。
分った気がしたり、「教訓」を得た感じがして、満足感が得られやすい。今の時代、それを文字にしようという仕事が持ち上がることもある。
高尚な仕事じゃない。
こういうものに付き合わされる暇はない。

大きな総合病院には入院患者用の図書室が設けられていることが多い。
最上階のそこを覗いて見てがっかりした。
圧倒的にミステリーと歴史小説が多いのである。
重病、何秒で収容されてはいても、なお人は人殺しの話や権力争いの「史実」のかけらに触れたいのだろうか。

歳をとる、精神的な力が衰えるという以上に、天性フィクションが苦手、想像力を働かせて文字表現を享受することのできない資質の人もある。
こう言う人は、他人の想像力による産物も評価できない。
殊に若い世代の産物など、読まずに否定する。
そのくせ批評家顔するから恐れ入る。
自らも「事実」と勘違いしたディテールを好事家的に収集することに熱中する。
痴呆的といわねばならない。

自分だってあやしいのだから、他人の老化現象につきあわされてはたまらない。

孤独に耐えられなくて、周囲を巻き込もうとする営為も、迷惑なものだ。
もう少し生産的な時間の使い方をするがいい。
私は私で、残り時間もそうはないのだ。







2013/05/11 15:51:49|甲府
甲府時の鐘
遅ればせながら、JR甲府駅北口に建った「甲府時の鐘」を見てきた。
車で通過しながら、片目にはいつも見ていたのだが……。

この鐘楼にはひときわ思い入れがある。
復元のモデルとなった鐘楼のあった玄法院(天神町)は、近いし、縁続きだからだ。
当代住職は従兄でもある。

観てきて、説明パネルに次のようにあって、納得して帰ってきた。

(引用始まり)
寛文年間(1661-1673)ごろ、横近習町(現・中央2丁目)に在った超勝山歓喜院(現・廃寺)に鐘楼が建立されました。柳沢時代の城下再整備に伴い、宝永5(1708)年に愛宕町へ移転後、火災で焼失しましたが、文化15(1818)年に再建され、明治5(1872)年まで使われていたといわれています。

この鐘楼は、甲府市民の幸福と甲府市の発展とともに、甲府を訪れる多くの方々のご多幸を記念して、141年の時を経て、平成25(2013)年に、甲州夢小路に新造されました。前述の愛宕町の鐘楼を模造したと伝わる法性山玄法院(現・天神町)の鐘楼を模し、同寺に残されていた写真・鳥瞰図・礎石を基に、底辺3間(5.4m)角、高さ5丈(15m)、銅張の外壁といった仕様で、忠実に再現されています。
(引用終わり)

玄法院は山号を法性山という。
山号、寺号とも武田信玄に由来する真言宗醍醐派の名刹である。
「時の鐘」について、先先代の文城法印は、「鐘は戦争の時に供出させられた。その後も利用されることもなく放置されていたようだったが、探しても行方知れずになっていた」と嘆いたことを覚えている。
なにやら新美南吉の童話「ごんごろ鐘」を想起させるはなしだ。

かつてはこの鐘の音と、愛宕山の大砲「午砲(ドン)」の音が、甲府の名物で、甲府市民に時の検討をつけさせていたという。

境内には天然記念物の大銀杏、お岩さんを祀ったお稲荷さんもある。
後者には、芝居を演じる者や映画人がひそかにお参りすることもあるという。

それにしても、計画立案者の丹沢さん自身が見学者に説明をしているのには感心した。
氏は見学者に鐘を鳴らすボタンを持たせて試させていた。
「20秒たって鳴ります」と言いつつ。
「いずれ箱をおいて東日本大震災の被災者にカンパをしようと思ってますが、今はタダです」とも笑いながら。
施設は造りっぱなしでななくて、こういう人の手わざが大事だと痛感する。

夢小路のテナントにも、観光客ばかりでなく、近隣の人も行きたくなるようなきらりと光るような魅力的なショップが続々と入ってほしい。
「時の鐘」の四面に貼られている銅版も、緑青が吹くようになってくるとさらに落ち着いて見えるだろう。
鐘の音も、拍子抜けするほど、静かな、威圧的ではない音だった。








2013/05/07 17:06:57|アート
大坊珈琲店と牧野邦夫展
−練馬へ行ってきましたよ。
−牧野邦夫さん(1920−1986)の個展ですね。どうでした?
−充実した内容で、とてもよかったですね。誠実な人ですね。
−なにしろ画だけでした。展覧会も面倒臭いというんですから。
−牧野さんを初めて観たのは、こちらでした。
−はい。「大坊珈琲店の午后」ですね。1982年ですから、亡くなる5年ほど前です。よくおみえ下さってね。お会いになっているかも。
−いいえ、私は夜遅くか、朝の開店直後ですから、どうですか。先日テレビで(日本テレ系列)で「未完成の塔」を取り上げてたでしょ。キャンバスの裏に自分の年代記を書いていましたよね。
−そうでした。10年分くらいでしたね
−「千穂出現」という記述もありました。
−今度の展覧会も千穂夫人の熱意ですね。
−榎並和春さんのブログに引用されていたことばですが、「画家になるために画を書き続ける人と、画を描き続けてきて画家になるひととがある」とね。前者の画家がいかに多いことか。うまいけれど痩せていて、おいしくないのですね。音楽畑もそうだけれど。牧野さんは後者の一人の代表ですね。美校を出たことやレンブラントの信奉者だったこととは別にね。
−「未完成の塔」ですがね、やはり「未完成」ですかね。
−そうは思いませんでしたね。こんな普通名詞で題してはいけませんね。76年の段階で既に個展に出しているのですから、その後も筆を加える気持ちがあったにしても、その時点での「完成」でしょう。
−ここを描いた作品も、このカウンターに豚やら森の小人のようなイメージが描かれています。千穂さんも、恥ずかしながら私も、私がドリップする手つきも実に写実の極みという一方で。
−森の木陰でどんじゃらほいという感じで、いいじゃないですか。「写実と幻想」というレッテルですが、こういう対位法はどうかと思いますね。牧野氏には対象の背景・周囲に見えていたのでしょうから。意図的にストーリー性を取り込もうとした時期には、あの執拗な手わざが、かえって装飾的になっていますね。
−70年代後半からの時期でしょ? 饒舌なんですよ。
−晩年というのも気の毒だけれど、また80年代のは実にいいのですね。堪能した個展でした。

 表参道の「大坊珈琲店」にも、この5年行っていない。大坊氏の自家焙煎で燻された店内と文庫本、CDたち! カフェオレ・ボールと、棚のバーボンウイスキーよ。







2013/05/05 9:12:24|甲府
喜久の湯温泉かいわい

甲府市天神町。
古い路地だ。

子どもの頃太宰治の背中を流したという自称詩人のパン屋の倅がいた。
太宰が仕事終わりに銭湯に入り、帰り道、毎日のように買った豆腐屋もまだあった。
小説「美少女」のモデルかもしれない理容店も。

この路地を甲斐駒ケ岳を遠望しながら東に向かうと、御崎神社、甲府一高、関屋地蔵に湯村温泉郷、旅館明治、厄地蔵尊(塩沢寺)にいたる。
北に行けば、旧陸軍甲府連隊の参謀本部、今は国立病院から附属小中学校、山梨大学。
湯村山の裾野は元の練兵場で「畜犬談」の舞台。
今の総合グランドだ。
南へ下れば「I can speak」の路地。
どこもかしこも太宰の面影がある。
今年の桜桃忌の予定はどうなっているのだろう。

喜久の湯は銭湯の常で猛烈に熱い印象があって苦手で、数度ほどしかつかっていない。
銭湯でも、最近、太宰関連の企画に熱心なようだ。







2013/05/04 16:08:21|民俗・芸能
自然を畏怖するということ

山道や村道で車を走らせていると、普段見掛けなかった幟を発見して、
「ここにもお社があったのか」
と驚くことがある。
お神楽の奉納なんかに巡り合わせれば、これは大変な僥倖だと感じる。
と同時に、いまだに暮らしや農業サイクルの中で、これを守り続ける習慣のあることにほっとする。

天皇制だの国家神道だのと、ややこしく観念的なことはさておき、原初からの我々の受け継いで来た自然崇拝や穢れを忌む念を、思い出すのだ。
これがあれば、原発だのなんだのという問題が起こりようもなかった。
まして、自国の原発災害の後片付けの路線も見えないのに、外国にはその技術、システムを売ろうとするなどという、みっともない詭弁は使えないはずだ。

富士山とその周辺が世界文化遺産になりそうだ。
この地域は、どこかの街のように、食べ歩きのラクチン観光地になるほど、美味しいものもなくてよかった。
しかし、これで儲かりそうなどとはゆめゆめ考えない方がいい。

とは言え、「世界自然遺産」を諦めて、「文化遺産」に切り替えたのは、作戦として成功したのだろう。
スバルラインができて、五合目まで自動車がとおり、山麓の植生が死滅しつつあった時、作家新田次郎が地元新聞に頼まれて書いた原稿(1964年筆か)を見たことがある。
そこには富士山周辺の自然破壊を痛烈に批判し、「乞食観光」という激越なことばを入れていた。
結局これは新聞社は載せず、穏当な記事に書きなおしてもらった。
原稿の欄外に、新田は「これは○さんにあげてください」とぽつりと鉛筆書きしている。
その怒りは大変なものだったとは、奥さんの藤原ていさんの言である。
「○さん」は地元新聞の記事の担当だった。
富士山が「自然遺産」になれなかった理由は明らかだ。

新田は富士山山頂に気象観測用の球形ドームを備えた時の気象庁の測器課長だった。
彼には富士山頂で越冬観測を強行した野中到夫妻を描いた小説「芙蓉の人」ほかがある。
彼なら、今、何と警告するだろうか?
富士山とその周辺を畏怖すべし。

写真上、(山梨県北杜市須玉)根古屋大神宮の大神楽奉納。
下 富士河口湖町大石から