新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2014/05/22 9:06:45|樋口一葉
久々の便り
もうあしかけ2年以上も長患いをしている人から、久しぶりに便りがあった。
ようやくパソコンは使えるようになったので、ご無沙汰を詫びかたがた便りをする、と。
T書房の一葉全集のあらかたの註と、校訂をされている人で、一葉研究周辺では、研究成果・人柄ともに私の最も敬愛する人である。
その思いは渋谷近辺の喫茶ルノアールで初めてお会いした30年近くも前からまったく変わらない。
大学に属していないが、氏の研究・調査実績をみると、そのことがかえって見事だと思える数少ない一人だった。

私は、この間、とても案じていて、自分が見舞いに飛んでいける体調でもなかったので、余計に氏のことはとつおいつ考えていた。
自分の病臥中の思いもまざまざと思い出していた。
だから、氏の便りを手にした時はとてもうれしかった。

長くはない手紙の9割方は、一葉の「ゆく雲」や「雪の日」から感じられる甲州来訪説について触れていて、今度は、日記にも登場する甲府の郵便局員伊波隆次の件もこのテーマに援用されている。
病中も回復期の今も、氏の一葉への関心は決して失われることはなかったのだなと胸が熱くなる思いがした。
返信をしたためながら、一葉の甲州来訪説についての追尋は、私自身は何年か前、地元紙へ書いて以来休止しているなと反省した。

こういうこと載せると、また、ちゃちゃを入れる不快な人々が出てくるかもしれない。
いい年をして、暇なことだ。
無視することとしたい。
使うべき時間、語るべきひと、読むべき本も限られてきた。
無駄にしたくない。
大事なことを中心にやりたいのだ。

慈雲寺にて 三神弘氏(右)五十嵐勉氏(左)4月







2014/05/15 8:58:21|病を飼いならす
社会保障の見直し?
私は身体障害者である。
腎臓の機能がなく、週3回各4時間の人工透析を受けて生命維持をしている。
6年前、心臓のバイパス手術と共に人工透析を導入した時、赤い手帖を交付された。
人口透析は毎月30万円を超える大変な医療費がかかるから、30年近く昔は、田地田畑売りつくせば、あとは医療処置もできず死んでゆくばかりだったという。
今は身体障害者扱い、難病認定をしてくれているからこそ、治療・改善とはいかないが、現状維持くらいしてもらっているのかなと楽観的に感じている。

とは言え、透析施設はみな同じだが、私の通うクリニックも透析を繰り返すだけで、腎臓始め併発する病状の治療は何にもしない(し患者数から行って、できない)。
だから、金曜日まではぴんぴんして透析に来たのに、月曜日にはこの世にはいなかったということも、時々はある。
脳血管や、心臓へ来てしまうケースが多い。

何年か前から、世の中には不穏な空気が流れている。
「社会保障」の合理化というやつだ。
「国民皆保険」制度の見直しというのもそうだ。
はっきり言えば、医療費の自己負担率のアップである。
難病患者の切り捨て策だ。

これが通れば、難病を抱えている病人の何割かは、医療措置の継続が難しく、早晩、この世を去っていかねばならない。
TPPによって医療現場が海外を含めた民間経営にゆだねられてゆくと、医療費における自己責任、「自己負担は顕著になってゆくだろう。

教育、福祉、食……如何なる「聖域」も例外なく「合理化」だ、「自己責任」だといわれると、申し訳ないが、常に後がないような、崖っぷちに立たされているような気がする。







2014/05/10 10:17:02|文学
小林冨司夫氏のこと
「鎌倉の村岡花子の弟の未亡人のところへ行ったこともありますよ」
と言うと、いろんな所へ行っているねと呆れ顔をされる。
無理もないだろうと思う。

県立文学館の創設が決まって、大きなテーマは「山梨の文学」だという。
立派な展示室も閲覧室もある。
それぞれを支える収蔵庫や書庫がある。
これらの施設を充実させるべく、「山梨の文学」というテーマにふさわしい文学者、作品はどこにあるのか?
そこから調べ学ばなければならなかった。

時の知事と建設構想委員会の中心にいたT氏などの頭の中には境川の飯田蛇笏・龍太及びその周辺の文学者の墨書や来簡等があったろう。
東京から来ていた一部の学者には、神田神保町の三茶書房が保管している芥川龍之介の膨大な資料こそがこの文学館のホネだと思っていた。
そこには精神に異常をきたした龍之介の母に代わって、小学校の図画から作家としての活動気、死後の報道記事までほかんしておいて叔母の急増もものだった。
芥川は、もちろん、山梨生まれなどではない。
ゆかりの作品がある訳でもない。
建設構想委員会が強弁して折り合いをつけたのは、ここから先である。

小学校以来、「蜜柑」「トロッコ」「杜子春」「蜘蛛の糸」「羅生門」……。
芥川作品に触れない者はいない。
その意味では、芥川は「国民的作家」と言える。
資料の散逸を防ぐために山梨の文学館がこれを収蔵することには大きな意味があろうと。

この考えの裏に、「芥川資料くらい備えていないと山梨の文学館はとてつもなくマイナーなものになってしまうだろう」という杞憂もあった。
一方、「境川の資料だけで十分だ。元々、蛇笏・龍太記念館構想だったのだから」と力む者もいた。

こういう論議に常に懐疑的だったのは、四季派の詩人で、地元紙のぶんかぶちょうもやった小林冨司夫氏だった。
私宅にうかがう度に、小林氏からは「山梨の文学及び文学者」への烈しい熱誠を吹きつけられた。
それは文壇の傍流であったり、ある時期影響力はあったものの、その後人々から忘れ去られた、山梨寝付きの作家と作品たちだった。
小林氏はうかがう度に明治以来の「山梨の文学」関係者の名を無数に挙げるのだった。
そして、悲痛な声で、
「こういう人たちや作品を伝えられないと、文学館は意味がないんだ。これができなくて、僕は顔向けができない」
と追われた。
最期まで一貫していた。
人として蛇笏を敬愛して著書も持ち、友として龍太に親しんできた人の炎は、いつも私を勇気づけ、また、戸惑わせた。

関係者、関係作品をメモした「小林メモ」というのがあった。
小林氏が思いつくまま書きとめた紙片である。
私はこれをもらって、いちいTどこへ行けば誰に逢えるか、生きた痕跡、書いたものの断片、弟子や仲間たちに逢えるかを念を押したものである。
小林氏が見当もつかなくなっている人も多かった。

来る日も来る日も電話をかけ続け、手書きを書き続け、靴をすり減らして訪ね歩いた。
建設事務局には「何にもない」ことの焦りを紛らわすように。
北は青森、南は九州の柳川まで、私はさすらい続けた。
辿り着いたS機で、また、合わねばならない人や行くべき所、見るべき書の噂を聞いては、ますます連絡する先は増えて行った。

平成元年の11月3日に開館したものの、自分の気持ちとしては、あるべき充実度の3割にも達していないという思いだった。
開館当初の構想、小林氏の熱誠、これらをその後誰が引き継いだのだろうか。

鎌倉の安中健二郎さんの旧宅を訪ねたのも、こういう事情の中である。







2014/05/01 17:11:11|雑誌「猫町文庫」
「猫町文庫」第5集編集とお願い
少々間が空いてしまいましたが、
「猫町文庫」第5集の編集を始めます。
刊行は「もうちょっと頻繁に」とおっしゃる向きもあるでしょうが、
事務的経費的にいっぱいいっぱいです。

編集所から執筆をお願いする方には、別途メールを差し上げます。
作品をお寄せになる方は、「猫町文庫」各集の応募規定をごらんください。
規定ご入用の歳はご請求ください。お送りします。
作品の掲載につきましては、編集同人で読ませていただき決定します。

締め切り:6月末日

掲載費:1ページあたり500円

1ページあたりの基本の掲載文字数(タイトルを除く)
 小説、シナリオ……2段組 25字×21行×2段=1,050字
 エッセイ、評、報告……16字×21行×3段=1、008字
 ※レイアウトにより文字数は多少異なる。

入稿形式:
 ワード、一太郎、テキスト形式
 打ちっぱなしでいただきたい。段組み・レイアウトはしないでください。
 図版等あったらメールに添付して入稿してください。その際、版権・著作権者に掲載許諾を得てください。

つきましては、お願いがあります。
「猫町文庫」は、編集所でAdobeのCreative Suiteを使って印刷屋同様に編集・製版を行い、
印刷所(身障者の印刷授産施設)では印刷・裁断のみしてもらいます。
構成は執筆者と編集所とのやり取りの中で行うしか方法はありません。

「自前編集・製版」のシステムを使えばこそ、
500部の印刷代が35万、消耗品と発送が5万、計40万円に抑えられています。
けれども、維持会員の方々(約100名)からお出しいただく会費のみではまかないきれず、
これまでのところ、刊行の経費は持ち出しとならざるをえません。

そこで、お願いですが、
第5集以降、ご執筆の方々には、維持会費やご厚志をいただかない代わりに、
刊行後、紙数(ページ数)に応じた掲載費を頂戴できないか、ということです。

稿料どころか掲載費とは。まことに心苦しいのですが、事情ご理解の上お願いいたします。

富士吉田のうどん屋はなやが閉店していました。
がっかりです。







2014/04/26 15:22:05|スペイン
途上にて、ロンダ・スペイン
スペインのロンダという街は「峡谷の街」と異名があるほど山間の小さな街だ。
ローマ時代、イスラム治世、カトリック時代のそれぞれ名残を残していて人気がある。
南の地中海沿いアンダルシアへ降りてゆくバスは、この街で一旦休憩をとることが多い。
乗客は思い思いに旧市街やイスラムの浴場跡を眺めたり、ヌエボ橋からの渓谷とその彼方に広がるアーモンド畑の景色なんかを眺めて時間を潰す。

こういう街にひと休みする面白さは、住人の暮らしぶりの観察である。
小さなアンティークショップでは孫娘が留守番をしていた。
ブリキ細工や金銀銅の細工物で、本物は数点で、残りはこしらえものです、と悪びれずに言った。
バルの店先で犬と店番をする年寄り。
連れだってのっしのっしと街へ買い物に下りる修道会の尼さん。

案内所に行って、市街地のマップをもらい中心に戻る。
通りの反対側には地域でも有名な闘牛場だ。
向かいのカフェテラスにすわってカフェ・ソロを頼む。
どこを観ようが見まいがかまわない。
この山の街の昼下がりの時間にほんのすこしでもひたれればよかった。

闘牛場も昨今の動物愛護の風潮、どこも閑散としている。
興業ポスターなど見かけると、ひどく懐かしい意匠である。
私は、あの、マタドールの精いっぱい見栄を切りジゴロめいたいかがわしい派手さ加減を心から愛していた。
彼らを取り巻く(だろう)サディスティックで尻軽なおんなたち。
乾いた空気をつんざく哀れっぽいトランペットの音。
砂埃の上の引きずられた牛の流血の跡。
何人のマタドールが終油のミサをあげてもらったであろう闘牛場附属のマリアの祭壇。
黙して語らぬ強烈な太陽。
その日の獲物の牛肉の驚くほどの堅さとまずさ!
これらの過剰の全てを、私はスペインの一つの個性として偏愛していた。

今や闘牛しかり、フラメンコしかり、あんまりお行儀のよくないものとして、ショー化されたものだけが演じられている。
残念である。
ピレネー山脈の南の広大なアフリカでもヨーロッパでもない地。
この地のアンバランスを失っては、スペインではない。

(昔の旅の思い出話)