新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2010/12/12 10:16:35|その他
何か変で、悔しい
「?」が「??」となって「???」となって、半ば憤りに近くなって、「時々こういうことが強行されるよな」と思う。
それは地デジ化という件だ。
電波が足りなくなるとか、情報が多く送れるようになるとか、様々に言われるけれども、こんなこと、国民の、誰が、いつ、頼みました?
それとも、私が知らないだけで、誰かが強くお願いしていたの?
これが本当に必要だという詳しい説明もなく、来年7月には今のテレビは見えなくなります、と一方的な通告という印象である。
これはいつから広報していたとかの問題ではない。
きれいに映るんだからいいではないか、という問題でもない。
「一方的」という問題だ。

いつの間にか、我が家のボロテレビの右上には、「アナログ」と文字を入れるし、画面の上下には、「これは見られなくなるから、はやくなんとかしろ」的な文字が勝手に入る。
誰が、いつ、うちのテレビに、こういう文字を入れていいと言いました?
電波ジャック、表現の規制なんて、いとも簡単ということですな。

以前にも同じような憤慨をしたことがあって、それは公文書の版型のことだ。
ある時から、急に、書類はB5、B4の紙型を止めて、国際基準のA3、A4でやりなさいときたもんだ。
そうして、公文書から公的な刷りものはすべてこれに則るようになった。
したがって、美濃紙以来の伝統ある、日本の美しいB4版型を基準とした版型の体系をかなぐり捨て、文書も、したがってコピーもA4系列に、雪崩を打つように変わっていった。

その時にも、地デジにも感じたことだが、結局、どこかからの圧力で、国民に金絞り出させようってことだろ、内需拡大ってことだろ、と思わざるを得ない。
でも、一時しのぎのこれが、本当に経済活性化に役立つんですか?

いっそ、こういう風潮にはいっさい与しません、テレビも見ません、とやればいいのだが、それをやると、今や、情報やアメニティの谷間に落ちたように、あらゆることが不平等と自己責任を問われる仕組みだ。

結果、従順で貧しいこの国の国民は、電気屋に飛んでゆき、「エコポイントがつくうちに、ナントカ」とあわてて、テレビを買い換えることになる。
何か変で悔しいが、我が家も例外ではない。

前政府が、ガソリンを一時的に値下げして、また、元に戻すという、国民を愚弄するにもはなはだしいやり方をした時、暴動が起きるんじゃないか、と思ったけれど、何もなかった。
自分も起こさないのだから、これは遠吠えみたいなものだが、こういう、気づかないうちに「長いものには巻かれろ」的な卑屈な思考や行動パターンをとっていて、天皇制や戦争犯罪といった大情況にばかり食ってかかってもまったく仕方あるまいと思うのだ。
大情況の変化にも、これじゃ、下手に協力することはあっても、歯止めをかけるなんてことは、できやしない。

なんか中国や北朝鮮ばかり呆れていれば済むという問題ではなさそうだ。

お調子もんのメディアなんてとっくにあてにならないし……。

まったく、何か変で、悔しい!!







2010/12/12 9:37:25|樋口一葉
一葉を考えるためのフレーズ(9) 母たきのプライド
一葉を読んでみて、彼女の短い生涯、その心の有り様を見るとき、どうあっても見過ごしてはいけない、
と私が考えるフレーズを抜き出してみました。

 母君は、いと、いたく名をこのみ給ふ質にておはしませば、児(こ)、賎業をいとなめば、我死すともよし、我をやしなはんとならば、人のみぐるしからぬ業をせよとなんの給ふ。そも、ことわりぞかし。我両方(ふたかた)は、はやう志をたて給て、この府にのぼり給ひしも、名をのぞみ給へば成けめ「筆すさび」一二十四年九月

写真:左から妹邦子、母たき(旧名あやめ)、夏子(一葉)







2010/12/11 11:23:06|甲斐の夜ばなし
大柳の精
 鎌倉の大仏さまもすっぽり入る大きさだという甲斐の板垣の里、定額山善光寺は、永禄元年(一五五六)、川中島の戦で信濃善光寺が兵火にかかるのを怖れた武田信玄公によって本尊、尼僧ともども甲斐国に移されたものでございます。

 近くの酒折の茶店のしのぶという娘は器量よしで街道を行く旅人にも評判でございました。
年頃ですがどんな良縁にも耳を貸そうとしません。
親も小野小町のようでは困るとこればかりは悩みの種でした。

 実は、しのぶには二年ほど前から色白長身で美男の精十郎という言い交わした男があったのでございます。

 二人が逢う瀬を楽しむのは、草木ばかりか人も寝静まる丑三つ時、茶道峠にかかろうという森の中でしたから、親も近所の者も知るはずはなかったのでございます。
しかも、互いに物足りないとは言え、いつも空が白むのを怖れるようにせかせかと後朝(きぬぎぬ)の別れをしなければなりませんでした。

 ある晩のこと、清十郎はやつれきった表情でふさぎ込んでおりました。しのぶが、

「加減でも悪いのですか、それとも、なにか心配事でも?」

と聞いても首を横に振るだけでございます。

 時の経つのも忘れて過ごした夜もとうとう明ける時が近づいてきました。
清十郎は目に涙を浮かべて、しのぶをまじまじ見つめていましたが、やがて、

「今日までお前を欺いていて済まなかった。しかも、今宵で最後になるとは……」

と言いました。驚いてかぶりを振るしのぶに、清十郎は沈んだ声で続けました。

「おまえは甲府の高畑の大柳のことは知っているだろう。あれが私の本当の姿なのだ。お前の美しさにひかれ、人に化身して夜ごと通っていたのだ」

 間もなく東の空が白んでこようという時刻です。

「このたびお屋形様がこの近くに信濃から善光寺を移すという話をお前も聞いていよう。本堂は撞木造りで横十五間、奥行二十五間にもなる。棟木は二十五間必要だということで、数百年のこうを経て、近郷にないほどの巨木の私に白羽の矢がたって伐られることとなった。如来様の供養になることだから私にも抵抗しきれない」

 清十郎の姿が心なしか薄く透き通り始めました。
夜明けが近いのでございます。せかされるように清十郎は語ります。

「今宵限りで愛しいお前にも永劫に逢えなくなってしまうが、これだけは話しておきたい。柳の精の私だが、人の女のお前を心底愛していた。どうか、私のことを忘れて、達者に暮らしてくれ」

と言い終えるか終えないかで清十郎の姿はすーっと明け始めた空に溶け込んでしまいました。

 絶望のあまり倒れ伏したしのぶがふと気づくと、柔らかい草のしとねと思っていたのはうずたかく敷き詰められた柳の枯れ葉だったのでございます。
 
 何日もかかった高畑の大柳がようやく伐り倒された、としのぶが聞いたのは、清十郎が別れを告げた翌日のことでした。

 虚空をつかむような思いでうちひしがれていたしのぶの耳に、こんな噂が風の便りに入ってきました。
伐り倒した柳の大木は千人の曳き人足がとっかかってもびくともしないというのです。
しのぶは涙をぬぐって一人高畑に出かけていきました。

巨木ですが、色白ですんなりと伸びた柳の木が地に横たわっているのを見ると、しのぶにはこみあげるものがありました。
しのぶは人目もはばからず柳にとりすがり、

「清十郎さま、しのぶでございます。清十郎さまはせめて我が家にも近い善光寺の立派な棟木となって私を見守ってください。私もいつでも清十郎さまのお姿を見られるように……」

と泣く泣く語りかけて、美しい声で今様を歌って聞かせました。
すると、先ほどまでびくともしなかった柳の木は人足のかけ声と共にするすると転がした丸太の上に載り、二十人ほどの人足でやすやすと動き、酒折まで運ばれたといいます。

 こうして善光寺の大本堂は竣工をみることになりました。
ことのてんまつを聞いた武田信玄公は悲恋を憐れんで、厚い褒賞のことばとともに黄金の棒一本をしのぶに与えたと申します。
しのぶは黄金の棒を清十郎の形見のように毎晩抱いて寝ていたと言います。
しまいにはしのぶの股から後光が指したと言われています。

 こんなこともあり、善光寺の工事はずいぶん手間取りました。
その後、なかなかハカのいかない普請のことを「善光寺普請」と言ったものです。

 また、仲の良い男女が夜もすがらむつみ合っているというたとえには「善光寺つるみ」と言われたということです。(甲府市)

写真は甲斐善光寺(甲府市善光寺町・明治期)







2010/12/11 11:14:20|アート
敗れざる者・月岡芳年「月乃百姿」
 江戸川乱歩とか三島由紀夫が称揚してから、血なまぐさいイメージの付きまとっている「最後の浮世絵師」月岡芳年(大蘇芳年とも、1839〜92)の「月乃百姿」という連作を観て感に打たれた。

 これは明治18〜24年(1885〜91)の作で、彼の遺作ともいえる。
その名の通り、月にちなんだ物語や説話を題材とした、全100枚からなる歴史画のシリーズだ。
後ろに掲げるように、平安時代や戦国時代の武将たちや絶世の美女、幽霊や妖怪、滑稽な戯画など、モチーフは広範囲に渡る。

 観ていると、殆どが敗者であり、弱者であり、犠牲者たちである。
彼がいかなるモチベーションでこの優れたエレジーを描き続けたのか、それぞれのモチーフにまとわりついたアネクドオトと芳年自身の狂死とも、興味の湧くところだ。

「たか雄(高尾太夫)」「嫦娥奔月」「祗園まち」「其角」「破窓月」「九紋竜 史家村月夜」「曹操 南屏山昇月」「時致 雨後の山月」「稲葉山の月」「齋藤利三 月下の斥候」 「四條納涼」「孝女ちか子 朝野川晴雪月」「伊賀局 吉野山夜半月」「吼くわい(狐)」「菅原道真」「經信」「いでしほの月」「弁慶 大物海上月」「博雅三位 朱雀門の月」「 山城小栗栖月(光秀)」「小鮒の源吾 嶋矢伴藏 月夜釜」「室遊女 いつくしまの月」「烟中月(火消)」 「幸盛 信仰の三日月」「呉剛 つきのかつら」「源氏夕顔巻」「廓の月」「經正 竹生島月」「景廉 山木館の月」「卒都婆の月」「豊原統秋 北山月(二狼)」「神事残月」「子房 鶏鳴山の月」「 田村明神 音羽山月」「平の友梅 心観月」「長谷部信連 高倉月」「有子」「かほよ 垣間見の月」「稲むらか崎の明ほのゝ月」「銀河月」「しはゐまちの曉月」「きよみかた…(信玄)」「熊坂 朧夜月」(初版)「熊坂 朧夜月」(流布版)「公任」「定家卿 住よしの名月」「 盆の月」「一と勢 」「深見自休」「戸田半平重之 鳶巣山曉月」「伍子胥 淮水月」「平清經 舵樓の月」「玄以」「王昌齢」「五節の命婦」「月明林下美人來」「 ほとゝきす…(頼政)」「子路 讀書の月」「 竹とり 月宮迎」「五條橋の月(牛若丸)」「悟道の月(布袋)」「保昌 原野月」「あまのはら…(阿部仲麻呂)」「 齋藤内藏介 堅田浦の月」「少将義孝 世尊寺の月」「源經基 貞観殿月(鹿を射る)」「南海月(白衣観音)」「秀吉 志津か嶽月」「師長 宮路山の月」「義光 足柄山月(笙を吹く)」「石山月(紫式部)」「孫悟空 玉兎」「千代殿か…」「秀次」「小野篁 孝子の月」「児嶋高徳 雨中月」「文ひろげ 月のものくるひ」「小林平八郎 雪浮の曉月」「玉淵齋 忍岡月」「赤の壁月」「謙信」「 明石儀太夫」「夕霧 きぬたの月」「孤家月(安達が原の老婆)」「 かしかまし…(薩摩守平忠度)」「たのしミは夕顔たなの…」「金時山の月(金太郎)」「横笛 法輪寺の月」「花山寺の月」 「むさしのゝ月(狐)」「猿楽月」「姥捨月」「調布里の月」「梵僧月夜受桂子(阿羅漢)」「寶藏院 つきの發明」「水木辰の助」「蝉丸 月の四の緒」「翁(芭蕉翁)」「嵯峨野の月(小督、源仲國)」「小碓皇子 賊巣の月」「やすらハて…(赤染衛門)」

写真左から「緑青」vol.1〜月岡芳年の月百姿(マリア書房)、「齋藤利三 月下の斥候」、「有子」







2010/12/10 14:55:16|甲斐の夜ばなし
早乙女をつぶした八ヶ岳
 広い広い八ヶ岳のすそ野の山里では、梅雨の合間をぬってたくさんの早乙女が田植えに忙しくしておりました。

 まだまだ苗植が終わらないのに、陽は西山に傾きかけて参りました。
一人の早乙女が入り日を見ながら、いかにも恨めしげに、

「あーあ、へえ山へ陽が落ちやがる」

とつぶやいた。
とたんに雷鳴のように八ヶ岳の山の神の声が鳴り響いた。

「何をこく。おめえは毎晩、若いもんの夜這いを喜んで、陽が落ちるのを待ってるじゃねえか」

と言い終わるか終わらぬかで、山から巨石が猛烈な勢いで娘の方へ転がってきたのです。

娘は大岩の下敷きになって、死んでしまったそうです。(北杜市)

 韮崎の大草にもよく似たお話がございまして、坂下六田という所には二メートル四方ほどの大石があるそうでございます。

 都留の夏狩では、おいし、おかねという姉妹が下敷きになった巨石を「おいしがね」と言い伝えているそうでございます。