新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2010/12/08 17:29:38|その他
姫神+の「最上川舟唄」に魅了される
テレビ東京の「美の巨人たち」の日本画家小松均の回を観ていて、バックに静かに重々しく湧き上がってくるコーラスは何だっけ何だっけとしきりに考えていた。
結局、山形の民謡「最上川舟唄」を姫神+地声合唱団ブルガリアン・ヴォイスで演奏したものだった。

もともと器楽よりも声楽(オペラ、歌曲、合唱)を偏愛する自分だけれど、久々、はらわたにしみるような歌声を聴いたと思った。

早速、レコード屋のサンリンにすっ飛んで行って、CD「風の伝説」を手に入れる。
2004年のリリースだから、ずいぶん遅まきのファンである。
前からのファンには既知のことだろうが、このCDは姫神の創始者で主宰者だったシンセサイザー奏者・星吉昭の遺作だという。

収録曲は次の通り。

1. めぐり逢う星の夜
2. 海を愛した日
3. 風に消えた歌
4. 青い河へ (山形県民謡 “最上川舟唄" より)
5. 砂山・十三夜
6. 潮騒
7. 野辺は澄み渡り
8. 大地はほの白く
9. 神々の詩 (ブルガリアン・ヴァージョン)
10. 風の人

どれもいい。
当分、私のドライブに欠かせないものとなろう。
みちのくの地底か、はるか遠くの南島の海原から湧き起るような歌声だが、土俗的ではない。
ときに沖縄唄、ときにケルトの民謡のようにたゆとうて流れる。

4がyou tubeで見つからなかったから、代わりに9を張り付けておく。
10年前に終わってしまって残念だったTBSの同題の番組のテーマだ。







2010/12/07 19:44:32|甲斐の夜ばなし
石魔羅峠
 これも古い古いお話しでございます。

 ヤマトタケルノミコトが大菩薩嶺を過ぎようとされて、遠征中のお守りとしておりました神像を落としてしまいました。
ミコトは先を急ぐ身、神像のことは諦めて武蔵の野を目指して山谷を越えて旅立って行かれました。

 ある時、里人が山道のかたわらにまばゆく輝く黄金造りの神像を見つけたのでございます。
そこで、峠に狩場神社と称す祠を建立して神像を大切にお祀りいたしました。

 なにしろ神像はむくの黄金で造られております。
悪い旅人がおりまして神像を盗み出してしまったのです。
里人は神像をようやく取り戻し、今度は扉のきっちり閉じられる前弓神社を創建してお納めしました。

 ある夏の日のこと、峠を越えようとした里人が、祠の中から、

「暑い。暑いぞよ」

という大きなうめき声がするのを聞きつけました。

 あわてて村の世話役に話し、錠を解き祠の扉を開けました。
なんと、黄金の神像は祠の屋根を突く巨大な男根石に化しておりました。
先っぽうから汗さえ吹き出ていたそうでございます。

 額を集めて評議したことには、この男根さまは風通しのいい峠道に鎮座させた方がいいのではないかということでした。
その方が、旅人の護りとしてもヤマトタケルノミコトの御意思にもかなうだろうと決まりました。

 男根石は南に向かい合う峠の山道にお祀りしました。
青空をバックに隆々としてほれぼれするほど立派な巨根でした。

 御本尊が出られた後の前弓神社には、男根様をお慰めするように、神々しいほどくっきりした大きな女陰石をお納めしてお祀りしました。

 峠の男根石は第二次世界大戦の頃までありましたが、村の不届き者が掘り起こして谷に蹴り落としてしまったそうです。
この時から前弓神社の女陰石は墓石の斑点のように乾いて苔むして、いつしかひび割れて崩れてしまったということです。

 今でも、山歩きをする者の間では、この峠のことは石魔羅峠(石丸峠)という異名で呼んでおります。(甲州市)

写真:石丸峠







2010/12/07 18:04:23|マリリン・モンロー
マリリンin「アスファルト・ジャングル」
アスファルト・ジャングル(1950)
THE ASPHALT JUNGLE


 マリリン5作目の映画。
MGMに貸し出されて出演、一躍注目された。
touch of naivete(天真爛漫の味)があったという。
彼女は後に、たびたびこの映画に言及する。
「コメディやミュージカルがいやっていうわけじゃないの。でも、シリアスなのも演ってみたい。『アスファルト・ジャングル』みたいな。」
いつ、どこでのインタビューだったか。
マリリンはこの映画にどんな思い入れを持っていたのだろう。

 光量の少ないカットが多い。
闇の中に、男たちの欲望がうごめく。
競馬のノミ屋、刑事、ギャング、探偵、弁護士。
いずれも「悪徳」と冠し得る。
マリリンは悪徳弁護士エマリック(ルイ・カルホーン)の若い愛人アンジェラだ。
50年代のハリウッド映画では、禁句だったmisstress に代わり従姉妹となっている。
が、ふたつの屋敷、3台の車とともに「ブロンド一人」とカウントされる所有物であることにかわりはない。

 男たちは50万ドルの宝石強盗を企てる。
綿密な計画も思いがけないところからほころびる。
警報、仲間の銃創、エマリックのお抱え探偵の死。

 アンジェラはエマリックのために偽証するが、刑事に恫喝されて真実を話してしまう。
「ごめんなさい。でも、私、一生懸命努めたのよ。」
エマリックに甘えるカットから、夜中のノック、この台詞−マリリンの表情の変化がいい。

 登場場面は少ないが、マリリンの多様な面が出ていて、魅力的だ。
父親のような年令のエマリックの朝食のために好物の塩サバ!を買う女。
24歳のまことに知的でほっそりしたパンツ・ルックも珍しい。
気分転換に旅行をしようというエマリックに、かねて用意のリゾート案内を抱えて来て
「ウワアオ!」
と叫ぶ娘。
逮捕されたエマリックに、
「旅行には行ける?」
と尋ねて
「君は、行けるさ。」
と言われ、今泣いたカラスがもう笑ってしまうアンジェラ。
怖い刑事に対抗して、エマリックの権威をかさに着ようとする娘。
アンジェラは若い娘なのである。

「犯罪とは、人間の努力が裏側に現れたものにすぎない。」
と公言するエマリックにとって、アンジェラはつかのまのやすらぎだったのだ。
人は誰かの前ではとてつもない善人だ。
ジャングルでは野獣だったとしても。
どちらも本当の顔である。
「可愛い奴」というエマリックの台詞には実感がある。

 ほかにも印象的なキャラクターも多い。
父親の死と不作で失ったサラブレッド牧場をとりもどしたいと願うディックス(スタリング・ヘイドン)。
彼の目には、今も少年時代に見た馬(コーン・クラッカー)の雄姿が焼きついている。
今はただの用心棒だ。
彼に思いを寄せる酒場の女ドール(ジーン・ハーゲン)。
銃創を負ったディックスは、ドールに付き添われてケンタッキーのヒッコリー・ウッド牧場にたどりつき、息絶える。

 マリリンはもういっぺんアンジェラを演じたかったのか、それとも、ドール?(「マリリンに会いたい」6 1993・2)







2010/12/07 17:52:16|本・読書・図書館
本はなくなってしまうのか?
 電子書籍とか、オンライン情報とか、デジタル・データとかかまびすしい。

 知人で、文学、美学、哲学と幅広いジャンルの本を、日本語はもちろん英語、フランス語を駆使して読みこなす大変な読書家がいる。
その知人が、心配そうに、

「本はなくなってしまうのだろうか?」

と言う。

 司書教諭の資格を取りたい学生の多くも、

「『本』という存在が好きです、なくなったら困ります」

と言う。

 私は尋ねる。

「あなたは電子辞書は使っていますか? メールは? ネットは?」

そして、思うことを言う。

「本はなくならない、と思う。ただし、それほど本好きのあなたでさえ、電子辞書や、メールや、ネットの利用が不可欠なんだから、多くのコンテンツがデジタル化、電子書籍化するのは自然のすう勢でしょう」

「でも、『本』はあり続けるでしょう?」

「けれど、すでにその兆候はあるけれど、『本』は作成コストがめちゃくちゃ上がってしまって、趣味のものとなり、個人がおいそれと買えなくなってしまうかもしれないな」

「そうなったら、どうなるんです?」

「『本』とは図書館へ行って読むものになるかも知れない。特定の本は、所蔵する図書館も限定されるかもしれない。都道府県に1館とか、全国に数館とかね。あるいは、世界に数館と。それを読みに、あちらこちらから巡歴してくるんだ。映画の『薔薇の名前』のようにね」

「えーっ、そんなですか」

「ペシミスティックに考えればね。15世紀のグーテンベルクの印刷術発明以降、情報は一部の権力者や富裕者の独占ではなくなった。また、図書館がすべての人の公平な情報取得の機会・場の提供となってきた。電子書籍やオンライン情報のクオリティが上がらなければ、また、デジタルデバイド(格差)が縮まらない限り、個々人の公平な情報取得という点では『退歩』だろうね」

読書好きの知人や学生は暗い顔になって、たいてい、こう言う。

「いまのうちに本は買っておこうかな、自分の気に入ったクラシックは」

写真は永井荷風『珊瑚集』(大正2年)の復刻版。







2010/12/06 15:39:39|その他
生かしてもらっている
クリニックの着替え室でいつものおじいさんが大きなため息とともに呻く。
「あああっ、死ぬまでこんなことしてなきゃならん」と。
「こんなこと」というのは、体内の血液を浄化し、老廃物を除去する人工透析のことである。

ただし、このおじいさんの言葉は、少々訂正されなければならない。
「あああっ、こんなことしているから、生きていられるっ」と。

なぜなら、通常、週当たり24時間×7日=168時間(ようは休みなし)動いている腎臓の代わりに、4時間×3日=12時間だけ、全身の血液を機械に通して濾して、生命を保持しているのだから。
これをやらなければ、この着替え室にいる者たちは、10日から2週間でみんなあの世行きになるだろう。

そうでなくとも、余病を併発してあの世行きということもある。げんにこのクリニックでも、毎年、何人かの患者の姿が見えなくなる。

ここは隔離されてはいないけれど、街中の『魔の山』(トーマス・マン)である。

透析患者は、去年末の統計では、全国で29万人以上いるという。
月に30〜40万円の経費がかかるから、患者は重度心身障害者扱いをしてもらって、自己負担の上限を決めてくれたり、無償で医療措置をしてくれる。
20数年前まで、透析技術は低かったし、経費はすべて自己負担だったから、田地田畑、家屋敷を売り払って透析にかけてしまえば、この世からおさらばということになったらしい。
私はまだ新米で、3年のキャリアしかない。
長い人は、20数年前の障害者扱い開始に滑り込みで間に合って、今に至るという人もいる。

透析導入というと、ずいぶん自暴自棄になる人もいるようだが、私はさほど深刻でもなかった。
長期旅行こそできないし、しこたま大好きなフルーツや生野菜を食べたり、ビールを何リットルも飲むことはできないが、これしか生きる方法がなければしょうがない、という気持ちだ。

申し訳ないような、ありがたいようなことで、生かしてもらっている、としか言えない。

だから、世間様のためにも、自分の余生のためにも、ほどほどに中身のあることをしなければならないのだろう。
もちろん、四六時中こんな殊勝なこと考えているわけじゃないけれど。