朝と午後のけたたましい登下校の子どもたちの声が途絶えて、夏休みだ。 勤勉でない「見守り隊」の一人でいるつもりの私は、この時季、少々寂しい。 街中や、プールのほとりは、自転車に跨り、もうすっかり日に焼けた子どもらであふれている。
夏休みで思い出深いのは、おそらくは市教委行事だった虚弱児教室だ。 小学校の中学年まで貧血症で青白かった私は「虚弱児」の一人だった。 夏休みの初めの何日か、市内の各小学校から寄りぬきの「虚弱児」が集められて、親元を離れ、昇仙峡の御嶽の金桜神社門前の旅館で合宿させられたものだった。 ラジオ体操に始まり、宿題をやったり、近くにハイキング、植物・野鳥の先生がやってきて観察を教えてくれたり、昼寝をしたり、おやつを食べたり、集団ゲームをしたりして、けっして子ども版「魔の山」ではなく、子どもながらも、周囲に気兼ねをすることを除けば、盆地より10度近くも涼しい避暑感覚だった。
二年ほど参加するなかに、市内の南の小学校からきている女の子がいた。 いつもひまわり柄のスカートをはいている、大柄な割には心細そうな顔をしていた。 名前も知らないし、口も聞いたこともない。 ただ二年間の「虚弱児学級」の同士と言うだけだった。 私はただひまわり柄の女の子を見ていただけである。
高学年になったら、ほうれん草をたくさん食べたり、鉄剤をのんだせいか、健康優良児の男子の学校代表に選ばれた。 悪友を誘って「虚弱児学級」参加を希望したが、断られた。 それにしても、丈こそ伸びていたとはいえ、私が「健康優良児」の学校代表とは、何か違うなという気がしていた。 市の予選で私は落ちた。 同じ学校の女子の代表は、県予選ま進出していった。 今は吸収合併してしまった精麦会社の娘でバレーか何かを習っていた。
しばらく前に、小学校の同窓会の呼びかけに名簿がついていた。 見ると、健康優良児の女子の名前の前に黒リボンが着いていた。 しばらく前のことようだった。
最近、教え子の一人が亡くなってしまった。 私と一回り違うが同じ干支の教え子で54歳である。 弔問は同級生に頼んだが、今も気がふさいでしようがない。 物ごころついたころからクラス会に連れてきていた彼の息子の顔などが思い浮かぶ。
この5年間で、私は二度命びろいをして、身障者として中世の「非人」のように日々生き延びている。 人の生老病死など、全く分からないものだ。
弾けるような子どもらの声、はやく戻ってこい。 |