新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
「オーラ」と言えるか、否か
 前記に続けて思い出したのだが、外国で、ふと気付くのは、どこでだれとすれ違っても、
「ハロー」
とか
「オーラ」
とか、必ず言いあう。

 ま、大通りではともかく、路地から、ホテルの廊下、エレベーターなら、完璧だ。

 この
「ハロー」「オーラ」
は、口に出さないより、出した方がはるかに気持ちが楽だ。
静寂の余り、狭いエレベーター内で異常に高まる緊張感、すれ違いざまの「殺気」?が避けられる。

 東京で言ってたら、「変な人」になっちゃうのかも。
東京は「ムラ」でもないし、コスモポリスでもないからな。

 慣れてしまえばなんともないのだろう。

写真:クロネコヤマト販売のアマリリス。1000円。
パッパカパーと高らかに音たてて鳴りそうな勢いだ。







「サンクス」と言えるか、否か
 食事をして、勘定をする時、
「ごちそうさま」
と言う。
我が地元の人はたいてい言う。
「ごっそーさん」
とか、
「おごっさん」
と言う人もいる。
美味くても、美味くなくても、こう言うことが当たり前になっているように、こう言う。
善い習慣だと思うし、こう言うのが、席を立つ好きタイミングになっている。

 とは言え、
「おごっさん」
は時々、「もう結構・いやだ」というへきえきした気持ちを表す場合にも使うから油断がならない。

 ところが、世代が若くなると「ごちそうさん」を言わない人が多いらしい。
都会でもほとんど言わないらしい。
ムッと怒ったように金だけを突き出す。
げんに、私が大都会の若い人も多いある店で、勘定するために店の人を呼んで、
「ごちそうさまー」
と言ったら、瞬間、客は一斉に凍りついて振り向くは(冗談だが)、店の人は戸惑った顔を見せるは、という現象が起きた。
とは言え、決していやな反応ではなかった(と思う)。

 こういう私でも、コンビニやコーヒーショップ、コンビニ、ドラッグストアなんかでは、
「ありがとう」
とは言いにくい。
海外なんかで見てると、ホテルのカウンターやら、上記のようなところで、
「サンクス」
と言っているのは客の方である。
決して卑屈になっているのでもなく、自然に出てくるエチケットのようだし、我が地元の
「ごちそうさまー」
くらいのニュアンスだ。

 食事の場なんかでは
「ごちそうさま」
と言えても、後出のようなところでは、
「サンクス」
と言えないのはなぜだろう?
この現象は、自分を含めて、いかにも日本人っぽいと思う。
すなわち、関係性の分からない、同じ共同体(ムラ)に属していない「世界」の人としゃべるのは、ジャパニーズはとても苦手なのだろう。

 若い世代がムスッと口を利かないか、マニアルチックにしかしゃべれないことが、そういう日本人の特性以上に、周囲(異世代や異なるコミュニティ)と関係性の意識を持ちにくい、持ちたくないことの表れでなければよいと思う。
ないしは、一部の変なPTAみたく、
「お金を払っているんだから、我が子には『イタダキマス』も『ゴチソウサマ』も言わせません」
と言った、偏った過剰反応でなければいいと思う。

 コミュニケーション能力の向上が大切だという。
問題はコミュニケーションの意味合いだ。
現在のような、情報化社会において、あるいはグローバル社会(こんな語彙が自分にあろうとは!)「知らない人とのコミュニケーション」能力や社交性は不可欠だろう。
ツィッターやフェイスブックで、不愉快な思いをしないためにも。
若い人の就職「能力」を高めるためにも。

写真は我が家に避難してきた(実は転居前の仮宿)ルー君=アビシニアン。







2011/03/14 20:14:32|その他
無計画停電
 出版猫町文庫の印刷製本を頼んでいる広島の印刷授産場から電話。
「そちらの地震の被害状況はどんなです?」
「内陸ですし、物資不足、交通渋滞、停電なんかの影響は出ていますが、地震の直接の被害は受けてません」
「S急便が配達日を保証できないから運送を請け負えないってんです」
「私のは新年度に使いたいものだし、そんなにあわてませんよ」
「もしもの場合、私が運んじゃおうかと思って」
「Hさんがトラックかなんか運転して?」
先ほどの内容を、私は繰り返した。
「東京の『B(文芸雑誌名)』が納期を守ってくれというものですから」

 いやいやとんでもないことになっているな。
「計画停電」などという言葉をこしらえて、昨日発表したかと思ったら、今日から実施だという。
順繰りに分けてやるが、いつ、どこでがさっぱり分からない。
結局、今日はやらないということになったが、明日は分からないという。
日頃、シュミレーションしてないのかよ。
あまりにも、テキトーでおバカすぎる。
一方で1号機、3号機の爆発、きっと2号機もいくよ、なんて思われて。
一方で「計画停電」だって。
1日おきに4時間かけてやってくれる私の人工透析も、それだから3・5時間に切りつめられて、事後、グロッキー。
それこそ死活問題ですぞ。

 普段、やたらとコスト、コスト言っているわりに、このロスは何なのか?
ろくに説明もないし。

 それなのに、ああ、それななおに、驚き、呆れ、悲しんだのは、我が忠良なる国民の従順さ、マゾヒズム、無批判的言動、お人好し。
「被災地の苦しみを思えば我慢をしなければ」
「せめて節電をして、協力しなければ」
お門違いでしょう?
海外のジャーナリズムも、この状況での日本の秩序維持を感心する内容が少なくない?
そんなこと言っているから、たやすく「一億一心」「大政翼賛」「打ちてし止まむ」「贅沢は敵だ」となって、仕舞いには、
「過ちは二度と犯しませんから」なんてなるんでしょう。
どこがテキトーで、どこがいけないのか、はっきりさせずに拡散させてしまう。
こんなことしてるから、アジアの人々の目には、日本人は薄気味悪く、恥知らずに映ってるんじゃないのか。








2011/03/13 12:09:24|その他
やらねばならぬこと
 こういう時でも、やらねばならないことはやらねばならない。
災害現場の光景を見ていると、日常的なことができるのは、幸せなのかもしれないと思う。

 やらねばならないこと、やっていること。
その1.
雑誌「猫町文庫」維持会の2011年度会費払い込みのお願い状の発送準備をした。
たくさんの方が継続してくれればありがたい。
「ご新規」さんが増えれば、さらにありがたい。

 編集から、版下作成を私自身でやり、書き手によって校正をしてもらい、障がい者の印刷授産場で印刷製本を頼む。
事務・庶務作業も私がやってしまう。

 経費は極限までコストを下げているのだが、そうはいっても、ある程度の経費はかかる。
第2集の「送料」だけでも3万はかかっている。
執筆者のおおかたも維持会員というかたちで参加費をいただいている。
編集同人からは、講演会数回分の出資金をお願いしている。
私は貯金を食いつぶしている。
実際、どこまでもつか、分からない。
「金だけの問題でしょう?」
と言った人がいる。
「金」だけではないが、「金」の悩みも大きい。
会員をもっと増やしたい。
そろそろ仕事を分担したい。
後々のためにも。

その2.
大学で受け持つ講座が一つ増え、それも「メディア・リテラシー」だそうで、講義資料を用意し始めている。
またまた、必要な資料類も集めねばなるまい。
日々変化し、不備だらけのこのテーマ。
講座を引き受けたことを、もう後悔し始めている。

その3.
ある雑誌に足かけ4年間連載した(途中、死にそうになって、中絶するかと思われたが、なんとか完結した)樋口一葉の口語訳を一書にまとめるべく、見直している。
丁寧に見ていけば、直しにきりはない。

その4.
生命維持のための、一日おきの通院。
これがすべての基盤かもしれぬ。
4年前に入院しているベッドの傍らで
「駄目かもしれんね」
と周囲と私にいった一人の男。
彼よりは一秒でも長く生きたい。
あるいは1グラムでも良質な生を生きたい。
報道されている「輪番停電」とやらが怖い。







情報化時代だというのに
 大変な地震が起きた。
いや、被災者や犠牲者を含めた全体像把握も進んでいないし、救援対策もまだだ。
原発のダメージはどこでくいとめられるか分からない。
だから、この地震は「起きた」と言うより、まだ「起きている」=進行形だと言っていい。

 それにしてもモバイルだの、SNSだの、ツィッターだのと言っているわりに、刻々の、広域の情報の整理、統合が全くできていないのはひどいものだ。
TVも言っていることはてんでんばらばらだ。
東京のキー局の報道レベルも、ネットワーク傘下のローカル局の能力次第だ。
山梨のローカルも、いざとなったらTBS系統や日テレ系統に、的確なレポートを提供できる能力はあるのだろうか?
防災無線システムなどというのも、津波の高さや到達時刻を予測するシステム(検潮器というらしい)も第一波で木端微塵だ。
東京にいた人々は、着の身着のまま、食うや食わずで行き場もない。
結局、情報の整理、統合ができないということは、適切な対処ができず、マンパワーもどこにどれだけ振り当てるのか判断できず、人的被害が拡大するということだ。
ただ原発事業団に指示を出し、自衛隊に命令し、米軍にお願いすればすむという問題ではない。

 「私」は「公」を頼り、「公」は、もはや「公共」をできるだけ切りつめて、「私」の「自己責任」「自己負担」に持ち込もうとしている時代。
トルストイの「戦争と平和」のイメージではないが、個々の「民」は、シベリアの広野で、神にいとも無力に踏みつぶされるか弱い存在なのか? 熟したブドウ粒のように。