新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2011/03/04 16:12:27|民俗・芸能
ジャン!! 『蒼穹の昴』観終える!!!
『蒼穹(そうきゅう)の昴(すばる)』25回を観終えた。
DVDを借りてきて、順次観たのだ。

大河であろうが、朝ドラであろうが、テレビのドラマなどまず観ない私は、いつも回がかなり進んでから、面白いと気づくことが多い。
それも外国の歴史ものだ。
原作の歴史小説までは読む気はない。

『チャングムの誓い』などというのもそうだった。
初めて観たのは、韓国のホテルだったが、相変わらず大げさな歴史ドラマをやっているなと思ったくらいだった。
日本で途中から見始めたら面白くて、放映されるのを待っているだけでは物足りず、DVDを次々に借りてきて観たのである。
これは大変だった。
たしか54回もあったし、観始めると次の回は、次の回はと気になるものだから、目にヤニが出るほど観続けて、納得した。
TVでの再放送も観たから、全編を都合3回は観ているはずである。
ことに食いしん坊な私には、宮廷の台所風景や調理場面、それにパンソリがたまらなくよかった。
宮廷内の権謀術数などはどうでもよかった。

『蒼穹の昴』も、すでにBS放送では完結していたようである。
地上波で放映し始めて数回して、私は気づいた。
そうなったら矢も盾もたまらぬ、ツタヤで借りては観続けた。
新作だからDVDも安くない。
しかも、古いデッキで観ているものだから、吹き替えがうまくいかず、中国語の音声と、隠れかけた日本語字幕で観続けた。

私には何が面白かったかと云うと、「満漢全席」料理ではない。
田中裕子演じる西太后の、老獪でいて単純な役どころも実によかった。
宦官と云うものや科挙と云う存在を具体的に見られた思いもした。
元祖草食系とでもいいたいような光緒帝も、科挙トップの「状元」のわりには直情径行すぎる梁文秀も興味深かった。
また、健全すぎるほど健全な女たちの中に、一人例外的なミセス・チャンの目や唇のお色気。
日清戦争前後の中国の対日観……。

面白さは数々あったが、私がいつも首を長くして待っていたのは、主人公の一人と言っていい宦官で、西太后のお気に入りだった春児(李金連)らが演じる京劇の場面である。
私はあのミャアミャア言う京劇のせりふ回しと、後ろの賑やかな囃し、女形の厚塗りがたまらなく好きなのである。
京劇の女形の目元などのリアリズムではないあり得なさが、歌舞伎の女形よりぞくぞくする。
残念なことに、全編を通じて、京劇の場面はさほど多くはなかった。

またもや、京劇熱が復活しそうで、とりあえず、チャン・カイコー監督の2作『さらば、わが愛・覇王別姫』を観直し、最近の『花の生涯・梅蘭芳』を新たに観ようと思っている。
それに上海京劇団の日本公演も観に行くことに決めた。
今は旅行のアルバムの中から台湾で観た京劇公演の写真などをひっくり返しては、慰めている。

写真:台北戯棚(タイペイ・アイ 台湾)のロビーにて








とうとう起きたケータイ・カンニング
 ケータイによるカンニング。
とうとう起きてしまった。
「発覚してしまった」と言えばいいのか。

 それにしても、
「我が国の入試制度の根幹を揺るがす大事件」とか、「挑戦」とか、余りにも大げさでヒステリックではないのか。
事件の発端から、何だか各大学の入試委員会(係)の「真面目に、ちゃんとやっているのに」的なアリバイづくりでむやみに騒いでいるように感じられた。
もしくは、ネットですっぱ抜かれたから騒ぎ出したとか。

 少年のやったことがいいとは言っていない。
ただ、少年の頃、テストの時間中、無線かなんかで外部から答えを教えてくれるような方法がないものだろうか、と一度も「夢想」したことのない人って、果たしているのだろうか?
今では、方法的にはそれは「夢想」ではなく可能な事態になっている。
それなら、入試の体制も、それを踏まえて、病院のようにバリアを張るとか、完全に持ち込ませないようにボディチェックをするなどしても良かったではないか。
第一、監督者は何を監督していたのか。
おそらくは「壁の花」か教卓の番をしていたに違いない。
直後の今日明日あたりに行われる高校入試も、いつも以上に極度に神経を使うだろう。

 こないだまで「愉快犯」じゃないかと言っていたのが、今になって、少年の、動機の解明とか、方法とか間抜けなことを言っている。
受験生と分かった限りは、動機は、テストができて、大学に合格する「実用的」動機に決まっているじゃないか。
方法は、携帯メールやネットを使うものなら、たいていの者が可能ではないか。

 それに、これまでも皆無だったと言えるのか?
何だかどこかの「八百長」の話題みたくなってきた。

 世の中の技術的進歩に、年老いた社会や組織がついてゆけないでいる。
起きてから「許せん」というのは、「迷門」大学が冷静な判断を失っているとしか思えない。
中国の古典に、民に罪を犯させて捕まえている事態を皮肉ったものがあった。

 起こした19歳についても、警察が「逮捕」したものの、検察は起訴できるのだろうか?
「少年事件」の範囲内ではないのか?
それとも意地でも起訴するか、死ぬほど叱るか?

画像は拾いものご免。
起訴しないで!!







2011/03/03 17:14:59|ちょっと昔のこと
生家は廃墟

 私の生家である。
甲府市の塩部の相川のほとりだ。
土木技手していた父方の祖父が、退職後(それも戦前だが)おそらく退職金で建てた家である。
私が生まれた時、祖父はすでに亡くなっており、祖父の二度目の妻(義祖母)と父の兄夫婦(私には伯父)とこの家に同居していた。
義祖母は元従軍看護婦で、赤十字の婦長までした気丈な人だった。
母に言わせれば、朝は家族が起きる前から、夜は家族が寝静まった頃、讃美歌をろうろうと歌っていた、という。
伯父は元近衛兵から憲兵になった人で、終戦後、ひっそり人目を忍んで暮らしていたが、肺を病んだ後遺症に苦しんでいた。
伯父夫婦には、私と同年に息子が生まれたが、間もなく死んだ。
ふた月しないうちに、私が生まれた。

 私が2歳の時、両親は国民金融公庫が当たったので、相川をさかのぼって、現在の居住地に小さな家を建てて住み始めた。
普請中、大工のお茶の世話にかこつけて、母は、私を背中にくくりつけては、一日中、塩部の家に帰らなかった。

 間もなく、義祖母は生まれ故郷の仙台へ帰り、死ぬまでに3回我が家にやって来た。
継母だが、父とその兄を育て上げ、教育もつけ、一家を持たせたのだから、立派な人だと思う。
父もそう思っているようだが、その話には母はそっぽを向く。

 昭和40年の大水で相川が氾濫して、この家はかなりのダメージをくらった。
伯父一家は屋根を破って逃げ出し、命からがら上流の我が家に避難していたほどである。
修繕をしたが、家は、もはや住みづらく、伯父の子ら(私のいとこら)は甲府のはずれに移り住んだ。
学生下宿にしたりしたが、今は空き家で、(張り紙などによれば)煙草などによる火でも出やしないか、近所のもて悩み草になっているらしい。

 母はこの家のことを話題にするのも嫌がる。
父にとっては、もはや霧の彼方である。
私はと言えば、ボロで陰気なこの家を時々眺めたくなる。







2011/03/02 17:57:03|文学
親子二代の文学をはぐくむ−飯田蛇笏・龍太
 『甲府第一高校130周年記念誌』のもう一つの文章はこんな。

 創立130年という歴史の古い学校だから、親子2代、3代、あるいはそれ以上も甲府一高(旧制甲府中学)に学んだという家族も少ないないだろう。

 近代俳句の世界で金字塔を打ち立て、「雲母」という我が国第二番目の規模を誇る結社を維持してきた飯田蛇笏(武治)と、戦後俳句の旗手で「雲母」を受け継いだ飯田龍太の親子もそういった例である。
父は明治31年に、子は昭和8年に入学している。

 県立文学館の飯田蛇笏コーナーに興味深い資料が展示されている。

 昭和8年の6月19日の日付の「届」で、書き手は蛇笏自身、相手は龍太の在籍する一年一組の担任伊藤(忠一)先生宛てである。
伊藤先生は数学を担当し、第二次大戦中は、生徒の兵役志願の風潮に反対し、戦後は山梨の定時制教育に尽力した反骨の教師だった。

 「届」の内容。

 息子龍太は境川町小黒坂下の石橋停留所から7時のバスで通学しているが、学校の始業時間が7時半に改められたため、バスの時刻改訂があるまで遅刻するおそれがあるので、あらかじめお届けする。

 学校は昭和3年には、舞鶴城内から現在地(当時西山梨郡千塚村)に移転していた。

 写真から見る風貌も、その文学的境涯も峻厳な印象のある蛇笏だが、この「届」からは、ひ弱でもあった4男への蛇笏の父親らしい温かい心情が伝わってくる。

 親子で在籍と云ったが、蛇笏は甲府中学を卒業してはいない。
4年まで在籍して、東京の京北中学に編入学しているからである。
それでも、「俳壇自叙伝」の中に、甲府中学での思い出を書いている。

「今日も亦教室でA――といふ英語の教師がリーダアそつちのけで俳句のはなしに熱中し、そのためにひどく刺激され、寒鶯をひねくつてみる気になつたのである。」

 先生の示した句もその解釈も、それまで蛇笏が垣間見て来た伝統的な月並み俳諧とは全く異なった「心にしみじみしたものが沁みてくる不思議なる俳句の」世界を見せてくれて、大いに感動をする。
が、「私以外の総ての学生が索漠たる顔を教壇の方に向けている」ので、先生も「浮かぬ顔をしながら」俳句の話をうちきる。

 蛇笏が高浜虚子に共鳴し、その四天王の一人となるきっかけが、甲府中学の英語教師の俳句談議にあったかもしれないと思うのも面白い。

 息子の龍太も幾つかの文章で甲府中学を回想している。
たとえば、「雪隠」というエッセイでは、歴史を教えてくれた博物の先生が「上杉謙信という武将はすこぶる山を愛して、みずから山という字を大書した額を常に厠の壁間へ掛けておいた」と語ったことがあって、それがために自分は、「戦のつよい信玄よりも、その思索的な謙信をより好ましくおもう」ようになった、と書いている。
これなども、甲府中学−一高に流れるダンディズムを象徴するエピソードと思える。

 龍太氏から、もう少し甲府中学在籍中の話を伺っておけばよかったと、しきりに残念に思う今日このごろである。

写真左:飯田蛇笏
中:蛇笏筆「届」
右:龍太







2011/03/02 17:46:07|ちょっと昔のこと
「一人前の人間」として−大島正健校長と生徒たち
甲府第一高校の『創立130周年記念誌』に、文章を二つ書かせてもらった。
その一つが、これ。


 大脳生理学者で直木賞作家の木々(きぎ)高(たか)太郎(林髞(たかし))は随筆「故郷とその中学」の中にこう記す。

ほかの同年配の人たちの話を聞くと、まるで動物のような(旧制)中学時代を送った人が多いのに、私たちは一人前の人間として扱われてきたということは実にありがたかった。

 明治末年の甲府中学がこうした校風をかもし出すことができたのは、大島正健校長(第7代)の教育理念に拠るところが大きかった。

 大島は同志社普通学校教授、奈良中学校校長を経て、明治34年3月、県知事加藤平四郎の招聘を受けて、県立山梨中学校(39年「甲府中学校」と改称)に着任した。
札幌農学校でクラークに薫陶を受けた大島校長は、15年間の在任中、生徒の個性や自治を尊重する自由主義的かつストイックな教育方針を崩さなかった。
校是は唯一”Be Gentleman!!(紳士たれ!)”でよいとしたのもその表れだった。

 成績不振の知事の子どもを落第させた逸話。
明治の元勲・伊藤博文の肖像掲示を「不品行の点は師表とするに足らない」として拒否した話。
高山樗牛の『滝口入道』を読んでいる生徒を軟弱だと視学官が非難するのを、文学史上価値があると生徒をかばった話。
三里も離れたところから通う生徒宅を自ら徒歩で訪ね、第一高等学校(現東京大学教養学部)への進学を説いた話。
落第を続けていた後の総理大臣石橋湛山がその人柄に感化された話……。
エピソードは枚挙に暇がない。思春期の生徒の関心のおもむくところ、内村鑑三、木下尚江、ニーチェ、ショーペンハウエル、トルストイ、ドストエフスキーなど、思想上の束縛もなく自由に読書することが許された。
 
 この空気を吸って育った一人が、宮沢賢治との篤い友情で知られる保阪嘉内だ。
彼は校内でガリ版刷りの同人誌「巡礼」を創刊したほか、校友会雑誌や弁論大会で「美的百姓」「農業と人と」などの論を展開した。
彼の豊かな「花園農村」建設の考えはすでに甲府中学の時に芽生えていた。
盛岡高等農林学校(現岩手大学)で宮沢賢治と出会った時、すでに嘉内の課題意識は強く、周囲に大きな感化を与えた。
甲府中学1年の嘉内が舞鶴城内の寄宿舎から観たハレーすい星(明治43年5月20日)のスケッチと、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の印象は近似している。
嘉内の韮崎の家から見える八ヶ岳連峰の一つに「風の三郎岳」という異名のあったことも決して偶然ではない。

 嘉内は、その後、ジャーナリストとして活動したほか、農村改善運動、青年教育に尽力する(昭和12年42歳で没)。

写真左:甲府中学創立30周年記念絵葉書(左は大島正健校長、明治43)
中:保阪嘉内
右:舞鶴城内の寄宿舎から見たハレー彗星(嘉内スケッチ、明治43)