新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2011/02/04 16:30:39|文学
「猫町文庫」ホームページ更新!!
 「猫町文庫」のホームページを更新しました!!

 アウトルックをお使いでない方のために、ホットメールアドレスを取得しました。
ご連絡、お問い合わせ、ご注文に、こちらもお使いください。
E-mail:nekomachi1@gmail.com
「nekomachi」の後ろは「1(半角数字ででいち)」です。







2011/02/04 14:18:03|グルメ
緑が丘で
 道祖神と喫茶店の看板。
ここはもともと甲府連隊の練兵場(レンページョー)の跡だから、道祖神が元々ここにあったものかどうかは分からない。
道祖神は村境、橋のたもとなんかにおいて、悪いものの侵入を食い止める役目だ。
さらに東の、写真のアパートの向こうは相川だから、その河っぷちにあったのかもしれない。
さほど時代がかったものとも思えない。
特別なお祭りがあるわけでもないらしい。

 喫茶「くつろーぐ」の窓から、道祖神と広場、喫茶店の看板を眺めているのは気分がゆったりする。
照る日も、雨が降る日も、行く人、往来の車を眺めては、ほっとする。

 喫茶店主は泉谷しげるによく似た中島さん。
若き映画監督で、「猫町文庫」第2集へ「映画『俺たちの世界』以前・以後」という一文を寄せてくれた中島良さんの父親だ。
父中島さんは頑固だからコーヒーも美味しいし、シフォンケーキなども人気がある。

 中島良さんは「猫町文庫」第2集では最も若い書き手だ。
高校生のころから知ってはいるのだが、映画の世界で
今後が楽しみなクリエイターである。







2011/02/04 13:58:44|樋口一葉
一葉を考えるためのフレーズ(18) 和歌と「実感」
一葉を読んでみて、彼女の短い生涯、その心の有り様を見るとき、どうあっても見過ごしてはいけない、と私が考えるフレーズを抜き出してみました。

降る雪にうもれもやらでみし人のおもかげうかぶ月ぞかなしき
はかなきにおもひゆるしてしら露の哀れ玉よと君みましかば
(二十六年一月以降)

 一葉のこれらの歌は古今調の「題詠」を越えて、恋しい人への彼女自身の真率の慕情がにじみ出ている。







2011/02/02 20:48:08|文学
読めればいい

 古書店から時折カタログをいただいては楽しんでいる。
ことに八木書店からは独自のものや神田の七夕市のカタログが送られてくる。
だが、私はいい客ではない。

 神保町などをあるくと、勘違いしている古書店さんが、私に、
「○○の肉筆がありますよ。短冊でお安いですから買っておかれたらいかがです」
などと言ってくれることがある。
県立文学館では是非とも買った方がいいとは思うが、私自身はそういうものは用なしだし趣味もない。
つまり、文学館の学芸員として展示のことで悩んでいた期間を除いて、私は過去も現在も文学者の肉筆というものにあまり執着がない。
活字であろうが、翻刻であろうが、私は作品なり資料なりが読めればいいのである。
もちろんそのテキストが正しいことが前提だが。
要は、私は読み研究するための文学資料を必要だが、古美術扱いのような、玩賞するための肉筆の類はまったく不要だということだ。
第一、私が、肉筆ものに興味を持って集め始めたら、いくら身上つぶしても足りなくなるだろうから、興味がないのは安心である。
松尾芭蕉は欲張りだったから無一物で通した。
目に映る森羅万象を己のものとみなすこととした。
芭蕉のひそみに倣いたい。

 こういう志向は本の上にも現れる。
私は初版であることや、その腰巻だのカバーだのといった装備が完全であることにもさほどこだわらない。
版が古いことにもさほど魅力を感じない。
また逆に、本があくまできれいであることにもこだわりがない。
古くてもいいのである。
読めれば文庫本でも何でもいいのである。
いや、むしろ、文庫本の方がたいてい安価だし、後々場所を取らなくてよい。

 しかしながら、いずれ、書籍の電子化が一般的になり、書籍の形態になるものはごく限られた本たちになる時代が来るかもしれない。
廉価版の書籍は、電子書籍や画像として見ればよい、とされてしまうかもしれない。
本を個人が持つこと自体がとてつもなくぜいたくなオタクな趣味になるかもしれない。
読めればいいと思った本が、読めなくなるおそれもある。
価値、価格はどうあれ、関心のある本は、今のうちに買っておくに越したことはない。
子孫の迷惑を顧みず。

 そんなことを思いつつ、八木書店の、作家の署名が表紙に散らされた目録の図版を眺めては楽しんでいる。
そこには飯田蛇笏の色紙も一点掲げられていた。
 月光に花梅の紅ふるるらし
蛇笏らしい触れば切れそうなほど鋭い筆跡だ。
たった12万円である。
お安いものではないか。
これからの季節にぴったりだ。
誰か買っておかないか。







春の訪れ
 2月3日は甲府の大神宮節分祭。
柳町の大神宮から、横近習の大神宮まで鬼が練り歩く。

 「大神さん」の声を聞くと、昔からの甲府っ子には「いよいよ春だな」と自然に思える。
2月14日の湯村塩沢寺の厄除地蔵尊までいけば、東の郊外では不老園の梅も咲いているだろうし、春たけなわ、と言ってもよかった。
どちらも夜祭だから、実際はまだまだ寒いのだけれど。
ともかくも、この時季から5月3日の「正の木さん」の祭りまでは、春の猫ではないが、私にはわくわくそわそわする季節だ。

 祖父が元気な頃は、柳の枝に米粉でこしらえた繭玉をいっぱいつけて神棚に上げた。
繭玉は厄地蔵の頃、炙って砂糖醤油で食べた。
神棚にはだるまがずらりと並んでいたから、だるまも使い捨てではなかったようだ。
その周りには、祖父には娘が多かったから、押絵の立派な羽子板(浅草あたりで買ってきたものだろう)が何枚も何枚も掛けてあった。

 今はすっかり「ずく(甲州弁の「やる気」)」がなくなって、どの祭りも夜にお参りすることはなくなった。
が、時折は切山椒やカヤ飴やガラガラの切ない甘さが恋しくなる。
どうれ、目刺しに炒り豆でもつまむとするか。