新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2011/01/06 16:55:02|甲斐の夜ばなし
殿様の焼き餅・前篇
 山梨郡の下栗原、今の大翁寺あたりに栗原左衛門尉信盛という殿様がおりました。
武田の家臣でしたが、主家が滅びてからは徳川家康に従って大阪の陣で武功をたてました。

 信盛には夫人や侍女がありながら、子どもはみつ姫一人でした。
それというのも、ある時から信盛は若道と称する男色にばかり耽っていたからでございます。
信盛は領内から美しい少年を探させては、身の回りの世話から、夜の床まで勤めさせておりました。

 大阪夏の陣の終わった元和元年の五月、信盛の軍勢は京の遊里に一夕戦塵を洗いました。
美しくなよやかな都の遊び女に将兵らはそれこそ心身とも癒されたと言います。
ただ一人浮かぬ顔をしていたのは女性にまったく興味を持てない信盛でございます。

 ふと庭先を箒で掃き清めている一人の下僕に眼が止まりました。
年の頃十五、六、目鼻立ちの整って色白のきわめて美しい下僕でございました。
信盛はむらむらと興味を覚えて、傍らの女に

「あれに見ゆる者はいずれの僕か?」

と尋ねました。
聞けば、都の巷に捨てられていたのをこの家の女主が哀れんで女の童として使うもよかろうと拾ってきた者だという。
連れ帰って着替えさせようとしたところ、女と見えた美しい童の股間には末頼もしいものがついていたということです。
再び巷に戻すわけにも行かず、しょうことなしに京十郎と名付け、屋敷の下僕として使っているとのことでございました。

「あの男子、余が買い受けたいがどうじゃ?」

という信盛は、主の恐縮するほどの甲州金を置いて引き取ったというわけでございます。

 手ずから身体を洗い清めるは、衣装を替えさせるはで、身の丈六尺三寸と大兵肥満の信盛は京十郎をねじ伏せて、その夜の内にお釜を抜いてしまいました。

 それからの御執心は大変なもので、片時も身辺から京十郎を離さず、夫人も侍女も居室から遠ざけるという具合でした。

 初秋の満月の晩、信盛が雷のようないびきをかき始めるや、京十郎はそっと床を抜け出して庭園のはずれの前栽の影に忍んでいきました。
そこには信盛の息女みつの姿がありました。
二歳違いで十五歳のおみつと京十郎は、何時とはしれず、夜ごと人目を忍ぶ間柄になっていたのです。

 目を覚ました信盛は傍らに京十郎のいないので不安になり、一人邸内を探すともなく歩き始めました。
庭の奥の植え込みを垣間見た信盛はかっと逆上しました。
掌中の珠のように愛でていた美童が女にのしかかっていたのでございますから。

「おのれっ」

と怒鳴るや、信盛は居室にとって返し、三尺三寸という大刀をひっつかむや庭に躍り出ました。
「おのれら、余を裏切って不義不忠、野合のごとき仕業、二つ重ねて手打ちにしてくれよう」
と叫びながら見れば、今し裾をかきあわせたのは娘のみつでございました。信盛、さらに激情し、

「近頃京十郎の余に対する振る舞いに不審を覚えていたが、余のまたなく寵愛する男を我が血肉を分けた娘に奪われるとは。余の目の前で今までおのれらがしていたように、いやさ、毎夜毎夜していたようにしてみい」

と怒髪天を突く様は婆娑羅のよう。
京十郎の叫ぶには、

「殿様からいただいた恩義を顧みず、姫様をお誘いしたのはこの京十郎めにございます。私めの首をこの場で討っていただきとうございます」

覚悟を決めた京十郎はうなだれて首を差し出しました。
と、みつが血を吐くように言うことには、

「何をおっしゃる京十郎。わらわこそそなたを心から慕っておる。わらわ一人この世に残されて何の生きる望みもない。父上、京十郎ともどもあの世に参り、蓮の台で夫婦となりますゆえ、どうぞ私の首もここで共に討ってください」

「黙れっ、たわけ者。親の目をかすめてどこの馬の骨とも知れぬ男と二世を契るとは……」

騒ぎにはせ参じた家中の者が大力の信盛に寄ってたかって刀をもぎとろうといたします。

「縄じゃ、縄を持って参れ」

言われるままに縄を持って参りますと、信盛は家来に命じ、京十郎とみつの二人を素裸に剥いて胸を合わせきりきりと縛り上げて庭の大木にくくりつけてしまいました。

 奥方や家老がいくら取りなしても、怒りと嫉妬で信盛はいっかな聞き入れることはありません。
翌日、屋敷に大工が呼ばれ、厚さ四寸の栗の木の板で造らせたのは二人が一緒に入れる棺桶でございました。

 素っ裸の二人を向き合わせて棺にぎゅうぎゅう押し込めると、なんと上から蛇、トカゲ、ムカデ、ミミズ、がまをばらばらと振りかけ、同じく分厚い板でふたをしてどかんどかんと釘を打って土をかぶせてしまいました。
すぐに死ぬのもいまいましいので棺には小さな穴が二つあけられ、節を抜いた青竹が通してありました。

 信盛は盛り土の上にどっかと腰を下ろして酒をあおりながら竹筒に耳を当て二人がもだえ苦しんでいる声を聞いては、相変わらず怒鳴り散らしておりました。

 四日も経つと竹筒から声が聞こえなくなりました。
二人は悶死してしまったかのようでした。

 そのころから信盛は、今度はうってかわって目もうつろに口も訊かなくなり、抱えていた若衆を侍らすこともなくなりました。
ただ陰鬱な顔をして四六時中酒をあおるばかりでした。

 信盛は寛永八年という年にこの世を去りました。
痛風とも言われますが、本当のところはわかりません。
世継ぎを設けなかったので、栗原の家は断絶、屋敷跡には大翁寺が建立されました。







2011/01/06 8:47:19|民俗・芸能
笹子追分人形本公演
 左の予定で今年も行われる。
市の補助もなくなったり、仕事の傍らされている芸能だからご苦労も多いと思う
座長も五代目を継がれた。
ささやかながら応援するから、なんとか頑張ってもらいたい。
何人かのファンと共に、いずれ甲府でも文学館講堂なり、24年開館の新図書館のホールなどで上演していただきたいと、心ひそかに思っている。

 2月のひと日、大月まで足を伸ばして、素朴かつ微笑ましい人形を観ませんか。







初詣@金桜神社

 私は金桜神社(甲府市御岳みたけ町)に心寄せるところがあって、三が日も過ぎてしまったが、天気もよし、初詣に行ってきた。

 平成20年になったばかりで、持病が一気に悪化して、定年まで1年残してリタイアせざるを得なかった。
その年いっぱいかかって、なんとか「此岸」に留まることができて、年が明けた。

 厄年とかあまり気にしたことはなかったのに、前厄であんなにひどい目に会ったのだから、本厄の今年は、いったいどうなってしまうのか、と恐ろしくなった。
21年の正月は金桜神社に詣でて、ささやかな水晶玉の御守なんかを買い込んだ。
ふと掲示を見ると、新年は後厄なのだった。
道理で……と妙に納得して帰って来た始末。

 今年も金桜神社の「参道」昇仙峡の岩塊はすがすがしかった。
先ずは健康、それから、それから……まあ、あまり欲張らないことにしよう。







2011/01/04 9:43:26|民俗・芸能
梁塵秘抄・甲斐の国より罷りいで
甲斐の国より罷(まか)り出でて、
信濃の御坂をくれくれと、
遥々(はるばる)と鳥(とり)の子にしもあらねども、
産毛(うぶげ)も変らで帰れとや、(361)


巫女あるいは傀儡女(くぐつめ)、遊女が男を誘う歌。
小林芳規・武石彰夫両氏の注によれば(岩波・新古典文学大系56)、「甲斐の国」は[京から遠い辺国を内包した表現]で、「卵(かひ)」と掛詞で、「鳥の子」の縁語だという。
「くれくれと」は心細いさま。
「産毛」は[うぶ]=純真な意味。
とすると、最後の一句は[男も知らないで]の意か。

「梁塵秘抄」ではこの前に類歌で次が載っている。

御前に参りては、
色も変わらで帰れとや、
峰に置き臥す鹿だにも、
夏毛冬毛は変るなり(360)


これも、前記の女たちが、「何にもしないで帰るの?」あるいは「帰すの?」と誘っている歌だ。

写真は「甲斐のみさか路」







2011/01/04 9:20:25|文学
「猫町文庫」新年の集い

甲府駅前のほうとう屋「小作」で、
帰郷した「文芸思潮」の五十嵐氏を迎えて、
「猫町文庫」の編集同人、編集担当で集まった。
都築君を除けば、アラカン、いや、アラ古稀も含めて、
新年に向けての抱負もてんでんに意欲満々、
かくなる上は、体力・気力・財力勝負というところ。
私自身は体調その他の都合で一足早く退散。
間もなく出る「猫町文庫」第2集の予告と金策のお願いをして……。

写真上:手前五十嵐勉氏、向こう三神弘氏。写真下:手前水木亮氏、向こう都築隆広氏。
携帯シャメだから写りがとんでもなく悪い。