新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2010/12/27 13:46:54|ことばグルメ
晩年の思想
久しぶりに読み返して、こんなところに眼が行った。

 いかにも眼のみえるようになったオイディプスは、そのまま死んでしまったが、その眼を自らの眼として生きつづける我々には、もはや青春とは愚昧以外のなにものでもないのだ。
ルネッサンス的人間の自己否定は敗北ではなく、我々はかれらの落莫とした晩年を、身にしみて感じないわけにはいかないのだ。
喝采を放棄し、尾羽打ち枯らさなくて、なにができるか。
我々の欲するものは栄光ではなく、屈辱なのだ。
闘争にとって不可欠なものは、冷酷な晩年の智慧であり、一般に想像されているように、奔騰する青春の動物的エネルギーではない。
論理が、「父」の手から「子」の手にうつるとき、それは、はじめてそれのもつ恐るべき破壊力を発揮し、情容赦もなく一切を変革しはじめるのだ。
生物学に憑かれているバザーロフは、なるほど詰らない男にはちがいないが、それでもプーシキン徹底的に軽蔑する分別だけはもっていた。(花田清輝『復興期の精神』)

本当は、このあとの文言を「他山の石」とせねばならないのだ。







2010/12/26 15:42:37|民俗・芸能
閑吟集


ただ人は情あれ
夢の夢の夢の
昨日は今日の古(いにし)へ
今日は明日の昔

(閑吟集114)

せめてこの世は愛と誠で生きようじゃないか。
夢の世の中、
昨日は今日の昔、
今日は明日の昔。
あっという間に過ぎゆくはかないものなんだから、人生は。


※『閑吟集』は室町小歌の集大成。
時代を反映した無常観、それゆえの刹那的な現実主義が目立つ。
これも恋の小歌である。







2010/12/26 15:33:11|樋口一葉
一葉を考えるためのフレーズ(14) せまりくる貧困−1
一葉を読んでみて、彼女の短い生涯、その心の有り様を見るとき、どうあっても見過ごしてはいけない、と私が考えるフレーズを抜き出してみました。 

 我家貧困日ましにせまりて、今は何方(いづく)より金かり出すぺき道もなし「よもぎふ日記」二十六年三月三十一日

写真:本郷菊坂旧居







山岳部のYのこと
 寒さが身にしみるこういう季節になって思い出すのは、教員になって初めて顧問をした山岳部の生徒のYのことだ。

 顧問になってみたら、女子は2チーム作るほど(10人以上)いるのだが、男子は3人しかいない。
だから、高体連の新人大会も総合体育大会も、参加はできても、競技(採点)対象にはならなかった。

 顧問に似て、かなりずぼらでテキトーな男子部員たちだった。
ある者は、登攀行動が始まるといつも便意を催し、気がついたら、よりによって登山道の真ん中にてんこ盛りなのである。
犬にも劣る、と私は叱った。
また、ある者は、5月の山中の幕営地などで、寒さの余り、むやみに私のウイスキーを飲みたがった。
そういう連中に比べ、Yはずいぶんまともで、小柄だったが、ハードな山行期間も一貫して情緒が安定していて、信頼が置けた。

 そのYがこういう季節、家からバイクを乗り出したところで、岐阜の車にはねられて死んでしまったのである。
全くの即死だった。
お別れも告別式も、実感の湧かないまま進んでしまった。

 しばらくして自分の山道具を点検していたらYの名前の書かれた飲用水のポリタンが出てきた。
そして、私のポンチョがYのところに行きっぱなしなことに気付いた。
ポンチョはもうどうでもよかった。
ポリタンは、野辺の送りをした彼の墓に持って行って置いてきた。
畑の隅の野菊をむしり取って挿しておいた。

 後から聴いたのだが、その年が暮れて、正月元日、あのテキトーな仲間たちは雪の八ヶ岳の主峰赤岳に、泣き泣き追悼登山をしたという。
てっぺんで食パンを食って、また、泣き泣き下りてきた、という。
顧問の私には内緒だった。
高校生の冬山登山は禁止されていたから、私のことを配慮していたのかもしれない。

 両親が、新築したばかりの学校の図書館に、Yの名前を冠した文庫を寄付してくれた。
それに「交通安全は世界の願い」と刻んだ玄関前の石碑。
建碑の日は、玄関前の地面は、鍬の刃がたたないほど凍りついてツンドラ状だった。

 学校は総合制高校になって近くに移転した。
彼の碑はどうなっただろうと旧校舎の敷地に行ってみたが、見当たらなかった。
新校舎に移築されたかどうか、尋ねる勇気がない。







2010/12/25 10:14:34|その他
年賀状という年中行事
遅まきながら年賀状を用意している。
と言っても、第一弾。
恩師、目上の人、お世話になった人、例年必ずくれる人だ。
また、元日から、第二弾が始まる。
教え子、暮れまでに出しそこなった人。
それにここ数年、父親の分が加わった。
市会議員に立候補するほどの賀状を出し切るのは、月半ばまでかかる。

相手の方に言われて分かったのだが、80代の終わりごろから、父は同じ人に複数枚の賀状を出したり、出すのを失念するようになった。
ある時から住所録を増補・改訂せずに、毎年、新規のノートを作るようになっていたのだ。
それを複数年度参照するものだから、一か所に複数枚行ったりする。
また、賀状を見て、誰だったか首をかしげていることが多くなった。

三年ほど前から、父の賀状は、暮れに出さず、正月にいただいた賀状に出す方式に切り替えた。
出すべき人は誰なのか、家族に分からなかったからである。
そうして、家族が付きっきりで賀状の返事を書かせて三が日の間に投函するようになった。
いただいた賀状から新たな住所録をパソコンに作って置いた。

しかし、90を過ぎてみたら、賀状をくれた人の名前を見て、誰だか思い出せる人の方が少なくなったのである。
こうなると、年賀状も意味もなく、返信を書かされる本人にも苦痛そのものだろうと思う。

今年あたりになれば、来た賀状に、私が全てパソコンで宛名を打ち出して、ポストに入れることになろう。
ますます、無意味である。

去年だったか、父の友人のご家族から「高齢のため賀状は今年きりで以後失礼する」旨の賀状が来た。
気持ちは分かる。

自分もいずれこうなるのだろうと思う。
パソコンにでも住所データを入れておかねば、自分でも誰が誰やら分からなくなるかもしれない。

写真は京都大覚寺