新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2010/11/09 19:59:26|「純喫茶」
バンカムのトルコ・コーヒーでマジョルカ島を思い出す

 都留文科大学の正門の前の珈琲店バンカムでトルココーヒーを頼んで、茶漉しで漉して盃にとって口に含んだ瞬間、マジョルカ島のカフェテラスを思い出した。

 夜になっても四十度近い空気の中、カフェテラスはそれこそ多国籍の人々で混み合い、空席を待って席を取るような具合だった。

 賑やかだが、決して不愉快な騒々しさではなく、快い喧噪が辺りを包んでいた。

 そこで頼んだカフェ・ソロがスペインの猛暑と乾燥と葉巻の煙とに似合って至極旨かった。
下がすぼまったデミタス用に似ている小振りのカップ。
そこに濃い色のコーヒーがどろりと溜まっている。
シュガーを一匙半さらさらと落として、かき混ぜるのではない、スプーンを一回さすだけで口に運ぶ。
とても濃い。
けれども、苦みはさほど強くない。
コーヒーの旨味だけを濃縮した感じで一滴一滴に満足感がある。
たまにコーヒーの粉を舌先に感じるが気にもならない。
カップの底を覗くと溶け始めたシュガーがわだかまり、そこにコーヒーの粉がいくらかまとわりついている。
このところコーヒーにシュガーは全く入れずに飲んでいたが、カフェ・ソロばかりはシュガーが合う。
一啜り毎に僅かずつ甘さが増してくるのも……。
あんまりあっけなく飲んでしまったものだから、最後にカップの底に精製前の蜜のようになってわだかまっているシュガーを未練気に眺めて、しかし、十分満足したのだからもういっぱい頼むのも気が引けて、ミネラルウォーターを口に含む。

 見上げれば澄んだ夜空にイスラームの旗のような三日月。
彼方には壮大な島の大聖堂が断崖の上の夜空にそびえ立っている。
崖に面した壁面の三角屋根の物見櫓。
ここは地中海に浮かんだ島だがまさしくアフリカにつながっているのだ、と不意に思った。

 都留のバンカムで「トルコ」と頼んで、ベイルートの土産にもらったというイブリックに袴付きの盃が三つ、盆に載って出てきた。
コーヒーを漉すための緑茶の茶漉しをつけたのは店主の工夫だろう。
盆には如何にもイスラームな文様がしかも素朴至極に筋彫りされている。
イブリックは蓋がはずれてしまったのか蝶番をハンダ付けしてあった。

 一杯目を口に含んで思い浮かべたのは、まさしくマジョルカ島のカフェ・ソロではないか。
あの晩、ライトアップされた大聖堂が青白く浮かび上がっていたのを瞼の裏に思い出しながら、二杯目を注いだ。

窓の外には文大坂。背後には黄葉し始めた里山。

バンカム都留







2010/11/08 17:04:00|アート
高橋辰雄さんの個展
 その「場」がとても面白かった。

 まず、ギャラリーが立っているのが、町はずれの、倉庫か工場かの跡地。
建物を撤去した後のたたきの跡が地べたのパッチワークでとてもいい。
あちらこちらに水道管だか、ガス管だか、電気の配線だかがうらみがましく鎌首もたげている。
ここの空き地で田中泯の舞踏などやらかしたらぴったりだろうと思われた。
テント劇場でもいい。

 その一角に、これまた異様な小屋が建っている。
古い民家を改築したのか、それとも倉庫かガレージをリフォームしたのか、やはりつぎはぎだらけの小屋である。

 昼食を終えたオーナー夫婦(?)が帰ってきて、中に入れてくれる。

 とりあえず、高橋さんの個展をやっているという地下スペースに降りる。
土留めのスチール板で囲ってあるが、
「水が出てしまっているから、排水ポンプを回している」
という。
かすかに裸電球が灯ってはいるが、作品を照らすほどではなく、油彩とミクストメディア作品はぼんやりした闇の中に溶け込んでいる。
昔の鉱泉の地下風呂みたいだ。
「溶暗」という言葉はどういう意味だっけ? などと僕は考えていた。

 高橋さんは個展に「闇のなかで見えるもの−dark matter〈穴蔵夢〜地下室で見た夢〉」と恐ろしく長いタイトルをつけている。
そして、

「甲府盆地を舞台に現在構想している小説、そのポイントとなるそれぞれのスポットで、その場ならではのイメージを美術と音楽とテキストで表現、ひとつひとつは小さな展示ですが、やがて全体として大きな物語ができあがる構成の(中略)第一弾」

と、寄せている。

 闇のなかで、見えるのは高橋さんの作品ではないのである。
見ているこっちの「戸惑い」ともどかしさばかりだ。
これこそ、高橋さんの企みなのだろうか。

 地下室から「現世」に戻る際、僕はいやというほど梁に頭をぶつけた。

 地上は、「ジャンク・システム」とかいうらしく、アジアの雑貨を並べ、二階をCAFEとしている。
聞けば、コンテナを二つ並べて、その間を古材などでつないで、ショップとCAFEを造ったのだという。
地下のギャラリースペースも自分で掘ったのだという。
なんともチープで、不細工で、しかし、懐かしく、心ひかれる。

 甲府みたいな街のあちこちで、若い人たちが自らうごめき、何事かを始めている。
「営業的」には話にならないだろうが、自分で穴掘っても、大工しても、とにかく「場」を造って、おっぱじめるというのはうれしいし、いじらしくもある。
「応援」なんていやらしいが、「共感」して、当方、ロートルに入りかけた障害者だけれど、おっぱじめたことは持続したいもの……と心の中でエールを送った。

 でも、もうちょっと、仲間内から表へ開こうよ!

高橋辰雄個展 2010.10.30-11.7
CAFE&雑貨ギャラリー「わじあじあ」
〒400-0851甲府市住吉3-27-24 055-237-2133







2010/11/07 13:24:12|グルメ
山梨・石和の富有柿
知人から送られてきた柿につけられたしおりに、

「とおい昔から日本に伝わる柿は、秋を代表する果物です。
今年も富有柿の実が美しく色づきました。
笛吹川の流れが作った排水の良い肥沃な土地で、有機質をもとにして、ひとつひとつ真心こめてつくりました。
石和の富有柿をご賞味ください。」

とあった。
なかなかの名文だ。

今年の雨不足で、出来は良くないと聞いていたが、むいて食べてみると、どうしてどうしてとても美味しかった。

井伏鱒二の文章に、石和の水害で人を助けた柿の木のことを書いた「一本の柿の木」というのがあるが、生で食べる富有柿は石和のが、やはり、美味しいなあ。







庭の「床屋」
 寒くなってきて、あちこちで庭木の手入れをしているのが眼につく。

 庭とも言えない、樹とも言えない我が家でも植木屋を頼んで庭木の「床屋」をやってもらった。

 庭木の「床屋」をやってもらうと、いつものことだが、本当の床屋で頭をやってもらうのと一緒で、さっぱりするが、なんだか寒々しくもなる。
と同時に、庭木の場合は、一年の終わりが近づいたという感じがする。

 思い出しても不思議なのは、2年ほど前、3カ月入院をして、いつ退院になるとも、何時手術になるとも分からなかった時、むやみに恋しかったのは緑というか、植物だった。
外出もできないから、風が吹くのもかまわずに、病院の屋上に造られた庭園を歩いては、樹々や草の小さな花花に見惚れていた。
そうして、今頃、家の梅は咲いているだろうか、山吹は? としきりに心あくがれた。
無風流な自分だから、それほど季節の植物などには関心が薄かったのだから、あるいは、なるべくそういう風情には心動かされまいとしていた節もあるから、まったく不思議な心の動きだった。
しみじみと小花に見とれる時、これが「末期の眼」というものだろうかなどと静かに考えることもあった。







2010/11/06 9:18:54|本・読書・図書館
10ヶ月目のアマゾン

こういうこともあるのだ。
1月にアマゾンに頼んだ本(というかCDブック)が10カ月後の今日になってようやく届いた。

『また又日本の放浪芸・節談説教』である。

録音が1972〜74年で、初めてレコードになったのが1974年。
CD化されたのが1999年。

頼んだ時は、こんなに人気があって、手間のかかるものだとも思わず、何度も何度もアマゾンから、「まだ用意ができません、何時になるか分かりません」と言ってきていたから、ほとんど諦めかけていたのだ。

これに興味を持ったのは、このシリーズの第一弾の『日本の放浪芸』のCDと本だった。
その中で御殿万歳とか猿廻しなど色々興味を持ったのだが、特に
仏教者が節をつけながら説教をする節談説教は面白いものだと思った。
浪花節やらなにやらの源になったというのも、さもあらんと思えたし、聴き手にぐいぐい迫る「アジテーション効果」にも感心した。
特に亀田千巌師の三河弁交じりの「他力本願」を説く節談は面白かった。
僕の場合、宗教心なんかではない。
芸能の源、大衆をひきつけ、場合によれば大きな影響力をもった「声」の芸に興味を持ったのだ。

第三弾の『また又日本の放浪芸』がこの節談説教を集めたものだと分かったから、どうしても入手したくなった。

また、しばらく、この香具師の啖呵とも聞こえる節談説教を聴いて「修行」しようと思う。