新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2010/03/05 21:31:14|甲府
甲府御岳(みたけ)名物
 宝暦二年(1752)の序の付された野田成方の『裏見寒話』では、御岳の名物が様々触れられている。

 名産としては今も目にする土鈴がある。
三月、十一月の十一日から二十五日までの金桜神社の祭礼で売る。
明治十九年から甲府教会の牧師だった山中共古(笑)の『甲斐の落葉』では、祭礼は四月になっていて、「新道」は山桜やツツジが美しく、「遠足」が人々が参拝するという。
さらに土鈴は、元は大和から送ってきたものだが、今では、甲府で作っていいると言い、「大さは五六分より一寸位のものにして丹赤及金色柿色の三通りあり虫除とて子供の腰へさげさせ置く者あり又火除とて自在竹へ結付おくものもあり」と記す。
同書には山中自身の手になる土鈴の絵も添えられ、「虫除の文字あるは近頃製したるもの」という聞き書き(だろう)も書かれている。

 先ず「太蕎麦」。その名のとおり大変に太いが、つなぎに小麦粉を使わないから風味がいいという。
ただし、汁は甚だ悪く、その理由は、山中で湿気が多いから味噌醤油を拵えることが難しく、済まし汁に出来ないからだという。
鼠のような形の大根も取れ、これを蕎麦の薬味とする。
別に「辛味大根」の記述もあって、「予(筆者)古府大泉(寺 現甲府市緑が丘)に遊ぶ、蕎麦の味甚だ辛く、再三感味し、和尚云、此大根は、胡麻畑に植ゆ、水気胡麻に採られて辛味別段也と」とその味を気に入ったらしい。
鼠のような大根と「辛味大根」の異同はよく分からないが、昇仙峡の或る蕎麦屋では同じだと言って客に出している。

 次に「水晶」。
これは御岳から金峰山の間から採れる。
帯那山からも出るが、こちらのはまだ若く、まま曇りがある。雲母沢などからも水晶は出る。
「磨き砂」は御岳の入口にある。

 シャクナゲも御岳山、ことに金峰山辺りに多く、四月頃が花盛りだという。
末尾に(一本薪を鬻ぐ者採りて府中へも売に来る)と追記している。
時代は随分下るが、明治末に甲府中学の英語教師だった野尻抱影は、後年、『星恋』(俳人山口誓子と共著)に「山峡暮春」なる秀逸なエッセイを書いて、「山地からは、しやくなげの枝を売りに出て来て、甲府の大かたの家々はこの爪紅の莟の枝を投げ入れ、暮れ遅い食後の散歩にも、あちこちの店先にもう咲き出したこの花をみかけるやうになる」と記す。
この「山地」こそ御岳のことだったのかも知れない。今に名残惜しい風俗である。

 ようし、今年の暮春は御岳にシャクナゲを探してみようと心に決めた。(2010年2月6日)







2010/02/26 0:13:56|ことばグルメ
若山牧水 歌集「路上」より
六月中旬、甲州の山奥なる某温泉に遊ぶ、当時の歌二十二首。

雲まよふ山の麓のしづけさをしたひて旅に出でぬ水無月(みなづき)

たひらなる武蔵の国のふちにある夏の山辺へ汽車の近づく

糸に似て尽きざる路の見ゆむかひの山の夕風のなか

辻辻に山のせまりて甲斐のくに甲府の町は寂し夏の日

初夏の雲のなかなる山の国甲斐の畠に麦刈る子等よ

雲おもくかかれる山のふもと辺(べ)に水無月松の散り散りに立つ

遠山のうすむらさきの山の裾雲より出でて麦の穂に消ゆ

山あひのちさき停車場ややしばし汽車のとまれば雲降りきたる

停車場の汽車のまどなる眼にさびし山辺の畑(はた)に麦刈れる子等

山山のせまりしあひに流れたる河といふものの寂しくもあるかな

大河の岸のほとりの砂(いさご)めく身のさびしさに思ひいたりぬ

山越えて入りし古駅(こえき)の霧のおくに電灯の見ゆ人の声きこゆ

わが対(むか)ふあを高山の峯越しにけふもゆたかに白雲の湧く

おほどかに夕日にむかふ青山のたかきすがたを見ればたふとし

木の葉みな風にそよぎて裏がへるあを山に人の行けるさびしさ

しらじらととほき麓をながれたる小河また見ゆ夕山を越ゆ

青巌のかげのしぶきに濡れながら啼(な)ける河鹿(かじか)を見出でしさびしさ

わが小枝子思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくもあるかな

泣きながら桑の実を摘み食(た)うべつつ母を呼ぶ子を夕畑(ゆうはた)に見つ

酸(す)くあまき甲斐の村村の酒を飲み富士のふもとの山越えありく

ゆふぐれの河にむかへばすみたるわれのいのちのいちじろきかな

かへるさにこころづきたる掌(て)のうちの河原の石の棄(す)てられぬかな

写真:山梨県 下部温泉







2010/02/19 21:56:43|甲府
古尊躰寺の草むら(甲府市武田三丁目・金幣稲荷大明神)
 甲府金手の天尊躰寺(現甲府市城東三丁目)の旧跡が旧元柳町(現甲府市武田三丁目)の金幣稲荷大明神だと知って、尋ねてみた。大久保石見守長安の卵塔も元はこちらにあったのだという。石碑によれば、先祖十代の城跡だったこの地に武田信虎が寺を建立した。開山縁起には諸説ある。天正十年、徳川家康が甲斐入国の際、本陣としたのもここだ。

 そう知ってはみても、今や住宅街の真ん中の草むらの小さなお稲荷さんである。

 しばらくして『裏(うら)見(み)寒話(かんわ)』を読んでいて胸を衝(つ)かれるような記述を見出した。巻之二の「寺院」に古尊躰寺の項があって、おおよそ次のようだ。

 家康が帯陣していた或る日のこと、寺の庫裏(くり)へ編笠、大脇差の乞食が謡を吟じながらやって来た。「音律絶倫」皆、感に堪えて聞き惚れていたその時、乞食がやにわに脇差を抜いて家来の四五人に傷を負わせ、一二人を切り倒して家康のいる奥をめがけて切り込んだ。不意のこととて家来も防戦出来ず、すでに御座所に迫っていた。近習の一人が家康の膝元で「今生のお暇をいただいて相討覚悟で狼藉を止めます」と言上するやいなや、双方とも左の袈裟(けさ)懸(が)けの相討で絶命した。

 乞食は武田の浪士で、天目山に果てた勝頼の敵を討つために身をやつして本陣を侵したのだという。姓名を調べたが知る者もいない。家康は浪士と近習の墓を建て、双方の「忠良」を称える碑が今も古尊躰寺の叢に残る。

 結びは、潜んでいた「武田衆」が「神君」の「御仁恵」に感動し靡いたことは、織田信長の比ではなかった、となるのだが。

 事実か否かは分からない。が、謡いと言い、卵塔と言い、「金幣稲荷」と言い、この一人のテロリストが、もしも家康に取り立てられて類い希なる手腕を発揮した武田遺臣大久保石見守だったとしたら……と、私はしばらく空想してみた。

写真:金幣稲荷大明神







2010/02/19 21:46:12|甲府
穴山町のラーメン屋
 そのラーメン屋の小父さんが、作家深沢七郎のギター仲間だった人だと聞いて、会ってみたくなった。教えてくれた人は、「このおやじのラーメンは甲府で一番というほどうまいが、ご本人はとてつもなく気むずかしいから気をつけろ」とも言った。さらに、「下手をすると、ラーメンも喰わせてもらえないかも知れない」と脅かした。

 私は恐る恐るその店の暖簾をくぐった。滅多に見ない真っ白な地に紺色の店の名が染め抜かれている。洗い立てのように綺麗である。

 店の中に入って驚いた。肘を突くカウンターは勿論、壁から天井、厨房機器までがぴかぴかである。昼の営業が終わる度、夜の営業が終わる度、床から天井まで徹底的に掃除をするという噂は本当だと思った。

 壁の棚に深沢七郎の著書が一冊あった。

「深沢七郎さんとお知り合いなんですか?」
「はい」
「ここへも来られたんですか」
「とんでもない時間に人と来て、無理を言います」

 気むずかしいとか、口をきくのを厭っているというのではないが、口数は飽くまで少ない。「これでたくさんだ」と僕は思った。

「ラーメンをいただけますか」

 出て来たラーメンは一見しつこそうだったが、口に入れてみると案外さっぱりしていた。一口二口食べ進めて、はっと気付くことがあった。

「このお店はいつからですか? 昭和○○年頃はやっていましたか?」
「やってました。昭和○○年開店ですから」

 僕は、一瞬、遠い昔のガラス戸の外の穴山町を吹き通って行く風と店内に騰がっていた湯気を思い出だすような気がした。カウンターに座って宙ぶらりんになっている感覚と共に。僕の「失われし時」はラーメンスープと共に蘇ったのである。

「深町の芸者さんやなんかがよく来てましたか?」
「昔はね、盛んでしたし、芸者さんも多かったから」
「私は幼稚園の時、ここでこのラーメンを食べたのを、今、思い出しました。祖父と祖父の知り合いというか何というか、深町で元芸者だった小母さんと一緒に。間違いなく、このラーメンでした」
「はあ」

 僕は、その時、深町の小母さんから、

「T、スープまで呑んでしまわなきゃダメだよ。ラーメン屋さんはスープがイノチなんだから」

とたしなめられて「そういうものか」と思ったことを思い出した。

 深沢七郎のことも、昔の客のことも、僕はもう何も詮索しなくても好いような気になっていた。

「また、来ます」

と言って店を後ろにして間もなく、そのラーメン屋は長い長い休業に入ったから、さっぱりした白地に紺の暖簾も見かけることはなくなって、穴山町を通る度寂しく思う。







2010/02/19 21:37:13|甲府
嗚呼、(旧)山梨県教育会附属図書館!
「自由近世式鉄筋混凝土二階建」
嗚呼、(旧)山梨県教育会附属図書館!
(現山梨県庁南別館)

 取り壊しなんてもってのほかだ。原状復旧して、建築、教育、社会教育、地方自治にかかわる貴重な近代遺産として永く保存し、活用すべきだと思うのである。

 ここでお目に掛けるのは、昭和5年10月、この図書館の新築落成を記念して配布された絵葉書集(甲府・島写真工藝社)からである。そこに添えられた仕様を見れば、この建物が、当時としてはどれほど「モダーン」で「ハイカラ」だったか分かる。今ではこしらえようとしても到底無理な技術や手間、そして、「必要」が生む簡潔な美に統一された建築。

 どうも時代が下るほど、人が造るもののレベルは下がってくるような気さえする。

 山梨県はこの建物を間もなく旧甲府西武百貨店(現、県民情報プラザ)などとともに取り壊して、この地に免震構造の「防災新館」を民間資本活用のPFI方式で建設するという。11階建てで、県警本部や県教委、災害対策本部機能を集約させた施設だという。

 これを惜しげもなく取り壊して、またもや、センスも見透しも悪い田舎役人根性丸出しで、活用されるか否か分からぬ、PFI方式という名の「借金こんくりいと」とアルミサッシの無個性なビルヂングを建ててしまうのは、もういい加減にやめたらどうなのだ。

 町の特色なくして活性化も何もあったものではなかろう。

 せんちめんたりずむと言われようがどうしようが、ここは多くの県民には大切な思い出の詰まった建物である。図書館としての利用はもちろん、一階の会議室は様々な展示会に使われた。

 筆者の個人的な回想を許してもらえるなら、毎年秋の学童の「発明工夫展」(という呼称だったかどうか)もここで開催されたことを覚えている。筆者は前を照らすランプを備えた下駄とか風を受けるところが二枚あって、それがゴムひもでつながれている団扇などなど珍妙な「発明」を出品した覚えがある。教師もよくぞこんなおかしな夏休みの成果物の出品を許可したものだと呆れるくらいなものである。

 たたずまいとしての図書館に、溜まり場としての思い出を持つ者もいよう。甲府高女や英和、湯田なんかの女学生の姿を眺めたり、中には好機を得ようと直接行動に出た度胸のいい者もいたかもしれない。いや、かなりの割合でいるだろう。そこから舞鶴城跡公園に逍遙できたか、すごすごと甲府駅前の平和通りの雑踏に紛れたか、人それぞれだろうが……。

 絵葉書集を眺めていると、そのかみの様々な人や思いが浮かんでくる気がするのは、筆者だけだろうか。