新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
迷子の迷子の三太郎やーい
 どうしてこう道に迷うかと思う。私の人生を象徴しているかのようだ。予め調べておいたり、地図を持ち歩いたりしないから余計質が悪い。以前は車でも道に迷って、10キロメートルも20キロメートルもやり過ごしてから戻ってくることなど、平気だった。

 けれども、負け惜しみでなく、私は道に迷って、迷っていることを楽しんでいると言ってもいい。うろたえることもあるが、そういう自分を眺めているから、やはり楽しんでいるのだとも言える。道案内の機器が着いて、車で迷子になることは随分減った。その代わりに、車の運転は寄り道も発見もなく、ひたすら出発点と目的地とを結ぶだけの物理的移動に成り下がってしまった。

 とは言え、歩くことにおいては、私は相変わらず道に迷っている。人によっては蜜蜂や伝書鳩のごとく、生まれながらに東西南北の感覚が備わっているらしい。どうも私の脳はその点、欠陥があるのではないかとさえ思う。

 昔の噺家は「およそ寂しきものは、しょぼしょぼ雨に寒念仏、迷子の迷子の三太郎やーい」と枕を振ったが、私は大分足も萎え、精神も衰えたとは言え、足を棒にして、何時間も道に迷って、迷っていることを相変わらず楽しんでいる。その状況の中で、私は予期しなかった物に出会い、予期していた物に出会い損ねたりする。これぞセレンディピティだなぞと思っている。

 昔から住んでいる街でさえこうなのだから、旅先などではとてつもなく迷っている。旅の間中迷っているといった方がいい。だから、旅の案内書にある観光ポイントを見落としていたり、誰も知らない、思いがけない僥倖に出くわしたりすることもある。

 とは言え、一応帰っては来れるのである。昔、一ヶ月も九州を歩き回っていたときには、しまいには、自分は帰宅することなく、ユリシーズかシジフォスのごとく永遠にさすらい続けるのではないかという気がしたこともある。それもそれほど嫌でもなかった。それでも、帰っては来たのである。甲府の駅に着いたとき、ポケットには50円しかなかったのがおかしかった。

 萩原朔太郎の散文詩「猫町」は、私が座右放さず愛読する書の一つである。つげ義春の同題のエッセイも好んでいる。

 迷って迷って、変哲もない風景が新奇な物に見えれば、そこは私にとっての「猫町」である。そんな猫町体験を「旅」と称して綴ってみたいと思う。だから、「猫町」は旅先の話が多いだろうが、住み慣れた街、通り慣れた路地の話も飛び出すかも知れない。(2009)

写真:アルハンブラ宮殿の野良子猫







2010/02/18 11:17:49|ことばグルメ
堀内幸枝「市之蔵村」
私は秋の日のよく照つた山林から
村を眺めてゐる
村の景色は小さく遠ざかつて
青い川と白い村道に綴られ
寄り合ひ染り合つて
屋根ばかり地に落ちた
平面図であつた

我が胸に湧く今年の村の貧しさ
一粒の繭まゆもない繭置倉庫は
がらんとしてあの壁の落ちた共同穀蔵
村の景色は薄暗い立体図となつて
胸の内に組みたてられる

しかし今視覚はやをら情感から
離れ
陽は縞目となりてふりそゝぐ優しい天
清貧も何時か自然の中に封じられて
低く低く限りなく土の中に吸ひ込まれた
一色の愛かなしい茶色の
紙であつた

私はこの市之蔵村に育ち
自分の廻りがなんとなく淋しい時
山へ登つて村をながめる
貧しいから瓦も白壁もない
何時までも残された藁屋根の色と
この空のまぶしい田舎のやさしい遠景を
子供の日からかう一人で見てゐるのが
好きであつた

「昭和十三年頃は農村の不況時代であつた」


(所出 昭和32年・的場書房『村のアルバム』)
(昭和50年・河出書房新社『日本現代詩大系』11)

写真:一宮町の桃畑







地図どおりに歩く
 大学のユースホステルクラブでは夏に合宿をやって、グループ毎に登山なり旅なりすることになっていた。その後、一箇所に集結して全体合宿になった。

 その年のグループ合宿は伊豆半島と決めた。あの半島を最も海岸線に近いルートを歩いて、出来ればお馴染みの地図のかたちとおりに辿ってみようという大雑把な計画である。

 金もないことだし、基本的に全コース踏破、泊まりはユースホステル、昼は持参のラジウスで沿道で自炊と決めた。上級生もいず、男子ばかりで三人ほどだったように思う。

 自炊の昼食場所も、だから海岸ということも多かった。妻良とか子浦とかの小さな漁村で一かご○十円の小アジとピーマンなどを買って、こればかりは持ち歩いていた味噌で煮て食った。物好きにも岬の突端の波打ち際を昼食場所と決めたのはいいが、真水を補給しておくことを横着して、きれいなのをよいことに海水で味噌煮込みを造ってしまったから、後で死ぬほど喉が渇いて閉口した。飯盒の飯も海水で焚いたのだから乱暴である。

 田子の浦あたりだったか、昼食後、海浜に寝転がって午睡を貪った。気づくと潮が満ち始めていて、あやうく一切かっさいの荷物を水没させるところだった。

 黄金崎では陰険で凶暴な野生の猿たちに脅かされながら、呑み込むように飯をしたためた。主食の芋と言い、フルーツと言い、菓子類と言い、猿たちの方が遙かに優雅な昼食を摂っていたにもかかわらず、であった。

 何日目だったろうか、途中、炎暑にばててしまい、足裏のマメに悩まされた者もいて、国鉄(当時)の定期観光バスに乗り込んでしまった区間もあったが、すぐに考え直して次で降り、また、だらだらと足を引きずるようにして歩き続けることになった。

 毎日平均三十キロメートル。石廊崎の突端のようなところは無理としても、殆ど半島の輪郭の道を辿ることは出来た。何だか自分たちが伊能忠敬の測量隊になったような気がしていた。
その後、自分が辿ったよりも一、二本内陸の道をバスや車で何度か通るたび、昼食を摂った海浜がキャンプ場になり、やがてホテルやリゾートマンションに変わって行くのを目の当たりにして、私は茫漠とした思いに駆られた。

 伊能忠敬らと違って、あの時の自分たちの合宿にどんな意味があったのか今もって分からないが、当時、五日で地図どおりに歩いたという、妙な達成感だけは残っていたことは覚えている。







ユースホステルにいた頃
 大学ではユース・ホステル・クラブというのに入った。世間では「ユース『ホステス』?」などと間違われるくらいマイナーなサークルだった。私自身もたいした知識はなかったのだから、入部のきっかけも思い出せない。小田実『なんでも見てやろう』とか小沢征爾『棒ふり旅がらす』(といったっけ)なんかの放浪ものの読み物が流行った時期だったかもしれない。せいぜいユース・ホステルという極度に廉価な宿を使って旅ができそうだということと、女子部員が多そうだくらいのいい加減なものだっただろう。旅をするのにどうしてサークルが必要なのか、考えてみたらよくわからなかった。

 入ってみたらドイツに起源があり、今やユース・ホステル運動という野外活動を主軸とする教育運動の一貫であるらしかった。旅をして自己を修練することはもちろん、教育における野外活動の意義なんかを討論しあうのだった。野外活動指導者講習会なるものに参加させられたり、時には小中学生を野外活動に募って飯盒炊飯をしたり、ゲームをやらせたりした。女の子とたのしく旅ができるのだろうと単純に考えて入部した私としては、ちょっと勝手が違ったが、仕方がなかった。

 ようやく旅をすることができて、ユースホステルに泊まってみたらここも勝手が違った。到着すると「お帰りなさーい」と迎えてくれる。どこにもペアレントと称するお父さん(あるいはお母さん)がいて、旅人を(ホステラーと言ったっけ)家族が帰ってきたように迎えるのだった。ご飯もみんなそろって配膳して「いただきまーす」「ごちそうさま」とやって皿洗いから皿拭きまでやるのである。

 宵もほどよい時間になるとホールに集まってミーティングと称する集会があり、自己紹介から始まってゲーム、合唱なんかを延々とやる。もちろん禁酒だし男女別室である。私立の寺院が経営しているユースホステルなどでは、和尚さんの説法を聴かねばならないこともある。十時には消灯、翌朝六時には明るい音楽とやさしいペアレントの「おはようございまーす」という放送でたたき起こされる。大学のサークルの日常活動で歌集をせっせと造ったり、体や手を使ったゲームを一生懸命練習したのはこのためなのであった。

 日がな一日、一人ないし二、三人で旅をしてきて「お帰りなさーい」「いただきまーす」という疑似家庭が心地よいこともあったが、一方で煩わしく感じないことなかった。ホステラーの中にもそういう印象を持つ者も少なくなかった。

 先輩達は「ユースホステルは単なる安宿ではないんだ」と口角泡を飛ばしていたが、自分にはユースホステルがどうして「安宿」であってはいけないのか分からなかった。が、ユースホステルを泊まり歩くことは中世以来のヨーロッパの巡遊学生が追い求めていたような、あるいは諸国遍歴の騎士のような、何か崇高なロマンに満ちたものがあるのだろうと考えていた。

 サークルではユースホステルでペアレントを助けるヘルパーとして働くことが奨励された。炊事、洗濯、掃除、それに夜のミーティングの司会進行をやるのである。当然ながら賃金などないボランティアとしてである。時にはホステラーに付近のハイキングのコーチをしたり、身の上相談に乗ったりすることもあった。こういうことが純粋に大好きで生き甲斐を感じている先輩、同期の者もいた。現にこのサークル活動で「教育」に目覚めて、工学部を修了したのに教育学部に入り直し、教員免許を取った先輩さえもいる。また、ホステラーの中にも、本当にこの疑似家庭が大好きなタイプの者も少なくなかった。善良な中流家庭出身の女子にそれが多かったように思う。

 勝手なもので、自分がヘルパーをやるようになってみるとミーティングに出てこないホステラーがとても気になる。強引にでも引っ張り出そうとしてみたりもした。

 ホステラーたちの寝室や浴室、トイレの使い方のひどさには呆れるばかりだった。髪の毛を落としても平気、汚れ物を廃棄していったり、概して女子の施設利用のマナーがひどいように感じた。公共心のかけらもないような気がした。今でも個人経営のキャンプ場や民宿などを少しも羨ましく思えないのはこの時の悪印象のせいである。ヘルパーとして内部に入ってみると、ユースホステルも、高邁な「運動」であるよりも、やはり五百円程度(後に六百円程度)で一泊二食付きの「安宿」なのではないかと思わざるをえないこともあった。

 それでも、私は家を離れている快味から年に六十日も百日もヘルパーをやった年もある。そのために大学に余計に在籍したほどである。そうして、後輩ができてみると「ユースホステルは単なる安宿ではないんだ」「ヘルパー経験のない者は駄目だ」などと強調していた。

 けれども、自分のなじみのない遠くのユースホステルなんかに泊まる時には、大学ユースホステルの部員であることがばれないように、うっかりその晩のミーティング・リーダーなんかにさせられないように十分気をつけたものである。それどころか、できるなら狸寝入りをしてもミーティングに出ないですむ工夫をした。とはいえ、おびただしい宿泊の印の押された会員証を見て一夜の「雇われリーダー」をさせられたこともあった。明るくたくさんの若者を歌やゲームで融和させるなどという、およそ自分の本性とは正反対のことをしていたのである。

 時は一九六〇年代の終わり、各地で大学紛争から、日米安保改訂反対闘争、ベトナム反戦運動、成田空港建設阻止三里塚闘争、沖縄反基地闘争が激化していた。中国の文化大革命も燃え盛っていた。政治、哲学、教育、道徳、芸術……ありとあらゆる既成の「権威」が疑われた。老学者の講義は「ナーンセンス」の一言で黙殺され、紙つぶてが額に投げつけられた。

 サークルの中にも、「こんな時代に俺たちは何をしているんだ。こんなぬるま湯でいいのか。世の中を変えるのにユースホステルが何の役に立つのだ」などと言う者も出始めた。肉薄する後輩の前で、サークルの幹部の一人となっていた私自身、そんな焦燥がふつふつと湧いていたのである。悪いことに、日本ユースホステル協会の会長が安保改訂継続を政治テーマとする岸信介であることに気づいて愕然とした者は私だけではなかったろう。

 さんざん議論したあげく、「俺たちはワンダーフォーゲルのように山を目指すんだ」という者や「あくまで放浪の旅だ」という者も出始めて、部員も減り始めた。軟派中心の者は相変わらずだった。まじめに小中学生との教育的な交流に懸命な者もいた。

 サークルに拠って、各地のユースホステルに泊まり、あるいはヘルパーとして夜のミーティングを組織していくことにたいした意味はなくなっていた。教育的な意義も本気では信じられなかった。サークルの解散も目前に迫った頃、私は卒業し、就職していった。

 以来、私はユースホステルという宿泊所に一度も足を踏み入れていない。それどころか、旅をする際、民宿であっても、ペンションであっても、「おかえりなさい」の疑似家庭ないし疑似家族的団欒を注意深く避けてきた。そうして、ビジネスホテルの事務的な対応が何よりも気楽だった。私自身の無目的で非生産的な放浪の癖は、ますます高じ、ますます一人の旅が好もしくなって青春を終えた。(二〇〇四・五)







2010/02/17 20:17:36|深沢七郎
甲府町衆のDNA・深沢七郎
 今年のテーマは「出版」だが、前提となる甲府の作家のことを話す。小説『楢山節考』で有名になった深沢七郎で、彼の生家は甲州街道甲府柳町宿の本陣だ。彼は雑誌のインタビューでこんな事を話している。  ウチはね、江戸時代からずうっと本陣っていってね、甲府でお殿様相手の宿をやってたんです。……本陣っていうのは格式があってね、苗字帯刀をゆるされた。……お殿様が来るとね、門のところに袴(はかま)はいて刀さして、そしてこう、土の上にすわって迎えたわけね。……維新以後は本陣やめちゃって売り食いですよ。 ……おとっちゃんは隣次郎って名前でね、みんなにチカジローっていわれてた。それでそのふさっていうおばさんのところから、「チカジロー、こういう印刷の機械があるから、甲府でやらないか」ってわけです。山梨県じゃ、はじめてよ、印刷屋っていうのは。 それからもう一軒サドコウって脇本陣があって、……まあその脇本陣てのもつぶれちゃったけれど。  これを読むと深沢七郎という作家、その文学の根っこの一端を垣間見る思いがする。  甲斐府中(甲府)の宿駅は寛永13年、柳町に定まり、問屋、本陣を設けた。『甲府略志』(大正7年)はこう記す。  甲州道中本陣の設置詳(つまびらか)ならず。宝永五年町年寄御用日記中に、本陣先役柳町三丁目相澤重右衛門の跡役同町重兵衛仰付(おおせつけ)らるとあり。天保以後の諸記に本陣庄太郎とあり。庄太郎は深澤氏にて柳澤家の時より本陣を勤めたりといふ。其先享保中八左衛門、宝暦中藤右衛門、文化中藤右衛門、天保中庄太郎あり。  一体甲府の八日町、柳町は古い町だ。この町の老舗(しにせ)の息子の結婚披露宴の仲人を務めたやはり老舗の主は「新郎の家が一六〇〇何年の創業で、私のところはそれより四〇何年前で……」とスピーチをしたのでたまげた。深沢家のルーツもこれらの老舗と同じ頃まで遡れる。  深沢氏の菩提寺は甲府若松町の信立寺だが、末裔(まつえい)の協力で文久元年9月写の『深澤氏先祖代々過去記録』(以下「過去帳」と記す)を見ることができた。奥書は「深澤庄太郎藤原勝房」。本陣の最後の13代当主だ。七郎の父隣次郎は、もはや本陣はないが、15代目当主(昭和10年没)だ。  この「過去帳」には「先祖・初代」から16代までの深沢家の当主名と通り名、没年が記されている。「先祖・初代」は「法廣院殿前石州一的朝学居士」(慶長19年没)とある。これは徳川幕府草創期の治世基盤を整備し、没後、初の「大老」職に任ぜられた大久保長安のことではないか。彼は大和猿楽師の子として武田家に仕え、その滅亡後は卓越した官僚(テクノクラート)として家康に仕えた。が、没して一週間、私財蓄財の嫌疑で一族皆殺しの運命に遭う。幕閣内の権力闘争の犠牲だという。何故、彼が七郎の「先祖・初代」で、何故、子々孫々甲府の本陣を張っているのか。私にはまたもや大きな課題である。  甲州文庫資料の寛文期文書によると、延宝8年、「柳町長人 深澤兵左衛門」の没後、娘と遺産が深澤八左衛門の預かりとなっている。「過去帳」の二代八左衛門だろう。  貞享3年当時、柳町二、三丁目の穀類、紙、塩等の問屋数は八日町を凌ぐ繁栄ぶりだった。本陣、脇本陣は二丁目で、三丁目には人馬継立(つぎたて)問屋場が設置され、旅籠(はたご)が林立していた。元禄期も同様だったが、元禄6年の大火、16年の大地震と災厄が相次いだ。宝永4年、東海・南海沖大地震、富士山噴火。  享保年中も7年、12年、20年と立て続けの大火。延享元年、明和7年9月、10月の大火。家屋は殆ど板屋石抑え、二階建てだったから火災には弱かった上、再建されぬまま、再び大火に見舞われる。  その後も災害は相次ぐ。天明2年の大地震、3年の浅間山噴火のため中山道の通行ができず、甲州街道筋はコストを抑えられる公用の人馬継立が急増し、宿助郷(すけごう)に駆り出される村々は却って疲弊した。享和3年、甲府城下における江戸期最大の火災で柳町はまたもや延焼する。復興しかけた宿場を襲ったのは文政5年の大火。  天保14年の「甲府道中宿村大概帳」では柳町は209軒(本陣・脇本陣各1、旅籠21含む)である。本陣藤井屋庄太郎の規模は門構え、玄関付きで建坪約40坪、脇本陣佐渡屋古屋(谷)幸三郎は門構え、玄関なしで建坪約49坪となっている。本陣の方が小規模だったのは復旧の遅れか。  この年、旅籠の飯盛女が5年の期限付きで許可されたが、弘化4年に終了した。嘉永7年、再び配置を願い出るが不許可となる。願に「本陣庄太郎」が奥印を捺している。この年3月には甲府城下で柳町が火元の江戸末期最大の火災が起きる。半年後、江戸期最大の地震。安政5年夏、コレラの大流行、7年の年明け早々の大火。その後、文久2年の大火。慶応元年の徳川家茂の長州征討のための「御進発御用途冥加(みょうが)上納金高取調帳」には富士(ママ)井屋(深澤)庄太郎の名が見える。  明治元年、疲弊する柳町宿一丁目の旅籠に飯盛女配置の願いが聞き届けられる。翌年、その礼と飢饉への救合金として旅籠屋から百両を献金し、以後5か年百両ずつ献金する旨の願が出る。明治3年には「脇本陣への一般客宿泊について許可願」。いずれも「本陣 庄太郎 奥印」で「甲府御政衙(せいが)」宛だ。  宿駅制度廃止前年の明治4年11月の「柳町駅高其外取調帳」の本陣・脇本陣の記録は次のようだ。 一 本陣壱軒 座敷畳数百六十七畳半間数二十一間(深沢庄太郎)、間口十五間、奥行二十間、面積二百坪(七十五坪旅籠丹沢七右衛門分)脇本陣 間数十一、座敷畳数九十四畳  現在辿れるところでは七郎の家は17世紀から明治初頭に至る甲府の「町衆」の最上層部にいた。そうして、武田家、徳川本家、柳沢家、甲府城勤番、官軍、明治新政府、県令とめまぐるしく去来する支配者と町衆(七郎の言う「庶民」)とのつなぎ役をし、頻発する災害や町の盛衰を町のリーダーの一人として乗り越えて来たのだろう。それは深沢七郎の小説『笛吹川』の家族や『甲州子守唄』の庶民が時代や権力者あるいは自然災害に翻弄され、ささやかな期待を裏切られながら生き続けたのと同義語(シノニム)かも知れない。彼が常に冷徹な傍観者として世と人とを洞察出来ていたのは、彼の裡(うち)に流れるDNAでもあるのかも知れない。(福岡哲司) 写真:甲府柳町通り(大正期か)