新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2009/02/12 9:44:21|ちょっと昔のこと
レンペイジョーのトロッコ
竜雲橋の向こうから湯村山の麓は、甲州財閥の若尾逸平が私財に集めた寄付を加えて買収し、陸軍に上納したレンペイジョー(練兵場)の跡だった。
これで明治三十八年、甲府に連隊が来ることになったのだという。

 橋を渡れば相川のほとりに麦畑が広がり、麦の穂が熟す頃、僕たちは麦の穂をしごいてから手のひらでこすり合わせて殻を剥いてから口の中でわしわし嚼んだものだった。
やがて麦はほのかに甘いガムのようになった。
ヒバリが飛びたったのを見て、どこかに巣があるに違いないと麦の畝を分けて探し歩いたりもした。

 そこから山の方にかけて、レンペイジョーの土塁や水壕の跡がまだ幾重も残っていた。
丸太ん棒で資材置き場が作られ、レールが敷かれて、土を運び出すトロッコを乗せていた。
ニッカーボッカーにハンチングの焼酎臭いおじさんたちが土塁を盛んに崩し、水壕を埋めていた。
重機やベルトコンベアーのようなものはあるはずもない。
来る日も来る日もおじさんたちが鶴っぱしやジョレンをふるって泥山を崩し、泥沼を埋めていたのである。
レンペイジョーはそこら中大きな土の塊と汁粉のような泥沼と水たまりだった。
相川の岸辺だからか、ぬるぬるの青灰色の粘土質の土があちらこちらにむやみに顕れていた。

 工事の休みの日など、むろんトロッコは僕らの格好の遊び道具となった。
レールの敷かれた土塁や泥の小山の上まで、僕らは分厚い板でできたトロッコを力任せに押し上げた。
転がり落ちよう転がり落ちようとするトロッコを渾身の力で押さえながら、瞬時に飛び乗って、その勢いのまま坂道を転がり下るのであった。
脱線をして泥水の中に放り出されることもあった。
脱線したトロッコがレールに戻せなければ、そのまま放置して、僕らは別の泥山に挑み始めた。

 時には掘り出した粘土の塊から縄文土器を作った。
陰干しも素焼きにもしなかったのだから、正確には縄文土器の原型と言うべきかもしれない。
思いつきの遊びだから、いわゆる手びねりというこしらえ方で教科書の絵を思い出しながら壺を作り、土塁の横腹に穴を掘って埋めたりもした。
いつか誰かがここを掘れば遺跡と勘違いするんじゃないかなどとほくそ笑みながら。
けれども、しばらくしたらその土塁もならされて消えてしまっていた。

 レンペイジョーは(といってもほんの一部だが)県営のスポーツ公園になって、プール、野球場、陸上競技場なんかが次々にできていった。
民地に払い下げられたところもあって、タバコ屋やアイスキャンデー屋、飯屋なんかもぽつんぽつんとできはじめた。

 山の根っこに最も近いところはクレー射撃場になった。
湯村山に向かって射手が立ち、何か叫ぶとクレーが飛び出し、パンパンという音と共に空中に埃のようなものが立った。
僕はそれを格好がいいとも、乱暴だとも思わなかったが、射撃のない時、忍び込んで殻の薬莢を拾ったりして遊んだ。
近所の大人で薬莢拾いを仕事代わりにしていた者もいるのではなかっただろうか。
彼らがほじくって拾っていたのは、戦時中の演習に使った砲弾の殻だったのかもしれない。







アジアは哀しい
 長い休みが取れないので海外の旅と言ってもどうしてもアジア、それも東アジアから東南アジアあたりに行くことが多い。

 しかし、本当はあまりアジアには行きたくはないのである。
特にほんの四五日間の、宿も観光も保証された旅などは行きたくない。
行ってはいけないという気さえする。

 初めてそんなことを思ったのはマレーシアに行ったときだった。
マレー鉄道沿線あるいは泊まった駅の貧しさは浮ついているこちらの気持ちに水を差されるような思いがした。
民家の暮らしを見せてくれるということで立ち寄った家の居間やダイニング、けだるそうに民俗舞踊の真似事をやってみせる姉妹、やせっぽっちの猫……。
決して楽しいものではなかった。
口を閉ざしたくなるほどのつましい生活がそこにはあった。

 国立博物館に行ってさらに衝撃を受けた。
植民地解放の歴史をたどる写真パネル以外殆ど何もないのである。
ほかには脈絡も何もなく、クラシックカーが置いてあったり、申し訳程度に民具、民族衣装などがわずかばかりあった。
経済基盤ばかりではない、まだ、自分達のアイデンティティ=歴史や民族性、伝統文化などについて自信や誇りが確立してはいないのだという哀しい印象だった。

 一方、連れて行かれた旧藩王の豪邸と狩猟博物館。

 この格差はいったい何なのだろう。

 もちろん明治以来の日本のアジアへのスタンスを思うと、
「つまらないな」
「何もないな」
と行って済ます気持ちにはとてもなれない。

 バックパックを背負ってアジアを旅する二十代の若い人たちにこういう話をすると怪訝な顔をされる。
「なぜいけないんです?」
と。

 うしろめたさのようなものは彼等にはないのであろう。
自分たちが、バックパッカーとして旅をできること自体、特権なのだということを分かっていないのであろう。

 アジアは哀しいと思った。
未だに哀しい。
物見遊山でアジアを訪ねて歩いてはいけないと思っている。
もちろんアジアのリゾート地の快適さに耽溺する気持ちにはならない。







2008/12/23 17:45:54|甲斐の夜ばなし
琴川の娘
 甲斐と信濃の国ざかいに、秩父の山々が連なっております。
その名峰のひとつが国師が岳でございます。

 ここから金峰山に至る七人行者の岩場は、蔵王権現の修験者たちが行をする場として知られておりました。
山伏たちは、日夜、峰峰を回る苦行を続け、あちらの岩場、こちらの洞穴に座禅を組み、九字の印を結んで霊験、神示を我がものとしようとしていました。

 秩父の峰峰からしたたり落ちるしずくを集めて下る渓流沿いに、一人の娘が住んでおりました。
まるで秩父の峰に仕える巫女のように、清らかな美しい娘でございました。
娘は毎日琴を奏でることを楽しみにしておりました。

 ある年の春のこと、一人の山伏が大峰入をするために、沢をさかのぼって山に入ってきました。

 小屋のかたわらを通り過ぎました。
行者の庵かと思いながらふと渓谷を見下ろして我が目を疑いました。
真みどりの渓流の淀みのなかにひらめく若鮎のような影を見つけたのでございます。
娘が水浴をしているところでした。
山伏は娘の裸身から目を放せなくなりました。

 やがて、娘は岸辺に上がり岩の上で長い美しい黒髪を梳き始めました。

 山伏はもう長いこと男色でしか精を洩らしたことはありません。
我慢できなくなった山伏は躍り出ると悲鳴を上げる娘をねじ伏せ思うさま欲情を果たしてしまいました。

 娘の耳に渓流の響きが戻って来ました。
身を汚されたことを恥じた娘はかたわらの琴を胸に抱きふらふらふらふらと渓に沿って下っていったかと思うと、切り立った崖からいきなり深い渓谷に身を投げてしまったのです。

 何日かして、流れが笛吹川に合流するあたりでばらばらに砕けた琴のかけらが見つかりました。

 けれども、何日、何か月たっても娘の亡骸は見つかりませんでした。

 渓流のせせらぎは、まるで娘の奏でる琴の音のように響きました。
哀れんだ里人たちは流れをいつしか琴川と呼び慣わすようになったということです。(山梨市)







2008/12/21 12:24:34|「純喫茶」
ウインナコーヒー
 その地域に行く時も「純喫茶」を探し求めていた。
ちょっと休める、簡単な校正くらいできる、あわよくば多少の原稿も書けるような、静かで、長居ができて、コーヒーの美味い店。
歴史のある街並みだし、近所に大学もある。
正しい「純喫茶」の5軒や10軒くらいあるだろう、と思っていた。
けれども、殆どない。
町民で若い人はいないのだし、学生はもとより、今の大学人には「純喫茶」で喧々囂々するような生活習慣はないらしい。
「純喫茶」の大半は絶滅してしまったようである。

 その店は気になった。
名前のクラシックさ。
私にとってノスタルジックな店構え。
そうしてなぜか「ウインナコーヒー」と大書してある。

 思い切って入ってみた。
場が持てないと困るからパソコンを持って。
入った途端、瞬く間に40年の時間が遡行した。
豪奢な内装と家具、壁のランタン、天井の間接照明、壁に埋め込まれたスピーカー……。
どれもこれも「グランド」と付けたいくらいな「純喫茶」がそこには広がっていた。
しかも、どれもこれも40年の時間の腐朽に委ねられていたのがありありとしていた。
壁のクロスは所々破れ、剥げかけ、ランタンのいくつかは点っていない。
腰を下ろした椅子はスプリングもクッションも弱り切って、尻が枠にはまった。
私が入った途端に、二階の、おそらくは住宅スペースに上がろうとしていた老齢の婦人が慌ててかいだんを下り、ステレオのスイッチを入れ、いくつかの電気を点した。

 私はブレンドを頼んでパソコンを開いた。
店内を眺め回す。
枯れかかったシャボテンや観葉植物の鉢がとりとめもなくある間に、けっして新しくはない週刊誌類が数冊ずつ放置されている。懐かしい、懐かしい年老いた「純喫茶」である。
厚手で直線的なシルエットの黒いカップもなんとなく「昭和」を感じさせた。

 それでも、私はこの店で「文芸思潮」の「樋口一葉日記全釈」連載9回の原稿の最後のところを仕上げることができた。
多少暗くても、寒くても差し支えはなかった。

 3週間ほどして、「樋口一葉日記全釈」のゲラが届いた。
また、私はその街へ行くことがあった。
その店に入った。
ゲラの入った封筒を持って。
他に客の姿は見えなかったが、店内にナポリタンの匂いが強烈にしていた。
先日の老齢の婦人が注文を取りにやってきた。
思い切って聞いてみた。
「ウインナコーヒーが名物なんですか?
「ええ、まあ」
「じゃそれをお願いします」
やがて店のどこかでミキサーをまわす音がしていた。
ウインナコーヒーがやってきた。
黒い、「モダンな」カップに入って、一口チョコレートが二個添えられていた。

 おかげで校正ははかどった。
尻もなんとか椅子の枠に耐えし、寒さもなんとかなった。

 レジで感情をすると歳暮らしき品をくれた。
家に帰って袋から出してみた。
律儀にものし紙が掛けてある。
そこに刷り込まれていたのが、
「なるべくウインナーコーヒー」
の文字だった。
面白かった。







2008/12/14 11:41:33|甲斐の夜ばなし
開三鍋にありついた
 今でこそおしゃれなエリアになっておりますお台場ですが、幕末、お台場を施工したのは甲州桂川筋七か村の庄屋だった天野開三でございます。

 開三は男気のある人で、イカサマ賭博で無一物になった若い侍を助けたことがございます。
それが後に普請奉行になった江川太郎左衛門でございます。
幕府から開三に急な呼び出しがあって、出府して初めて同一人と分かったのです。
江川は異国の黒船が出没し、切迫した事態もあるかも知れないので、監視をし、大砲を据え付ける台場を急ぎ建設したい、と言うのでございます。

「かつて受けた厚情の礼として、お前に施工一切を任せ、竣工のあかつきには一財産できるように図りたい」

と開三に言ったと申します。

 開三は頼みを聞き、田地田畑を処分し、借金できるところからはすべて借り、工事は始まりました。
設計はオランダの兵法を学んだ江川自身。
相模国足柄の石を切り出し、伊豆下田の石工・人夫を大勢動員して、桂小五郎や剣術の神道無念流の斎藤弥九郎を介添えや見張りに頼みました。
昼夜を分かたず突貫工事をした結果、台場は五か月で完成しました。

 私財を投じて始めた工事でしたが、完成してみると、開三は差し引き十六万八千両の純益を得、数十頭の馬で千両箱を運んだほどでした。

 開三はたちまち甲斐国一のお大尽となり、弁当を持たずに自分の土地からよその土地へ行けなかったと申します。

 元来任侠の志の篤い男でしたので、安政元年の伊豆大地震では、復興のための人夫を大勢派遣したほか米五百俵、布団五百枚、鍋百三十六個を贈ったと言います。
翌年の江戸、その他の土地の飢饉にも千両箱を惜しげもなく使ったと言います。

 そこで返さなくてもいい気前よく出された金を「天野金」といい、救援の炊き出しの鍋にちなんで、助けの手をさしのべてくれるのを「開三鍋」と言い習わしたそうでございます。

 口の悪い奴がいて、自分のモノを誰にでも気前よく貸す女のことも、いつしか「開三鍋」などと噂するのが流行ったと申します。(都留市境)
写真:話題とは無関係に甲州市のザゼンソウ