 竜雲橋の向こうから湯村山の麓は、甲州財閥の若尾逸平が私財に集めた寄付を加えて買収し、陸軍に上納したレンペイジョー(練兵場)の跡だった。 これで明治三十八年、甲府に連隊が来ることになったのだという。
橋を渡れば相川のほとりに麦畑が広がり、麦の穂が熟す頃、僕たちは麦の穂をしごいてから手のひらでこすり合わせて殻を剥いてから口の中でわしわし嚼んだものだった。 やがて麦はほのかに甘いガムのようになった。 ヒバリが飛びたったのを見て、どこかに巣があるに違いないと麦の畝を分けて探し歩いたりもした。
そこから山の方にかけて、レンペイジョーの土塁や水壕の跡がまだ幾重も残っていた。 丸太ん棒で資材置き場が作られ、レールが敷かれて、土を運び出すトロッコを乗せていた。 ニッカーボッカーにハンチングの焼酎臭いおじさんたちが土塁を盛んに崩し、水壕を埋めていた。 重機やベルトコンベアーのようなものはあるはずもない。 来る日も来る日もおじさんたちが鶴っぱしやジョレンをふるって泥山を崩し、泥沼を埋めていたのである。 レンペイジョーはそこら中大きな土の塊と汁粉のような泥沼と水たまりだった。 相川の岸辺だからか、ぬるぬるの青灰色の粘土質の土があちらこちらにむやみに顕れていた。
工事の休みの日など、むろんトロッコは僕らの格好の遊び道具となった。 レールの敷かれた土塁や泥の小山の上まで、僕らは分厚い板でできたトロッコを力任せに押し上げた。 転がり落ちよう転がり落ちようとするトロッコを渾身の力で押さえながら、瞬時に飛び乗って、その勢いのまま坂道を転がり下るのであった。 脱線をして泥水の中に放り出されることもあった。 脱線したトロッコがレールに戻せなければ、そのまま放置して、僕らは別の泥山に挑み始めた。
時には掘り出した粘土の塊から縄文土器を作った。 陰干しも素焼きにもしなかったのだから、正確には縄文土器の原型と言うべきかもしれない。 思いつきの遊びだから、いわゆる手びねりというこしらえ方で教科書の絵を思い出しながら壺を作り、土塁の横腹に穴を掘って埋めたりもした。 いつか誰かがここを掘れば遺跡と勘違いするんじゃないかなどとほくそ笑みながら。 けれども、しばらくしたらその土塁もならされて消えてしまっていた。
レンペイジョーは(といってもほんの一部だが)県営のスポーツ公園になって、プール、野球場、陸上競技場なんかが次々にできていった。 民地に払い下げられたところもあって、タバコ屋やアイスキャンデー屋、飯屋なんかもぽつんぽつんとできはじめた。
山の根っこに最も近いところはクレー射撃場になった。 湯村山に向かって射手が立ち、何か叫ぶとクレーが飛び出し、パンパンという音と共に空中に埃のようなものが立った。 僕はそれを格好がいいとも、乱暴だとも思わなかったが、射撃のない時、忍び込んで殻の薬莢を拾ったりして遊んだ。 近所の大人で薬莢拾いを仕事代わりにしていた者もいるのではなかっただろうか。 彼らがほじくって拾っていたのは、戦時中の演習に使った砲弾の殻だったのかもしれない。
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