 塩山温泉を抜けて袖切坂を上り、「塩山高校入口」の信号を過ぎると、青梅街道(国道四一一)は大菩薩嶺に向かって扇状地をひたすら上ってゆく。 新千野橋を右に、なおも上り坂が続く。 小田原橋を過ぎて間もなく、左手に「樋口一葉女史旧宅跡」の標識が現れる。 ここが作家樋口一葉の父・大吉の生家跡だ。 桃畑の中には三基の屋敷墓が並び、一葉の祖父の八左衛門までがここに眠る。
イトザクラの名桜で知られる慈雲寺はここから南西の方角で、路が一本異なる。 シーズンともなればおびただしい数の一葉ファン(?)が押しかける。 母の実家は「旧宅跡」から慈雲寺への抜け路にある。 一方、「旧宅跡」を訪れるのは研究的な気持ち(?)を持った僅かな人々だ。
慈雲寺の背後には源次郎岳。 漢詩、狂歌、俳諧、川柳にも熱心だった八左衛門は読書人で、自らの文庫を源嶺書屋と名付けていた。 長百姓や百姓代といった村方三役ではなかったが自作の中農で地域の農民の信頼が厚く、いわゆる「行政書士」のような役割を頼まれることが多かった。 嘉永五年、彼は江戸に出る。 重川の水争いに関して村役人と一丁田中の田安代官所とが結託して厄介な訴訟を寺社奉行に提訴しようとするのをくい止めるためだ。 彼は江戸城辰口で嘆願書を老中阿部正弘の駕籠の前に差し出す。 地域の農民の願いを一身に受けてのことだった。
父大吉も農業より学問に心が傾き、やはり、読書家だった。 妻となるあやめをつれて江戸への駆け落ち決行の際にも蔵書を売って費用の一部に充てている。 未練たっぷりだった。 彼らが武家の両入り養子となったのは幕府が瓦解する前年のことだった。 が、その利発さ、読書によって育てた能筆、事務処理能力で、彼は東京府庁・警視庁等、維新後の新体制にも順応できた数少ない士族の一人だった。
現在、県立文学館に収蔵されているが、大吉(改め則義)は娘の一葉にふんだんに図書・文房具を買い与えた。 一葉の知的な基礎は学校教育よりは私塾や家庭の教育的環境によって形作られたものが多かった。 なかでも読書によって培われた物は大きかった。
大それたことに、彼女が作家となって家計を支える収入を得ようともくろんだ時、彼女は上野の東京図書館に頻繁に通う。 一方、文明開化の時代に顕在化してくる極端な「格差」を見逃さなかった。
明治二十年代、きら星の如く女性作家が登場した。 殆どが高学歴だったり、名家の令嬢、夫人である。が、その大方は今や忘れ去られている。 ひとり一葉ばかりいまだに人気がある。 これはただ彼女につきまとう夭折の悲劇的なイメージからばかりではない。 読書と社会観察から得た洞察力、そこから構築した多くもない作品の力である。
学校教育には年限がある。 真の賢さを育てるのは学校教育より重く社会体験、家庭教育、自発的な生涯学習によると痛感する。 その大きな方途として読書があり、教育の中で生涯、書物や図書館を使える人間を育てることが大事だろう。 体育も食育も必要だが「読育」も不可欠なのである。 あまり実利的に言いたくはないが、これが知育、徳育にもつながることは疑えない。
本校では学校設定科目に朝読書を含めている。 単位認定もするのだから簡単に「連絡事項」で潰す訳にはいかない。 癒しや人間力育成はもちろん、生涯にわたるきちんとした情報獲得はネットや新聞雑誌だけでは駄目で、書物によるべしという気持ちを生徒の中に少しでも育てられればと思っている。(塩山高校校長 師友) 写真:樋口家旧宅跡(山梨県甲州市塩山)
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