新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2008/11/23 16:36:51|スペイン
ロルカの生まれ故郷
 もう一つ私がグラナダに心惹かれる訳がある。
ここが愛読する詩人・ガルシア・ロルカの生まれ故郷の村・フェンテ・バケーロスに近いことである。
できれば、私は村を訪れたいと思っていたが、日本で調べた時には、ロルカの生家の記念館は夏季休館ということだった。

 泊まったホテル・フェネラリーフェの従業員のホセがこの村の住民だったので確かめてみると、

「そんなことはないはずだ」

と言う。
彼は知り合いに電話して

「やってるはずだよな」

なんて言っている。
しまいに私がインターネットで取り出した資料を見せると、

「ええっ、夏季休館。そうなんだー。日本でそれがわかって、村の自分が知らないとは」

としょげている。
近所の人なんて、どこでもこんなものだ。

 せめて村のたたずまいだけでも感じたいと思ったが、帰国の飛行機の時間の迫っている私に村を往復する余裕がなかった。
やはり、グラナダに住まなければ駄目なようである。

「いいさ、また、きっと来る。心をここに残しておくから」

と私。

「きっと、来てくださいよ。その時には私が案内しますから」

とホセ。

 そうして、なぜだか男同士堅く手を握り合ったものであった。

 せめてもの慰めにと、私はホテルからグラナダの街へ降りる坂の途中でロルカのポストカードを買い求めた。
ロルカのプロフィールに十字架を背負ったイエスとアルハンブラ宮殿の図柄が重なって、なんとも意味ありげだ。
詩集『カンテ・ホンドの詩』(一九三一年)、それに写真集も手に入れることができた。

 店番をしていたモーロの血が混じっているように思われた女が、「ロルカ、ロルカ」と血眼になっている東洋人を奇異の目で見ていた。
写真:ロルカポストカード







2008/11/23 16:31:39|スペイン
血と太陽にみちているグラナダ
 グラナダの街に下りる。
この街も、私は、案の定、たいそう気に入った。
荒野に隣接した偏狭なイメージのあるグラナダの街だが、思いがけず(中世以前国際都市だったなごりか)人に開けた街だ。
街の通りには、旅行者ばかりでなく、白や黒や黄色やの肌、金髪、ブルネット、黒髪、縮れ髪……実に多様な人々が生き生きした表情で闊歩している。
「国際都市」という言葉が、私の脳裏をよぎった。

 英語とスペイン語チャンポンで話したタクシーの運転手は実に気さくで、タクシードライバーが高齢化しているうえに、車が多すぎて儲からないと嘆き、「日本でもそうか?」と聞いた。

 ふと立ち寄った小さなガリシア料理の店のカフェテラスはとても居心地が良かった。
ここで出てきたのは巨大な串焼きの肉である。
鹿、兎などもろもろの獣肉(ジビエ)。
思わずスペイン語で

「大きすぎる!」

と悲鳴を上げると、店員は、

「これくらい食べなきゃ。夏だし、スタミナをつけろ」

と右腕とこぶしを万国共通の変なかたちで突き上げてにやりと笑った。

グラナダ−スペイン風幻想曲
ララ・濱田滋郎訳

夢にえがく土地、グラナダら
君に寄せて歌うとき
わたしの歌もジプシーの風情をおびる
ここに君へと捧げる歌は
幻想で織りなした歌
憂愁の花のようなわたしの歌、

闘牛の昼さがりには
血に染まる土地、グラナダよ
ムーア人の瞳の魔法を
秘めて守るひとりの女よ
夢にえがく君は花に覆われ
ジプシーの風情にみちて気位高い
くちづける君がえんじの唇は
わたしに愛を語り聞かせる
汁多い林檎の実

きれいな小唄に歌われた
粋な娘、グラナダよ
このわたしの捧げ物は
ただバラの花束ばかり
けれどそれは褐色をした聖母さまの
御身のまわりを飾るのにふさわしく
香りやさしいバラの花
グラナダよ、君という土地は
美しい女たちと
血と、そして太陽にみちている
グラナダよ、君という土地は
美しい女たちと
血と、そして太陽にみちている

写真:ガリシア料理店のカフェテラス







2008/11/23 16:25:23|スペイン
人類の造った最もロマンチックな建物(アルハンブラ宮殿)
 講談社文庫版のワシントン・アーヴィング『アルハンブラ物語』を、私は何度読み返したことだろう。
そのモーロ(ムーア人)の伝奇的な物語に私は一時期耽溺し、アルハンブラへの憧れは募るばかりだった。

 アルハンブラ宮殿は、インターネット上に見学のためのポータル(窓口)はあるものの、個人ではなかなか観覧チケットを購入するのが大変だ。
だから、旅行社に頼むことになる。
頼めば頼んだで添乗員ペースの観覧になる。
しかも、アルハンブラ内部では現地の専属のガイドを雇わなければいけない習わしになっているようだ。
添乗員もここでは口がきけない。
英語も使いこなせないガイドもおざなりで、質問などは殆ど無視して事務的にやっている。

 さらに困ったことに、チケットでは三か所が見学できるはずなのに、ガイド、添乗員任せで引率されていると、そそくさと一か所ぐらい済ませると案内終了となってしまう。

 かねてからの憧れのアルハンブラ宮殿に参上するのである。

「アルハンブラ見学の後は皆さんをグラナダの町中に送って、後はフリーです」

という添乗員の言葉を遮って、私は、

「自分はここでフリーにしてくれ」

と意思表示をした。

 そして、順路逆行するのもお構いなしに、庭園、フェネラリーフェから何から、悔いなく堪能することにした。

 二姉妹の間天井には怨念や嘆き、呪詛が血の臭いと共に漂っているようだった。
モカラベ(鍾乳石装飾)の間の天井は驚くほど高いにもかかわらず洞窟のような印象を与える。

 アービングが滞在して前述の『物語』をまとめた書斎は濃い影の中に佇んでいた。

 モカラベの間からライオンの中庭、パルタル宮の噴水やせせらぎは鋭い反射でこちらの目を射抜いた。
目を上げるとシエラネバダの山並みが鉄塊のように横たわり、それでも時知らぬ頂上には白いものが見えた。

 ヘネラリーフェからのアルハンブラ宮殿、夜警の塔、裁きの門……。
裁きの門には、右手と鍵のレリーフ。その手が伸びて鍵を掴んだとき、塔は崩れ、モーロ(ムーア人)の財宝が現れる、という。
この町の呼び名となったグラナダ(ザクロ)の浮き彫りの装飾。

 淡いさび色の宮殿の石壁は窯の中の陶磁器のように燃えていたが、樹々は灼熱の陽光に逆らって生い茂る。
いたるところにモーロの軍団の鎧甲冑の軋みや馬のひずめやいななきの音が今にも響いてきそうだった。

 空は底のない湖のように澄み渡って雲一つない。
太陽ももとより、空一面がまともに目を開けていられないほどまばゆい光に輝き渡っている。

 アルハンブラを歩きながら、私がほとんど夢うつつだったのは、炎暑のせいばかりではない。
私はカメラのシャッターを切ることも忘れていた。かろうじてカメラに収まっていたのは宮殿内に棲む野良の子猫を含めてほんの数枚だった。

 しまいには私は、自分が宮殿内のどこにいるかわからなくなっており、迷っていることを楽しんでいた。

 できれば(夏の猛暑さえなければ)、私はアルハンブラを見下ろすアルバイシンの街に住みたいと、本気で思った。
写真:アルハンブラのグラナダ(ザクロ)







2008/11/23 16:16:20|スペイン
ただより高いものはない(マドリード)
 スペインの街角で、アメリカ人なんかがよくトラブっているのが路上の占い。

 おばさんがハーブの一枝かなんかをフレンドリーに通行人の手のひらに当てて、

「あなたにはお金が入る」
とか、


「神のご加護で、ますます健康だ」

なんていいこと言っている。

 で、その挙げ句、お金ということになる。

「金取るの?」

「当たり前だろ、占ってやったんだから。ハーブも取ったろ」

「ハーブなんていらない。払わない」

「払わないのは泥棒だ。アメリカ人は泥棒だ」

「サービスだと思った」

「そんな訳ないだろ。ヒターノ(ジプシー)をだますなんて、アメリカ人は悪魔以下だ」

とかなんとか。

 どっちもどっちと、見ていておかしいけど……。

 レース編みのショールを観光客に羽織らせてから「買え」ってこともある。こちらの方が高くつく。







2008/11/23 15:43:53|高校文芸集選評
論じること(H19)
文芸評論・文芸研究 H19

 評論とは当面自分の中に芽生えた結論を人に納得させる作業だ。

 結論を得るきっかけ=対象は事象であっても、文学作品であってもよい。
自分はこの対象からこういう考えを得た、こう読み解いたという内容を説き明かすのである。
それは、もちろん、対象に対する肯定でも、否定でも、違う領域に及んでもかまわない。
「誰がなんと言おうと自分はこう思うのだ」というのは、感想であっても評論ではない。
感想が評論に高まるには、かなり用意周到な仕掛けが必要になる。
読む方だって、一方的に書き手に説得されはしないだろうから。
読み手は刻々反発や批判、あら探しをするだろう。
書き手は例を挙げ、論拠を説明し、反発や批判の種はできる限り封じておかねばならない。

 ずいぶんやっかいなようだが、こういう頭の使い方は常日頃やっていることだ。
ただ、日常では「なんとなく」感情的に反感や抵抗感を抱いて済んでいることも多い。
故意に抑えていることもある。
「売り言葉に買い言葉」で思ってもいない反応をしてしまうこともあるだろう。

 うっぷんを晴らすためだけではない、自分を強くするためにも、一人、ことばを書き付けていく評論のかたちがある。

 中島雄斗君(都留高)の「ウルトラマンの宗教、仮面ライダーの宗教」にはほとんど説得されかかってしまった。
ウルトラマンの登場は一九六六年、仮面ライダーはその五年後。
五年で世の中の価値観は変わり、二人(?)のヒーローの意味合いが変わってしまった、とする指摘はきわめて面白い。
前者は科学や発展を無邪気に信奉していた時代の正義のヒーローだという。
後者は多様な正義が衝突しあい、科学万能主義や善悪の判断基準が曖昧になった時代に個人の主体を尊重するヒーローだという。
事象や世相……高校生にとって評論したいタネは無限にあろう。
こういう評論をもっと読みたいものだ。

 芦沢実彩さん(甲府第一高)の「『五位』と『芋粥』」は芥川龍之介作品とまともに向き合っている。
この作品を価値観の食い違いが交錯する際に生じる意図しない残酷さと理解する者は多い。
が、表題の付け方からも分かるとおり、筆者が着目しているのは、主に個々の人間の価値観、いや、欲望の在りどころである。

 木村元紀君(都留高)の「『羅生門』と生きることへの選択」は、高校生で読まない者のない作品にあえて挑戦した。
下人の行動を、人間としてではなく、たとえ生き物としてであっても生きることを選択した、と分析した点が注目される。
しかも、これが環境問題などに脅かされる人間の未来のテーマとなるかも知れないという指摘は恐ろしい。
しかも、選択の「行方(結末)は誰も知らない」のだから。
  
 評論分野に多くの高校生に挑戦してもらいたいものだと思う。