新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
青い時間
 夕方が近づいて、けれど、日が永いせいでまだ暮れていない。
辺りを満たす光が青みを帯びているのか、木々の葉も草むらも緑が不自然なほど浮き立っている。
こんな時間が、僕は昔からとても気になった。

 山間を行く特急電車に乗っていても、こんな時間に乗り合わせると、僕はぼんやりと窓の外を見続けてしまう。

 そこには、大概、物音も、人影もない。
動きもない。
ただ、山間を抜けて、小さな畑をかすめ、小さな駅を通過しながら、殆ど、動きも音のない青みの中を電車は移動している。

 駅前には車が何台か停まっているが、人影はない。
無論、たまに景色の中に国道や県道のかけらが入り込んで、そこには時折軽四輪や自家用車なんかが通るのが見える。
が、人は見えない。車は音もなく滑っているだけだ。

 山間の集落なんかを通り過ぎると、腰が曲がって、その腰に青ネギをあてがって歩く婆さんが家路に向かっている。
表情も物音もない。

 夕方が近づく青い光の中で、音もなく、滑るように今日の“生活”が閉じられようとしている。
特急電車の窓から見ている僕には、何の関わりもない“生活”が。







2008/11/20 14:52:28|高校文芸集選評
変容し、パワーアップした自分を(H16)
文芸評論部門 H16

 読書についてたくさん読むのがいいのか、深く読むのがいいのかという議論がある。
これはニワトリが先か卵が先かというような議論で、深く読むべき本に出会うまで、たくさん読むのに越したことはないような気がする。

 誰一人として同じ人間がいないように、ひとりひとりが取り巻かれている現実も、それほど複雑で多様なのだろう。

 読むことは楽ではないし、楽しいことばかりではない。
読むことが旅行やグルメの情報を得るというような目的ではないとすれば、それは決して受け身一方ではあり得ない。
常に作者や登場人物と対話し続けることだし、言い負かされまい、そんなことはないはずだと口をとんがらせ続けるエネルギーが必要になる。
作品の中に、自分と同じ状況を見つけるのはいつもうれしいとは限らない。
自分の嫌なところをつつき出されるようで怖い、二度と読む気がしないということもある。
そういうことのほうが多いかも知れない。

 けれども、ほんとうはこういう作品こそ相手とするにふさわしい作品、深く読むべき本となるのだろう。
こういう葛藤を繰り返して行くからこそ、われわれは自分をいつも造りかえ、鍛えることができるのだろうと思う。
  
 「文芸評論」というのは、作品への異議申し立てであったり、応援演説であったりするが、そこに現れてくるのは、結局、変容し、パワーアップした自分なのだろうと思う。
出てきてほしいものだと思う。

 鬼頭孝佳君の「萩原朔太郎の世界」は力作で、自分が朔太郎作品から受けたインパクトを、四つの作品の表現、リズムをていねいにおさえることで論じている。
ただこれが真に鬼頭君の「評論」になるためには、多用する「読者」の視点から、時折顔を出す「僕」の視点に立脚するべきだろうと思う。
引用の際のルールも重要だ。

 武藤沙織さんの「人格―ジキール博士とハイド氏より―」は、人格の中にある善と悪とを分離するという象徴的な試みを否定し、内部に複数の人格のあることこそが人間特有の性質だと言う。
二重人格、多重人格は誰にも言えることだし、むしろそれがモラルとなっていると気付く視点は優れている。

 舩木由美さんの「『夏の庭』を読んで」は、「死」に関心をもった少年達が老人の末期を観察するという題材を通じて、「死」の意味、したがって「生」の意味を考えている。
「死は恐怖や悲しみだけではない。
時によって希望さえも与えることができる」という表現は重く、死への無関心、非現実感こそ、最も残酷な現代的現象だと考えさせらる。
応募作は、深沢七郎の小説『楢山節考』に漂う温かみを連想させてくれた。(平成17.2山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第24集)







2008/11/20 14:46:25|高校文芸集選評
「生きがたき世をどう生きるか」解答例(H16)
随筆・生活記録部門 H16

 われわれはこの世をなんと生きがたくしてしまったことか! 
今年に限らないのだが、応募作を読んでいてふと感じることである。
国が教育の意味に「生きる力」を求めたのも偶然のことではないだろう。

 戦争、不況、汚職、環境破壊、年金制度や医療制度の崩壊、おまけに異常気象に自然災害。
これらは決して遠い話ではなく、しごく現実的にわれわれの周辺にじわりじわりと迫って来ている。
銀河系の歴史の長さに比べれば、瞬きのようなわずかな時の間に、われわれは取り返しのつかないところまで来てしまった。

 身近な「悪」への無関心、フリーターからニート、優しいけれど迫力がない等々、世間は君らのことを様々に評する。
が、裏返せば、これも逆説的な「生きる力」なのだろう。
しかも君らは、社会や人間の歴史の欠陥の根幹がどこにあるか、直感的に見抜いている。
だから、君らは、君らより上の世代よりはるかに身近な高齢者や障害者、あるいは友人、家族に優しさを向けられるのだ、と感じる。
環境や自らについても、大人のようにその場しのぎの折り合いをつけず、ひたすら潔癖だ、とも。

 応募作のどれからも、この生きがたい世にどう生きようとしているのかについて、君らの「解答例」を読み取れるように感じた。
文字にして、また、同世代のそれを読むことで、君ら自身も、この世をどう生き延びるか、改めて考えることだろう。
これは、上の世代にも、「解答例」の提出をきびしく迫ることになるだろう。
できれば、もっともっと多くの「解答例」を提出してほしいものだ、と思う。

 関根綾さんの「『怖』考察」は、「怖」の文字を見つめているうちに、人間の心の厄介さ、怖さに気づく。
見えない心に由来する対人関係の難しさ、さらに厄介で怖い人間の奥底の「憎悪」の念。
淡々と書いていながらどきりとさせられる作品である。

 坂本成美さんの「畑日記」は、畑仕事という「手」の営みの魅力を存分に語っている。
そればかりか、「手」はアタマにつながっているのだということを、読む者に改めて思い出させてくれる。
素材の意外性もあり、後味の良い作品である。

 矢野紗織さんの「0824」は、「世界がもし100人の村だったら」という発想に潜むエゴイズム、残酷さを指摘する。
今の自分の非力さからも目をそらさない。
けれども、絶望の代わりに「考える事を始めよう」と宣言する元気がうれしい。

 別符沙織さんの「生命の尊さ」は、世の中に蔓延している、生命とりわけ死についての鈍感さ、現実感の無さを衝いている。
これが争いを慢性化させ、死とひとつながりの生への無関心をも生んでいると言う。
ここから引き返そうという提案は重い。(平成17.2山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第24集)







2008/11/20 14:34:57|高校文芸集選評
共に生きている(H15)
随筆部門 H15

 応募作品を読みながら考えていたのは、人間はやっぱり何かと共に生きているんだな、それ以外には生きていけないのだなということだった。
何かと共に生きていなければ、人間は自分が何者なのか測ることの出来ない存在なんだな、ということだった。
それは、人間が弱いということでも、孤独だということでもなく、最初からそのようなものとしてこの世にいさせられているのだな、ということでもある。

 三枝由佳さんの「人種差別について」は、『種をまく人』(P・フライシュマン)を読んで、アメリカの貧しいダウンタウンに暮らす、年齢も人種も職業も異なる十三人の共生に目を見張る。
ここから、三枝さんは、人種や宗教の違う人々が偏見を持ち、争い続けるのは何故だろうと考えている。
なんのてらいもなく、自然に、身の回りから地球大の人と人とのかかわりに考えが及んでいる。
結局、種をまくべき畑はひとりひとりの心の中にあるのだと気づいているようだ。

 向山絵理さんの「命の儚さ」は心を病み、そして、互いに癒されていく人と犬の交情について書いている。
それは人も犬も、生き物はみんな壊れやすい命と心を抱いて生きていることに気づく過程だった。
これが書けているからこそ、向山さんの作品はただの「うちのペット」自慢を超えて読む者に共感を持たせてくれるのだろう。

 山中詩穂さんの「両親へ―素直になれない娘より」は、共働きをする両親に対する一人っ子の自分の気持ちを描く。
寂しさの一方、これまで強がって見せてきた自分が、今ようやく、両親に素直にごめんねと言える気持ちになっている。
「ただいま」「おかえり」という一人芝居をユーモラスに告白できるのも、山中さんの人間完成直前というところだからだろう。

 相澤文子さんの「ワルシャワで起こったドラマ」は、「戦場のピアニスト」という題で最近映画化された、第二次世界大戦中のドイツ人とユダヤ人の物語を扱っている。
人間の生には絶対の善も絶対の悪もない、まして戦争の中では。
それでも人は誰かに善意を注がずにはいられない。
だからといって、惨めな末路を免れるとは限らない。
なんと残酷なことか。

 最近、若い世代の他者への無関心についてしばしば話題にされる。
けれども、私は高校生が示してくれる、高齢者や弱者に対するホスピタリティ、あるいは危機的な環境や国際状況、また、市町村統合などへの強い懸念のようなものを常々感じている。
この点では大人の世代の鈍さとは一線を画しているとさえ思う。
今回の応募作のいずれにも、やはり他者への視線の優しさを十分に感じ取ることができてとても心強く感じた。
優しい視線は、ごく身近な家族や友人ばかりでなく、外国人にも、ペットにも、極限状況に置かれた過去の人にも向けられていたからだ。。(平成16.2山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第23集)







2008/11/20 14:31:21|高校文芸集選評
読む前のモヤモヤ(H15)
文芸評論部門 H15

 読書感想文の冒頭に多い表現に、「○○を読んで改めて考えたこと(感じたこと)がありました」という言い回しがある。
これはおそらく嘘でも大げさでもないだろう。
けれども、私は疑問に思ってしまう。
「その本を選んだのはどうしてだろう?」と思うからだ。
「読んで考えた(感じた)」というけれど、本当は、「考えた(感じた)から読んだ」、少なくとも「考えたいから(感じたいから)読んだ」、その結果、「さらに考えさせられる(感じる)ことがあった」という方が正しいのではないか、と感じるのだ。

 言い換えれば、ある本を選ぶのには、その本を選ぶ必然性があったのではないか、ということでもある。
自分が読むべき本あるいは作品を選ぶ前に、実は、その本を読みたいと思わせるなにかモヤモヤしたものがきっとあるのではなかったか。
さらには、何を選ぶかの中に、読んだ後、何を語るかの「芽」が萌しているのではないか、ということだ。
これがある限り、読書感想文は感想文にとどまらず、評論になると考える。

 課題読書の後に書かれる読書感想文に案外つまらないものが多いのは、もしかしたら個々人に本を選ぶ必然性が希薄だからなのかもしれない。

 今回文芸評論に応募のあったのは一校のみで十六作品だった。
例年のことだが、「文芸評論」という呼び方に、最初から警戒心を持つのは残念なことだ。
一人一人に前に述べたような意味合いで、その作品(本)を読むべき必然性があり、読んだ後で書いたり話したりしたい差し迫った思いがあれば、それは文芸評論としてどしどし応募してもらってもいいのではないか。
これは指導に当たられている先生方にもお願いしたいことだ。

 私たちの知っている高校生の読むべき作品(本)を選ぶ前のモヤモヤの多くは、人間関係や自分とはどういう人間なのかということにかかわっているように思える。
大人の作品(本)を選ぶ前のモヤモヤがかなり実利的だったりするのに比べて、はるかにまっとうで生きる根源に根ざしているように感じる。

 内藤良太君の「『想うもの』〜『青い炎』より」は、護るために家庭を破壊させ、自己をも漆黒の闇に葬ってしまう少年の心理を息苦しいまでに追尋している。
このところの少年犯罪では、犠牲者はもちろんどうにも痛ましく、犯罪そのものの不条理さは容認しようがない。
が、内藤君の作品は、犯罪を犯してしまった少年たちの思いや、やりきれなく長いであろう人生にも思い及ぶような問題提起が含まれている。

 高野雅己君の「『坊っちゃん』に見る人間関係と正義」は、夏目漱石の『坊っちゃん』批評にとどまらず、自分の周辺の人間関係、刻々変化する対人観に目を注いでいる。
また、善悪の価値観の相対性についても同様に、自らに引きつけて作品を読むことができている。

 糸山直幸君の「太宰治と『人間失格』」は、この小説を運んでいる「視点」に着目している。
たとえば糸山君は、主人公の心の動きが作品の叙述の大半を占めており、「己の存在を人間ではない全く別の『何か』に仕立て上げている」と指摘するが、これは作家・太宰治にも迫る着眼だと言ってもいい。

 渡辺繁君の「芥川龍之介について〜『羅生門』『鼻』より〜」は、芥川小説の心理描写の生々しく人間くさいことへの感動を率直に表現している。
はらはらしながら引き込まれ、読み終えて口を閉じてじっと考え込む。
小説の力、それを読む楽しみというのはこういうことなのだとよく分かる一文である。(平成16.2山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第23集)