 随筆部門 H14
頼りになるのは周囲の人間、あてにならないのも周りの人間、面倒くさいのも。 その時々で周りの人間が違って見える。 違って見えるのは相手のせいばかりじゃない。 その時その時で、自分が相手に期待するものも、自分の思いも違っているからかも知れない。
周囲の人間と自分をつなぐのは「ふるまい」と「ことば」。 これまたしごく不自由で、その時々の自分の思いとぴったりすることがめったにない。 自分がそうなんだから、相手だってきっとそうなのだろう。
人間しょせん一人きりだよ、周囲の人間なんていらない? 色んな時があるから、「ふるまい」も「ことば」も面倒くさい? そんな心境になることは、きっと誰にもあるだろう。 けれども、だからこそ、他人の存在も「ふるまい」も「ことば」も必要なのではないだろうか。
幸か不幸か、自分だけでは、自分はわからない。 他人がいて、ふるまい、ふるまわれて、話し、話されて、自分がわかるのだろう。 永続的ではないにしても、そのときの自分が。 もちろん、他人がいてよけい分からなくなることもあるけれど。
僕らは不自由な「ふるまい」と「ことば」に、期待しすぎず、あきらめず、つきあって行かねばならない。
「夢への道」(あけぼの養護二年・清水仁美)の中では、「話す」「人」「自分」といったことばをたくさん見る。 現場実習や修学旅行先で、自分の話を聞いてくれる人、自分に話してくれる人に出会って、筆者は変わっていく。 自分が話すことに自信を持ち、何より自分を好きになるきっかけを得た。 そこから、自分も「聞ける」人になろうという夢を抱くことができた。 率直で素直な書き方だが、ただの体験記に終わっていないのは、相手と自分の「ふるまい」や「ことば」をちゃんと見、とらえているからだろう。 「自分が納得できる私になろう。」というまとめは印象的だ。
「最後のメール」(北杜高二年・渡部絵美)に取り上げられたモチーフはとても衝撃的だ。 取り戻せない時間。死を選んだ者の前で、残された者たちは無力さに苦しむ。 死者は不変で生者は変化するからだ。 分かっていたはずの一切が突然分からなくなってしまう残酷。 「最後のメール」に救われる気持ちがしたのは、筆者や友人たちばかりではない。 作品を読ませてもらっている私たちの気持ちの中にもぽっと着信ランプがともる。
「大切な私の居場所」(峡北農業高三年・狐塚えみ)では、もの言わない馬との、しかし、ことばに頼る以上の気持ちの通い合いの体験である。 好感が持てるのは、時間軸に沿った素直で飾らない書きぶりのせいだが、表現が感情におぼれていないせいでもある。 繰り返す大けが、あるいは馬の故障や死という大事件を、今の筆者が乗り越えているからだ。
「蜘蛛」(須玉商業高三年・板垣充)。 誰にも嫌いなもののひとつやふたつはある。 文を書くことに興味を持つくらいの者なら、嫌いだから目を背けるのではなく、逆に上から下から、外から内から、過去から現在・未来、あの手この手で観察し、表現して自分のものにしてしまうといい。 「お化け」より、名づけられない訳の分からないものの方がこわいのである。 作品はこの手を使って見事に蜘蛛を自分のものにしている。 自分のものにしてしまったら、もう忘れてもいいのである。(平成15.2山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第22集)
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