新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2008/11/20 14:25:03|高校文芸集選評
「ふるまい」と「ことば」(H14)
随筆部門 H14

 頼りになるのは周囲の人間、あてにならないのも周りの人間、面倒くさいのも。
その時々で周りの人間が違って見える。
違って見えるのは相手のせいばかりじゃない。
その時その時で、自分が相手に期待するものも、自分の思いも違っているからかも知れない。

 周囲の人間と自分をつなぐのは「ふるまい」と「ことば」。
これまたしごく不自由で、その時々の自分の思いとぴったりすることがめったにない。
自分がそうなんだから、相手だってきっとそうなのだろう。

 人間しょせん一人きりだよ、周囲の人間なんていらない? 
色んな時があるから、「ふるまい」も「ことば」も面倒くさい? 
そんな心境になることは、きっと誰にもあるだろう。
けれども、だからこそ、他人の存在も「ふるまい」も「ことば」も必要なのではないだろうか。

 幸か不幸か、自分だけでは、自分はわからない。
他人がいて、ふるまい、ふるまわれて、話し、話されて、自分がわかるのだろう。
永続的ではないにしても、そのときの自分が。
もちろん、他人がいてよけい分からなくなることもあるけれど。

 僕らは不自由な「ふるまい」と「ことば」に、期待しすぎず、あきらめず、つきあって行かねばならない。

 「夢への道」(あけぼの養護二年・清水仁美)の中では、「話す」「人」「自分」といったことばをたくさん見る。
現場実習や修学旅行先で、自分の話を聞いてくれる人、自分に話してくれる人に出会って、筆者は変わっていく。
自分が話すことに自信を持ち、何より自分を好きになるきっかけを得た。
そこから、自分も「聞ける」人になろうという夢を抱くことができた。
率直で素直な書き方だが、ただの体験記に終わっていないのは、相手と自分の「ふるまい」や「ことば」をちゃんと見、とらえているからだろう。
「自分が納得できる私になろう。」というまとめは印象的だ。

 「最後のメール」(北杜高二年・渡部絵美)に取り上げられたモチーフはとても衝撃的だ。
取り戻せない時間。死を選んだ者の前で、残された者たちは無力さに苦しむ。
死者は不変で生者は変化するからだ。
分かっていたはずの一切が突然分からなくなってしまう残酷。
「最後のメール」に救われる気持ちがしたのは、筆者や友人たちばかりではない。
作品を読ませてもらっている私たちの気持ちの中にもぽっと着信ランプがともる。

 「大切な私の居場所」(峡北農業高三年・狐塚えみ)では、もの言わない馬との、しかし、ことばに頼る以上の気持ちの通い合いの体験である。
好感が持てるのは、時間軸に沿った素直で飾らない書きぶりのせいだが、表現が感情におぼれていないせいでもある。
繰り返す大けが、あるいは馬の故障や死という大事件を、今の筆者が乗り越えているからだ。

 「蜘蛛」(須玉商業高三年・板垣充)。
誰にも嫌いなもののひとつやふたつはある。
文を書くことに興味を持つくらいの者なら、嫌いだから目を背けるのではなく、逆に上から下から、外から内から、過去から現在・未来、あの手この手で観察し、表現して自分のものにしてしまうといい。
「お化け」より、名づけられない訳の分からないものの方がこわいのである。
作品はこの手を使って見事に蜘蛛を自分のものにしている。
自分のものにしてしまったら、もう忘れてもいいのである。(平成15.2山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第22集)







2008/11/19 15:53:29|高校文芸集選評
「セブンティーン」のもやもや(H13)
随筆部門 H13

 中学生の頃、テレビの番組に「セブンティーン」とかいうのがあって、白黒の画面の中で当時のアイドルたちが泣いたり笑ったりけんかしたり恋(?)をしたり、実に楽しそうであった。
「セブンティーン」というものはこんなにすてきな年代なのかとため息をつき、一日千秋の思いで「セブンティーン」になるのを、私は待っていた。

 実際に「セブンティーン」になってみたら、泣いたり笑ったりけんかしたり恋(?)をしたりなんてことは、皆目ないのである。
これまた当時、演歌界のアイドルだった宇多田ひかるのお母さんの唄に、「十五、十六、十七と、私の人生暗かったー」という歌詞があって、これはそのまま自分のことだった。
いや、実のところ、私の場合永遠に暗いような気さえしていた。
私の「セブンティーン」は、坂本久や森山加代子のそれではなくて、藤圭子や大江健三郎のそれなのであった。

 何でそんなに暗かったのかといえば、ひとえに「自分」というものだった。
時にいやに不遜に高慢になってみたり、時に自分には生きる価値がないと思うほど劣等感に苛まれた。
今、思えば、「自分」というのは「自分」と「自分」を取り巻く他人のことだった。
正確に言えば、高慢も劣等感も他人(家族も含む)の中の「自分」のぎこちなさの別称だった。

 今年も作品を読ませてもらって、こんなことを思い出した。
時代は変わっても、高校時代の一番のテーマは、「自分」と「自分」を取り巻く他人のことなんだなあと感じたのである。

 佐藤靖亮君(甲陵高三年)は、それを「不特定多数の人々から受ける空気で自分自身が滅入ってしま」うと、書いている。清水仁美さん(あけぼの養護学校高等部一年)は、「周りの意見を聞いて、それに同調することしかしなった」「もやもや」を見つめている。

 上林将人君(中央高校通信制四年)は、「たくさんの他人の中にいる場合、人に囲まれてはいても内向的になりやすい」「自分はおもしろいやつじゃない、と思い煩うことが多々あった」と言う。

 高慢や劣等感をいくら書き連ねても、読む気はしない。
愚痴や独り言がまったく無意味だというのではないが、それは人には向いてはいない。
だいいち息苦しくてしょうがない。
堅苦しく言えば、自分を対象化した表現でなければ共感は持てないということでもある。
泣きたい気持ちや怒鳴りたい憤懣を腹に持った微笑み(少しかっこうよすぎるが)は、逆に、読む者をにこっとさせながら、実はどきりとさせる。

 佐藤君は、JR中央本線の勝沼−高尾間が自分に与える不快感を考察している。
物理的圧迫感か心理的圧迫感かとたどっていって、ついに郡内地域の「都会の忙しない空気と田舎のゆったりした空気が混ざりあっている」せいだと断定する。
万人向けの真理ではないかもしれないが、佐藤君にとっての真実ではある。
言い切ってしまった者の勝ちである。

 清水さんは、学園祭の音響係を引き受けてから大変身を遂げた。
「音」から「歌」、そして「音楽」がなくてはならないものとなった。
けれども、本当に清水さんを変えたのは、「音・歌・音楽」ではない。
それらを自己表現の手法にした清水さん自身だ。
その証拠に清水さんは言葉による表現手段を獲得し、学級新聞に「歌紹介」を書き、このような作品をものすることができている。

 上林君の作品は、「内向的」な自分とメロンがいつ結びつくかはらはらさせてくれる。
結果はお読みになるとおりである。
こんな「大荷物」の土産を用意する上林君のどこが「内向的」なんだろうか? 

 独断と偏見でもいい。
自分をいったん突き放して、そこから自身の「真実」をことばに定着する努力をしてほしい。
来年も大いに期待したい。(平成14.2.1 山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第21集)







2008/11/19 15:49:21|高校文芸集選評
優れた「出会い」論(H13)
文芸評論部門 H13

 本はたくさん読む(多読)のがいいか、深く読む(精読)のがいいかという議論がある。
思うに、これは質問の立て方そのものに矛盾がある。
たくさん読まなければ、深く読みたい本なんか見つかりっこはないからだ。

 誰もが推薦するいい本、あるいは長い歴史にも朽ちずに残った、いわゆる古典(古文・漢文のことではない)というものがあるではないかと言うかも知れない。
これも比較的支持率が高いというだけのことで、今の、自分に、合っているかと言えば、その確証はない。
「いい本」というのは、ある日、ある時の、自分にとって「いい本」なので、これは出会うと言うか、出くわすと言うよりない。

 ある日、ある時、ある本にぶつかることでものの見え方が変わるという経験のある人もいるだろう。
考え方とか視野とかいう比喩的なことではなくて、私自身の体験で言えば、まさに周りの光景が違って見えたのである。
それはサルトルの『嘔吐』を読み終えた時のことだった。
本から周囲に目をやると、あたりの樹々の葉や草むらの緑がビニールのように見えたのだ。
まるで寿司に入っている葉蘭(バラン)のように。

 主人公は周囲の何を見ても不自然な作為を感じ、嘔吐感を覚える。
それが消えるのは、唯一、黒人の歌うブルースを聴いた時だけだった。
ブルースは一つ一つの音がこうでなくてはならないように生起し、つながっていた。すべての音が必然的にそこに在った。

 読後、本から目を上げたとき、私の目に映った美しく植栽された庭園は、まるでタテマエばかりでわざとらしい、こしらえものにあふれた、その時の私の周囲の象徴のようだった。
十代の私は、私にとって嘔吐感をすーっと消し去ってくれる何かを見つけなければならなかったのだ。

 その感覚があまり不思議で、五年ほどたって『嘔吐』を読み返してみたが、二度と同じ感覚は戻ってこなかった。
それどころか、五年前あんなにすらすら読めたのに、今度は読み続けることがいかに苦痛だったことか。

 本当の愛というものはこうなのか、命がけなんだなと金縛りにあったような気がした本もある。
何者かに対する激しい怒りでその場に立ちつくした本もあった。すべてその時の自分が求めていた本なのだろう。

 雨宮はる香さん(日川高校二年)の作品は長くはないが、魅力に満ちている。
この評論のテーマは「出会い」そのものだ。
しかも、手が込んでいて、その「出会い」は二重構造になっている。
一つは、雨宮さん自身の川端康成作品との二度目の出会い。
もう一つは、『伊豆の踊子』の中の「青年」と「踊り子」との「出会い」。

 雨宮さんは、川端康成との二度目の出会い体験を武器にして、作中の「出会い」を分析している。
作品を分析する際、同じ作家の別の作品を物差しにするのは、文芸評論では割合広く行われる手法である。
この手法はうっかりすると論者に都合がよい代わりに、作家の意図から遙か遠ざかってしまう危険もある。
が、雨宮さんは用い方を誤ってはいない。
作家と作中の「青年」とを決して混同しなかったからだろう。
それは「川端康成が現実にはなし得なかった願望を青年が実現させた」と述べ、さらに末尾近くの「川端康成が出した孤独への結論」という言い回しにも明らかである。
雨宮さんが気づいている「自分を孤独から救い出すものを欲し、それでもどこかそれを否定する」という結論は、恐ろしいほど川端文学の正鵠を射ているように感じた。

 願わくは、来年も、多くの作品と諸君との「出会い」を読ませてもらいたいものである。(平成14.2.1 山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第21集)







2008/11/19 15:45:00|高校文芸集選評
明るく、大真面目(H12)
随筆部門 H12

 いつものことだが、随筆・生活記録部門に集まってくる作品は多種多彩である。
だから入賞する作品も様々である。
以前は、前年の傾向を意識しているのかなと思える作品群があった。
このごろはてんでんばらばらで、そのてんでんばらばらが実に面白い。
生徒諸君も先生方も忙しくて「ゆとり」がなくなって、「傾向」を意識したり、手を加えていられなくなったのかもしれない。
それで、かえって個性的な作品が寄せられるようになってきたのだろうか。
「ヒョータンから駒」というものである。

 こう書いてはいけない、こう書かねばならないという決まりはないと思っている。
ましてや随筆というジャンルなのだから。
ただ、こう書かれたものはいいなということは言える。
つまり出来上がった作品について、読む者を引きつけ、読ませてしまう効果について上手下手はたしかにあるだろう。
その上手下手についても、目の着けどころが面白いと、読ませてしまうから、それも必要十分条件ではない。

 気づいたのは、自分の身近な生活の一局面に目を向けて、じっくり考え込んでいる作品に概していいものが多いように思う。
個々の作品評でも触れるが、孤独でも悲壮でもなく、悪のりするわけでもなく、既成概念にとらわれることもなく、大真面目に考え込んでいる。
見ること(「気づくこと」と言ってもいい)、考え込むこと、ことばにすること……表現の基本を見せられているようだ。
しかも、ここで入選作としたものは、いずれも表現に成功している。

 もう一つ、読んでいて、おそらく本人は気づいていないだろうが、大切な発見をしていることが感じられて、はっとさせられる作品も多い。意識した以上の効果があがっていると言えるだろうか。作品を読んでもらうのが一番手っとり早いが、かいつまんでそれぞれの作品の魅力について触れたい。

 板垣充君(須玉商業高二年)の「埃〈世界と埃の共存〉」は、その題名が示す通り実にユニークである。
埃について大真面目に考察を進めているところに「わざとならぬ」おかしみがある。
ただユーモラスなだけではなく、埃……と考えて行った果てに、人・生物・生命を相対化する視点に到達する。
まるで競争もいじめも非行も、現象面にのみ振り回されていることが馬鹿らしくなるような気さえしてくる。

 岩崎紗衣子さん(甲陵高・一年)の「目覚め方についての考察」。
板垣君の作品と同様、自分の日常に目を向けて、理想的な目覚めとそうではない目覚めについて、やはり大真面目に考える。
そうして、夜というものがもっている一種の「力」のようなものに気づいている。
岩崎さんの書き方も少しも深刻ではなく、孤独でもない、なんともいえないユーモアがある。
前半と後半に別れてしまいそうなのが残念だ。

 神津宜久君(日川高・二年)の「馬を洗って…」も不思議な作品だ。
自分の読書体験を書いているのだが、主題はもとより、いわゆる「得たもの」を書いているわけでもない。
体験そのものを表現していると言える。
表現そのものが神津君の読書体験そのものとして読めると言った方がいいかもしれない。
しかも、こういう書き方が独りよがりに終わっていないのは、良い本とはどんな本かという理屈にちゃんと止揚していることだ。
何度も読める本、すなわち分かり易くない本がそれだというのである。
本を読むことは作者の世界を覗くこと、作者のポッケの中の宇宙に入りこんで、そこから外の世界をおずおずと眺めることだと述べている。
なんとも言えない魅力がある。

 飯嶋奈津子さん(山梨学院大附属高・三年)は、昨年もこの部門で芸術文化祭賞を得ている。
今回の作品「感謝の日」も安心して読める。
野球場に応援に行き、財布をなくして、帰るに帰れなくなった状況を描いている。
心配したり、探すのを手伝ってくれたタクシーの運転手達の会話を畳みかけるように再現して、切迫した自分の内心を表すのに効果を上げている。
飯嶋さんが意識していたかどうかは分からないが、表現された作品には、普段あまり接したことのない異世代の人との接触、ましてやその対応が好意的なものだったことへのうれしい発見が滲み出ている。

 中山真理子さん(甲陵高・三年)も昨年に続く入賞。文章を書くことが好き、楽しいと思えることが普通の人よりも多いというタイプだ。
そういう中山さんが改めて、書くこと、書く自分というものを見直している。
他人に認められることを意識して書いたものは薄っぺらだと気づく一方で、ひんぱんに自分が発信しているメールの表現は、実にいいと思う。
伝えたいことがあって、伝えたい人の在るメールだからだろうか? 
新しいメディアが急速に普及し、否定的な見解も少なくない。が、新しいメディアの上でこそ素直になれると言う若者も多い。他人に認められようとすることと、伝えたいこと・人が在ること……この違いは大事なことだと思う。

 ほかにも小川瑛子さん(都留高・二年)の「特攻人形が訴えかけること」、蔦村侑子さん(日川高・一年)の「幸福論」、宮澤梨歌さん(日川高・一年)の「私」、今沢早織さん(甲府南高・一年)の「〃ともだち〃という人」などが目についた。(平成13.2.1 山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第20集)







2008/11/19 15:40:16|高校文芸集選評
ラブレターか、ないものねだりか(H12)
文芸評論部門(H12)

 気に入った作家の書いたものは読めるだけ読んだほうがいいという。
作品はもちろん、随筆や対談、書簡等々。
ただし、このやり方をすると、ますます好きになってのめり込んでいくこともあれば、ある時からふいと嫌いになってしまって、生涯お別れということもあるから要注意である。

 読書の対象ならそれでもいいが、それが評論を書いてやろうとする対象だったらやっかいだ。
好き、あるいは気になる、関心があって、一人の作家を対象に選んだのだが、憎悪するほど嫌いになってしまったら批判する気が失せる。
こうして、評論というのは、対象へのラブレターか、さもなければわがままな「ないものねだり」になりがちだ。

 随筆でも入選している中山真理子さんは、ちょうど一年前に亡くなった三浦綾子の作品の小説十四点、随筆六点を読んでみた。
そこで三浦の書きたかったものが「人間誰しもが持っている弱さ・汚さや我々が普段の生活の中で目をそらしてしまう所、意識的に逃げてしまう所」なのではなかったかと気づく。
さらには「キリスト教の福音」。

 中山さんの評論の優れているのは、三浦綾子へのラブレターとなっていないことだ。
たとえば、こんな点である。三浦は読者に「人間の中にある原罪の存在、そしてその意識が露になるのが様々な時・場所・場合」を認識させようとしていると、中山さんは気づく。
これこそ三浦の存在価値なのではなかったか。

 また、三浦の作品は「話の展開で読者を惹きつけるという点では多大な評価を得ることができるかもしれないが、『小説を通して伝えたいこと』を持つ作家の作品としては未完成」だと結論づけている。
つまり三浦綾子の一般的な人気と文学的価値との矛盾である。
一方、中山さんは、三浦の作中人物が「自分の原罪を改めようと試みることは疎か、原罪の認識にも至らずに話は完結して」しまっていると言う。

 国語の授業の罪でもあるが、我々は小学校以来、「この品は何を訴えているか」とか「主題は何か」とか考えることが癖になっている。
小説には(あるいは評論もそうだが)解決や主張が目的ではない作品もある。
そういう作品は過程や認識を目的としているとも言える。
人間とは、生きるとは、愛するとは……、迷っていること、考えている自分、見ている目を表現していて、決して解決を示さない作品もある。
第一われわれの感情生活はそんなに単純なものではない。

 問題はここから先だ。
そのような過程や認識しかない作品に触れたとき、読者はいつでも煮え切らないような、欲求不満のような嫌な気持ちがするだろうか? 
解決や主張があれば、常に納得して、明日からの生活が元気一杯になれるだろうか?
もういっぺん言う、われわれの感情生活はそんなに単純なものではない。

 解決や主張のあるなしと作品の優劣とは違うのである。
ありようがどうであっても、優れた作品といういうのは、犯罪を描いても、悪徳を描写しても、答えを示さなくても、読み終えた後で新しい「目」が持てたような、読む前にいた所から自分をどこか別の所に連れて行ってくれたような、さっぱりした気持ちのするものだ。
格好よく言えばカタルシスというやつだ。
これが得られない原因は、読者の求めすぎの問題や背丈に合っていないこともあるが、多分に作品の完成度の問題だ。

 一つの作品について、一人の作家について、読んで率直に感じたところから出発して、気楽に「評論」してほしい。
来年も文学作品を材料とした、若々しく生真面目な分析の結果を見せてもらうことを期待している。(平成13.2.1 山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第20集)