 子供が大人になるためにぜひとも読んでほしい本がある、というのが、すべての前提である。 それは身体でいえば骨組みや血液、筋肉を作るのに欠かせない栄養素となるような本のことである。
あえて言うが、多少の強制や意識的な指導を加えてもそれらの本を子どもたちに読ませたいと思うのだ。
学生時代のことだ。 親しい友人の父親がとても悲惨な交通事故で亡くなった。 告別式に弔問に行きはしたものの、ショックと二十歳にもならぬ若さとで、友人にどう声を掛けて力づければいいのか、私には分からなかった。 挙句、
「頑張れよ」
などという月並みしか、私には言うことができなかった。 その時、友人は、
「大丈夫だよ。ドストエフスキーとか、本読んで鍛えているから」
と言ったのである。場合が場合だけに、私にはその言葉が唐突に聞こえた。 その瞬間の正直な気持ちを言えば、格好をつけるのもいい加減にしろという思いだった。
しかし、しばらくして私は気づいた。 彼だって、当然のことながら、父親の死がショックだったし、心情的に打ちひしがれていたはずである。 が、いなり寿司や太巻き寿司などの仕出しを生業とするその家で、今や、男は彼一人である。 家には悲嘆にくれている母もいれば、何が起きたのか分からず呆然としている姉もいる。 彼の言葉はただの粋がりではなく、残された肉親を思いやって、しっかりしなければと自分に言い聞かせる言葉だったのである。
また、別の話である。 私は初冬の電車に乗っていた。 車窓からは鉛色の時雨に沈んだ街道沿いの街並みが見えていた。 寒そうに背中を丸めて歩む人の姿も、顔も見えぬほど雨カッパに埋もれて走りすぎるバイクもいた。 その時、同行していた一人の女性が、不意に
「こんなところに住みたくはないわね」
と言った。何気ない彼女の言葉に私は無性に腹が立った。 それは、彼女の言葉になんと返答しようか迷ったからではない。
〈君が住ろうが、住みたくなかろうが、あそこに時雨の中を歩いてゆく人も、あの灰色の街に住んで懸命に暮らしている人もいるじゃないか。)
そう言いたかったのである。 そして、
〈この女性は美しいことは美しい。美術にもグルメにも詳しそうだ。けれども、他人の身に自分を置き換えてものを考えることはできない人なんだな。〉
そして、私は結論づけた。 彼女は、おそらく読書の習慣は持っていないのだろう、と。
そうなのだ。 本を読むことは、他人の立場や気持ちがくみ取れるようになることなのだ。 つまり、自分が感じる以外の感受性にも配慮できる寛容さが読書によって育つのである。 自分の身の回りだけではない「世界」を、それがたとえ架空であっても、未知の「世界」を知ることで力づけられ、勇気付けられるのである。
読書からは、世の中の善や徳と共に、悪徳や不条理さえ知ることができる。 そして、自分を含めて、人間が如何に卑小で有限なものかをいやというほど知らされるのである。
読書とは、一つには、こうした意味において「他者」に出会える「他人探し」の旅でもある。
本を読めば読むほど、現在の自分のものの考え方や生き方は相対化される。 「今」、「ここ」に留まってはいられない。 少しでも動きたい、たとえ身じろぎでもしたいという衝動に駆られる。 こういうとき、人は独善的ではいられない。 ある人の描いた宮本武蔵のように、「我ことにおいて後悔せず」などという荒っぽい決断はできなくなるのだ。 常に自己を相対化し、伸びたいと思う者にとって、後悔はつきものである。
読書はこうした意味において「他人探し」以上に「自分創り」の最善の方法でもある。
サッカー選手の中田英寿は、引退にあたって「自分探しの旅」に出るという名言を残した。 「探す」のは、本来、外に向かって「他者」を探すはずである。 「自分」とは「探す」というより「創る」ものである。 確かに、「自分創り」も「他人探し」も「出会い」によって得られる点では共通している。 読書はそんな「出会い」の一つである。
ひとりきりで、本の著者を仲立ちにして、自分と向き合うことは厳しい。 好んでしたくないと思える時もあろう。 けれども、読書は、この厳しさによって、寛容で謙虚な、しかも積極的な態度で「他者」に向かい合える「自分」の「構え」を培ってくれる。 このことは読書の効用として、実社会における「出会い」による経験の蓄積と同値だといっても言ってもいいだろう。 実社会では時間や空間の制約があるが、読書の世界ではそれがないだけ、より多種多様な経験を得られるだろう。
だからこそ、子どもたちには本を読む習慣を身に付けさせたいのである。 写真:拙著「本の本」(山梨ふるさと文庫)2006
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