 平成9年度 随筆部門
ことばは何も表さない。 辞書にはあるし、誰にでも使える。 だからこそ、ことばは何も表さない。 それでことばどうしを組み合わせて何かを表そうとする。 それでも何も現れてこないから、もっともっとことばの組み合わせを連ねていく。 困ったことにますます何も現れなくなる。 ことば−文字というか−は無限に増えていく。
無限に増えたことばの連なりを読む。 何を表しているかと思って、懸命に読む。 強烈な文字ばかりが眼に食い込んで、ことばはうるさいくらいに溢れているのに、何も伝わってこない。 ああでもない、こうでもないと思いながら読む。 何も読み取れないから、ひとつひとつのことばを見る。 ことばは執念く沈黙している。
神戸の少年が新聞社へ送ったことばの連なり−文字の集合−を読んだときの印象です。 世間では書き手の姿と心理を推測しようとして、また、無数のことばを連ねていました。 知的レベルが高いなどと言う人もいました。 知とは何も語らぬ、単にことばの堆積だとでも言うのでしょうか。 少年が書いたことがわかってからは、その心情を分析することにやっきになった挙げ句、「透明な存在」などということばだけを取り出して、鬼の首でもとったように、ふたたび無数のことばを連ねつづけました。 ここでも何かを表し得ていたことばたちはごくまれでした。 ことばを連ねるために連ねていたのです。 本当のところ、事の重大さも少年の内面も何ひとつわかっていなかったのです。 当の少年自身でさえわかっていなかったのですから。
生活もなければ行動もない。 そこにまつわるこころの動きもない。 「現実」がない。 生活もなく行動もなく、「かたち」になることを渇望するこころもなく、頭のなかでことばばかりをいくら組み合わせ、置き換えてもそこには何も現れてはこないのです。 千万言使っても、そこには一行の数式ほどの必然性もない。
ことばは生活や行動といった「現実」から立ち上がってくるのです。 いつの日か「かたち」になることを渇望するこころがなければならない。 すくなくともそれを目指していなければならない。 そんな意味で、応募の作品を読ませてもらって、安心しました。 応募数こそ多くはなかったものの、そこでは生活や行動あるいはそれ以前の「かたち」を求めるこころがことばを支えていたからです。
入賞の「本当のこと」(甲府南・西内和子さん)は、「とにかく遠くヘ」行きたくてひたすら自転車をこいでいます。 眠りから覚めた筆者は、自転車にまたがって「とにかく遠くへ」行こうとします。 誰にもあるような思いと、ひとつの夢が覚めてもうひとつの夢に在るような不思議な感覚がうまく表現されています。
新宿までの電車内の見聞を描いた「朝の電車に乗って」(韮崎・深澤沙織さん)も、何気ない文章のなかに、筆者の観察眼が光っていて面白い作品でした。
「だから… だから私は…」(巨摩・斎藤愛子さん)も印象的でした。 教室へ来ないで相談室で学習する三人の友のことを思い、学校とは、登校拒否とは、教育とは、何だろうと筆者は考えています。
「夏と私の危うい関係」(甲府南・宮川径君)も、十五歳の夏の心境がよく現れている、元気のいい作品で好感が持てました。
ことばやその運なりは、生活や行動やそのときの心情を含めた意味で、「ひと」と不可分だな、と思います。 抽象的な思いやことば遊びに耽ることの多い世代かと思います。 けれども、周囲にちからのない、根っこもなければ、中身もないことばが溢れている時代だからこそ、あなたたちは個人的でいい、自分や周りを見つめてことばを書きつけてほしいのです。 ことばがおそろしく不自由なものだと思えるときこそ、ことばが必要なときなのではないでしょうか。 また、一方で何も表したくないから、ことばを使うというのも、懸命に減らしていきたい。 自戒も込めてこう思うのです。 来年も期待しています。(平成10.2.1 山梨県高等学校芸術文化祭実行委員会『高校生文芸集』第17集)
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