バンコク行きの飛行機の搭乗時刻まで、まだ少し間があった。
エスカレーターを登り切ったところにベンチがあって、タイ人だろうか、一人の女が座っていた。 若い、少し褐色がかった肌の女で、携帯電話を手に、ぼんやり二三メートル先の床に目を落としている。
女が目を上げて何か呼びかけた。 視線の先には五歳ほどの女の子がいる。 さっきからエスカレーターの昇降を繰り返しているらしい。 女の子はぴょんぴょんと、しまいには下りのエレベーターを駆け上がろうとしている。
母親が立ち上がる。 さっきより鋭い声で女の子に呼びかけた。 女の子はぐるりと柵を回って母親の膝元にやってくる。 母親の脚の間に背中から割り込んだかと思うと、膝の上によじ登る。 そして、今度は母親の膝を滑り台にして遊び始める。 ほんの少しの間も止まっていることはない。
やがて、母親が娘の小さな手に開いた携帯電話を握らせる。 そして、耳元に何か囁く。
ようやく動きを止めた女の子が携帯電話を耳に当てる。 母親が娘に何か囁く。 娘はうなずいている。 はっと娘の眼が上がる。 母親が、また、何か囁く。 娘の舌っ足らずな日本語が聞こえる。
「パパ、もう、お仕事終わった?」
……
「まだ?」
……母親が囁く。娘、
「ご飯食べた?」
……
「まだ?」
娘は無言で携帯電話を耳に当てている。 娘の横顔を見つめていた母親が囁く。 娘、
「お仕事頑張って」
娘は、再び、無言である。 時折あごでこっくりしたり、小首をかしげたりしている。 無言の時間が今度は長い。 母親が囁く。 そして、娘が言ったのである。
「来年、また、来る」
……娘はうなずいている、何度も何度も。
……母親が囁く。娘、
「パパ、愛してる」
娘は、また、ひとつうなずいて、母親の手に携帯電話を返す。母親は、一瞬手元を見つめ、やがて、電源を切った。
膝から滑り降りた娘は、また、ひらひらとひらひらと舞うようにフロアに飛び出していった。
母親はじっと携帯画面を見つめている。 やがて、パシャリと畳んで、また、二三メートル先の床に目を落とした。 写真:ハノイ・ノイバイ空港(ベトナム) |