子どもが読むべき本のリストなど 要らないという人もいる。その理由は色々だ。
先ず、「これを読め、あれを読め」なんて言われると却って読みたくなくなるのではないか。 あまのじゃくのようだが、自分もそうだった。 と、読書の意欲を失わせるのではないかと反対する人もいる。
しかし、そういう人が果たして読むべき本のリストがなくって、余計に読書欲が高まっただろうか。 そういうはなしもあまり聞いたことはない。
次にこういう意見もある。 子どもが読むべき本を大人が決めてもいいのだろうか。 子どもは自分の読むべき本を自分で選ぶのが本当だ。 大人の価値の押しつけはよくない。
こういう意見を持つ大人達は、自分の人生の中で、果たして子どもに勧められる本の何冊かを持っているのだろうか。 あるいは子どもに勧めたくて堪らなくなるほど、何冊かの本に身を入れて読んだことがあるのだろうか。
次に、子どもは何でもたくさん読めばいいのだという乱暴な意見の人もいる。
子どもは本当に必要なときに必要な本に巡り会っているのだろうか。 巡り会うほどたくさんの本を一人の子どもは読むだろうか。 洪水のように本が出版される中で、なんでもたくさん読めというのは、くだらない本であれなんであれ、溺れてしまえ、ないしは呆然として手をこまねいていろというのと同じである。
世の中には、子どもに出合って欲しい本があるのだ。 そして、それは無限ではない。 しかも、出合うのはいつでもかまわないわけではない。 出会うべきふさわしい時があるのだ。 本に触れるなら、できればここからスタートして、やがて自分の力で泳いで行ってくれればいいのだ。 できれば子どもに出合って欲しい本に効率よく、ふさわしいタイミングで子どもに出合わせてやろうと思うのは、世の中の先輩として当然ではないか。
読むべき本のリストについては反対でなくっても、もっともな意見もある。 リストはさんざんあるじゃないか。 高校生には山梨県では、司書と司書教諭、図書館担当の職員が選んだ『高校生の本棚』があるじゃないか。 例年少しずつ改訂しながらずっと続いている。
学校によっては、甲府東高校のように『東高生に薦める50冊』というような、学校独自のリストを拵えている学校もある。
すでにリストはあるのだ。 これがいったいどのように活かされているというのだ。
これはもっともな意見である。 リストの活用こそが大切なことはいうまでもない。
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