新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
北陸の宿
 何十年も昔の冬の話である。

 その日、不意に何処かへ行きたいと思い、中央本線の下りに乗った。
信濃大町から大糸線に乗り、日本海に出た。
この頃から、ぼんやりと金沢へ行くかと決め始めていた。

 一日汽車に乗って、北陸本線で夕方になって、今夜は何処へ泊まろうと思った。
この先は富山だけれど、大きな街に不意に降りて、宿が探せるものか、自信がなかったので、手前の小さな駅で降りることにした。

 駅は泊と言った。後で思えば、親不知の手前だった。

 とっぷり日が暮れるは、おまけにわずかな商店街の寂しい駅前である。
北国の風は冷たいし、宿屋などどこにも見あたらなかった。
駅から街に歩き入って、交番を見つけた。
思いあまった私は、中年の巡査に、
「どこかに安い宿屋はないでしょうか?」
と唐突に尋ねた。
「宿屋。そうねえ。あそこだったら泊めてくれるかも知れない」
頭の先からつま先までじろじろ眺めながら、教えてくれたのが柚木という宿だった。

 柚木は昔ながらの商人宿という風情だった。
格子戸を開けて入ると土間で、磨き込まれた上がりかまちがあった。
じいさんが現れたので、
「泊めてくれますか?」
と尋ねると、
「いいですが、食事はしますか?」
と聞く。
「お願いします」
じんさんは困ったように、
「たいしたものは出ませんが」
と言った。
じいさんの後ろにばあさんが立っていた。
「かまいません」
上がりかまちに腰を下ろして靴を脱ぎながら見上げると、二階の廊下がせり出していて、並んだ部屋は真ん中に楕円の硝子の入った障子だった。
足をすすぐ湯は出なかったものの、江戸時代の旅籠に紛れ込んだようだった。

 障子を開けて部屋に通された。
隣り合った部屋とは襖で間仕切りがしてある。
天井の低い畳敷きの部屋には布団が畳んで積んであって、小さなこたつが建ててある。
四角い傘に白熱灯が点っている。
「寒いのでこれも」
と差し出されたのはどてらだった。
また、別のおじいさんである。この宿には年寄りしかいないらしい。
「今、食事の支度をしますから、風呂でもどうぞ」
と言うので、また、黒光りした階段から一階の土間に下りた。
「風呂はこちらです」
と言われた土間の隅は真っ暗である。
真っ暗な中を進んで行くと壁にぶつかる。
「木戸を開けてください」
と言われるので手探りすると、確かに壁に小さな木戸がある。
木戸を開けて、私は、はっと閉め直した。
木戸の向こうは煌々と光に溢れたタイルの床が見えたのである。
おそるおそるもういっぺん開けると、湯船も洗い場もあって、二人ほどの入浴客もいた。
そこは銭湯の洗い場の奥の木戸だったのである。

 私はかがんで木戸をくぐって、洗い場を通り抜けて、脱衣して、改めて洗い場に戻った。
むやみに熱かった。
銭湯はこの家が経営しているのだろうか。

 部屋に戻るとこたつの上に小鉢が並んでいた。
質素だが、キャベツにフライに蟹とわかめの和え物なんかもついている。
酒でも飲もうと思って、念のためビールにしておいた。
凍っているのではないかと思うほど冷めたかった。

 何だかよく分からないまま、酒を追加することもなく、食事を終えた。
貧しい学生にふさわしい食事である。

 じいさんが用意してくれたどてらを羽織ると、しばらく干したことのない湿気でずしりと重たかった。

 何かもの足りず、寝るには到底早すぎて、私は暗い街に出た。
何もない街である。
数軒歩いて、小さなスナックのような、食堂のような店があった。
そこだけは嬌声が聞こえていたが、私が入るとぴたっと止まった。
肴を一品とって、水割りを二杯、酒を二合飲んだが、店内の視線や空気にそれ以上耐えきれず、切り上げて宿に戻った。
翌朝、宿の勘定するとき、驚いて聞き返した。
「ビールもとりましたよ」
「それも入っています」
宿の勘定は、水割り二杯と酒二合より安かったのである。
あの旅籠は果たして実在したのか、狐に化かされていたのだか、今もって分からないのである。
化かされていたとしても、不愉快ではなかった。
写真:安藤広重「東海道五十三次」から「水口」の図。障子に「木賃宿」と書いてある。







湯沸かしポットは海外旅行の必需品
 海外旅行で必ず持って行く物に湯沸かしポットがある。
海外では日本のように部屋の隅で玩具のような湯沸かしがあって、どこでも湯が調達できるということは多くはないからだ。
それ以前に湯がなぜ必要かといえば、水道の蛇口からの水をそのまま飲める所が少ないこともある。
湧かせばたいていの水はそのまま口に出来るからである。
ミネラルウオーターを買えばいいようなものだし、げんに行く先々で必ず炭酸ガスなしのミネラルウオーターを仕入れるのだが、湯も必要なのである。
その際、べつにビンやペットボトルに入ってなくても構わないだろうと思うからだ。

ほかにも湯が必要な訳もある。
海外で日本食はなくとも、私は別段困ることはないのだが、緑茶であれ、玄米茶であれ、ほうじ茶であれ、茶だけは飲み慣れた物を飲みたいのである。
これは冷ましておいて、さらには空いたペットボトルに詰めて移動中のために冷蔵庫で冷たくしておくことも出来る。
たまにはインスタントの味噌汁を飲むことだって考えられるではないか。

 デパートの旅行用品売り場にあるような某電機メーカー製の数千円程度の小さな簡単なポットである。
中にプラスティックのコップも収納されているが、器はホテル備え付けの硝子製でも差し支えはあるまいと思うからそれほど心配しない。
数千円でも優れもので百ボルトでも二百ボルトでも対応できるようになっている。
ただし、コンセントの差し込みの穴は地域によって違うから、これは何種類か持って行くことになる。

 これがとても使いやすいので、私は普段自宅の書庫(物置)にも置いてコーヒーのインスタント・ドリップなどの用途に当てていた。
とはいうものの、さすがに毎日使えば太陽の限度を超えるらしくて1年ちょっとで壊れた。
さほどの負担でもなかったからすぐに買い換えたが、自宅での使用は諦めることにした。

 次に海外に出掛けることになったとき、電気ポットがどうしても必要だと考えて、しかも、とっくに買い換えていたのを忘れていて、また、一台買ってしまった。
荷造りをする段になって二台あることにようやく気づいた。
仕方がないので、海外に行く知人に便利さを協調して無理矢理もらってもらったことがあった。

 実をいうと同じメーカー製の電気釜(鍋)も買ったことがある。
登山用の小さな角形コッフェルにヒーターが付属しているだけの、これまた簡単なものだし安価だった。
これさえあればどんな安宿でも自炊が出来て餓死することはあるまいと、私は考えたのだ。
けれども、これは二度目のスペイン旅の際の最終日に寝坊をして、飛行機に遅れそうになって、うっかりホテルの洗面所に置いてきてしまった。
大げさな自炊をすることも殆どなかったし、いざと慣れはEPIガスの極小の山用バーナーだってあるから、これは買い換えもせずにいる。

 しかし、湯沸かしポットだけは必ず旅行鞄の隅の押し込んで出掛けて行くのが習いとなっている。
そうして、現地のホテルでいそいそと玄米茶などを淹れ、一息入れたり、あら熱を取って濃い目の小便色になった茶をペットボトル二本ほどに詰めて冷蔵庫で冷やして悦に入っているのである。







2008/10/27 13:45:42|本・読書・図書館
旅先の本
 旅には必ず本を持って行く。
往路、復路、滞在中と考えて、一冊が二冊、三冊となってしまうことも少なくない。

そうして、何を持って行くか考えるときが一番楽しい。
現地に因んだものか。
その中でも文学作品、歴史物、美術物……、それとも、旅先には無関係でも、ゆったり気分を和ませるような読み物、あるいは、この際、思索を深める古典的な名著等々。
車窓に持たれて、あるいは宿のベンチでくつろぎながら冷たいビールでも傍らに置きながら……の光景を想像してはにんまりしながら、棚から出しては積み上げ、引っ込めては、また、取り出す。

 ところが、旅先でじっくり本を読んだ試しはない。
持って行った物が荷厄介になるばかりか、現地の本屋でも興味を惹かれるものがあれば買ってしまうから、さらに嵩と重量に悩まされることさえある。
スペインに行ったときにも同様のことがあって、結局、旅の終わりに、現地で仕入れた本ともども荷造りをして日本に送ることにした。
それも船便で。
送った荷物は、送ったことさえ忘れて、ルーズさに諦め果てる半年後に、包みの角角がすり切れてようやく到着することになった。

 折角選びに選んで持って行った本を、旅先ではなぜ読まない(読めない)のだろうかと考える。
飛行機は飛行機で照明の加減とか飲み物だ、食事だで、意外にまとまった時間を本に没入することは出来そうで出来ない。
乗り物に乗れば、車窓から眺める風景や街並み、人々の暮らしの方が、書物の中の文字よりも面白いに決まっている。いくら眺めていても見飽きることはない。
目に焼き付けておかなければ損をしたような気さえする。
宿へ着けば着いたで、さんざん町歩きをした疲れもあって、ベッドかバスの中で延びている。
さもなければ、言葉は分からないながらも、現地のTV番組でお国柄の違いに目を瞠ったり、呆れたりしているのが意外と楽しいのである。
国内の旅でも、あか抜けないCMでもローカルニュースが却って旅情を誘うこともある。
現地に関わる読み物や歴史、芸術ものでも、関心が深ければ深いほど、出発前に読みたくなって読んでしまっているから、今さら、本物を前に絵葉書を見るような行為はする気になれない。
結局、一冊まるまる読み上げて、その印象が旅の印象と重なり合ってくるようなことは殆どない。

 毎度、同じ事を繰り返す。
読まない(読めない)のなら、本など持って行かなければよさそうなものだが、それも不安である。

 人間、常に隙間のない時間を過ごすようなことはできそうでできないものである。
写真:グラナダの坂道にある小さな本屋で買ったロルカの「カンテホンドの詩」







2008/10/26 21:15:30|スペイン
カフェ・ソロ
 どこかにも書いたことだが、スペインの軽食居酒屋のバルなんかで出るパンのまずさには驚いた。
もっともこのことは10年もスペインに留学していたギタリスト相川達也氏の意見は違っていた。
「食べてるとそうでもないですよ」
そうかなあ。

 「テ」紅茶も私にはおいしくなかった。

 私にとって、前者は、フランスパンのような、外側が堅くて中がふんわり、噛みしめれば味が出てくるという代物でもない。
もぐもぐやっていると粉になるか、口の中の水分をみんな吸い取ってしまうかのような、スペインの広大な荒野を思わせる乾きぶりである。
パンの大きさをした乾パンだと思えばイメージ的には近いかも知れない。
私は、イエス様や彼に従う使徒たちが食べていたのもこんなパンだったのかもと思ってしまった。
そのパンがテーブルの上に「食べたいならどうぞ」というように無造作に置かれている。

 現地の人はどうかと眺めてみると、やっぱりおいしいと思わないのか、卓上のパンをむしっては遊びのようにちょこっとつまんで置いてしまっている。
米を使った有名なパエリアはおかずだが、これやシーフードのフリット(フライ)、アサドなる焼き肉、ニンニクとトマトとタマネギさえ入っていればあとは何でも入れてすりつぶしたガスパチョ……こういったうまい副食が豊富だから、こっちでお腹の七割をふさいで、二割をビーノ、一割をパンという程度で、どっちが主だかわからない。

テの方も口に含んで、昔パチンコの景品(換金用の)をそうと知らずに呑んでしまった時のことを思い出すほど、乾きすぎて香りも飛んでしまっていた。
同量かそれ以上のレチェ(ミルク)を入れて流し込む始末だ。

 ひきかえコーヒーはうまい。

 二度とも駐車中の車内のような気候の真夏に行ったから、水分補給が出来ないとそれこそ命にかかわるという感じがした。
移動中はホテルでこしらえた日本茶を小ぶりのペットボトルに入れて冷蔵庫で冷やし(あるいは冷凍させて)持ち歩いた。
食事に入れば、ワインかビール、さもなければガス抜きのミネラルウォーターだ。

 コーヒーも飲みたいが、最初アイスコーヒーなんて軟弱な飲み物がスペインにもあるだろうかと心配していた。
会話本なんかをみるとコーヒーと氷を意味するカフェ・コン・イエロというのがある。
これにミルクも欲しければカフェ・コン・イエロ・コン・レチェとでも言うのだろうかと悩んだ。

 思いあまったあげくカフェ・コン・イエロとやってみたら、氷を一杯にしたグラスにデミタスのホットが出てくる。
ふむふむ自分でやれってかと気をよくしてアイスコーヒーにありつけた。
耳を立てていると、現地の人はコンなんてわざわざ言ってない。
カフェ・イエロで済ませている。
この伝でエスプレッソはカフェ・ソロ、カフェオレはカフェ・レチェでいいことも分かった。

 で、灼けたフライパンの如くあつい外気だが、バルに腰を下ろして呑むカフェ・ソロが実にうまいことを覚えてからは、もっぱらこれになった。
どろりまでいかないが、濃いめのやつが、エスプレッソ用の下が狭くなって二段になっているカップに入ってくる。
ここに小さめなブラウンシュガーを一、二個沈める。
スプーンで砂糖を溶かないようにさっと2回しほど混ぜる。
で、ちびりちびり啜っていく。
時折傍らのアグァを含みながら。舌に残る深入りの芳香がたまらない。
啜っていくと次第にシュガーの味が出てくる。
啜れば啜るほど甘くなってくるが、エスプレッソ用の器である、甘いなーと感じる時には終わってしまう。この甘さも体に心地よい。

 二段になった底には蜜のようにとけたシュガーが溜まっている。
挽いたコーヒーの粉がひっかかっていることもある。
ちっぽけな器だが、気取ったコース料理のフィナーレのようなあっけなさではない、情熱の元のコーヒーを呑んだぞというような充足感がいつもあるから不思議である。
気候あるいは食べ物と合っているとしかいいようがない。
ここはやっぱりアフリカに突きだした欧州のさいはてである。

 マジョルカ島のパルマの海浜を道路越しに眺めながら、ようやく暗くなってきた夜の十二時頃、膚の色が白だの黒だのとりどりの人に交じった喧噪の中、一杯のカフェ・ソロは堪らなくうまかった。
お替わりをしようとは思わない。
でも、明日も必ず呑もうと思う。
カフェの背後には壮大なカテドラルがライトアップされて丘上に浮かび上がっていた。 (二〇〇四・五)
写真:ロンダのバルの前で







2008/10/25 12:06:10|スペイン
セゴビアの或る午後
 マドリードからセゴビアへはバスが安いし早いと分かったので、ノルテ駅のバスターミナルから乗ることにした。

 乗り場はすぐに分かったものの切符売場が分からない。
職員もいない。
近所の人に聞いたら
「エスタンコで買える」
と言うが、窓口は開いていない。
発車の十分前になってようやくカーテンが開いた。
分からぬわけだ。
片道七六五ペセタ。

 今度はどのバスかが分からない。
スペイン人の乗客もてんでんにバスの前に行っては、宛先表示を見て半信半疑というところ。
レーン表示とか行く先表示とか時計とか何もない。
年配の職員に聞いても、自信なげに
「今からここに入車してくると思うんだ」
という程度。

 待ち時間に売店でトマスクックの地図を買う。
八〇〇ペセタ。
不安だったがバスが来た。
PARA SEGOVIAともなんとも書いてない。
表示されているTARAVELAという地名を地図で確かめようとしたが見つからない。

 運転手(兼車掌)がドアのところで、レシートみたいな切符を眺めてはちょこっと破り目を入れる。
これが改札だ。

 洒落た内装のバスだが、シートのリクライニングがいやに固い。
ベンツ社のバスというのに初めて乗った。
さすがに頑固な作りだと感心する。

 クーラーが効きすぎて寒い。
Tシャツの上にカメラマン・ベストを着込んできてちょうどよかった。
大きめのディ・パックに三脚、交換レンズ。水のペットボトルも首から下げている。
カメラマンだ。
さあ撮るぞという感じ。
日本人は私一人。
車内はとても静かだ。

 セゴビア。
小さな街。
バスターミナルも薄暗くもの淋しい。
バカンス・シーズンだ。
地図と街並みを見比べてみると、一q四方ほどしかない。
十分歩いて回れそうだ。

 ターミナルの前の道路を横切って、フェルナンデス・ラドレラ通りをローマ水道橋を目指して上って行く。
すぐ左手にサンミャン教会。
一一一一年から一一二四年にかけて造られた、セゴビアでも最も古い教会だ。
カスティーリャ地方に定着した初期ロマネスク様式の典型といえる教会で、回廊の列柱に特徴がある。
四角いドームとモサラベ様式の塔が付属しているのもユニークだ。
この街や郊外には数軒おきに可愛らしいロマネスクの聖堂がある。

 サンミャンの背後のなだらかな丘陵に、街並みが広がっている。
家並みのあちらこちらに教会、修道院の尖塔やドームが頭を出していて、街並みに立体感を与えている。
『奇蹟』や『マニアナのドン・ファン』の詩人アントニオ・マチャドが、高校のフランス語教師としてこの街を訪れたのは一九一九年だった。

   セゴビアのある午後、聖書を読むために
   エレスマ川のアラメダ辺りを散歩する。
   私の目の足場を探しに
   眼鏡ケースに手を延ばす。
   私のまなざしから突き出たバルコニー……


 伝説によると、この街は紀元前一〇七六年(!)にノアの曾孫、エジプトのヘラクレスが建てたと言われている。
けれども、確かなのは、今から二〇〇〇年ほど前、ローマ人がやってきて、先住のケルト人と争ったことだ。

 ローマが弱体化するとともに、同盟軍の西ゴート族がこの地にやって来た。
去年、ガイドのアナさんが
「私の先祖は西ゴートだと思うんです」
と言うのでたまげた、あの民族だ。
ローマがカトリックに改宗したあと、セゴビアは司教座都市となった。
この地域のカトリックの中心地となった。
けれども、西ゴートの遺跡はほとんど残っていないようだ。

 やがて、イスラームの来襲。
彼等の遺したムーア風の柱頭はそこここにある。
一〇七二年にはトレドのイスラーム王・マルマムンがセゴビアを襲い、水道橋の一部を破壊したが、ヘロニモ会の修道士が修復をした。

 一〇八八年、アルフォンソ六世の婿ライムンド・デ・ブルゴーニュ伯爵が、セゴビアに再植民をし、十三世紀にカトリックの最盛期を迎える。
『セゴビアのすべて』(マリア・ヘスース・エレロ・サンス著)によると、三十近いロマネスクの聖堂が建てられ、そのうち二十は現存する。

 十四、五世紀のセゴビアはキリスト教徒、イスラームのムーア人、ユダヤ教のユダヤ人が共存する、民族の〈るつぼ〉のような街だったようだ。
ムーア人は建築に従事し、修道院やセゴビア城アルカサル、また、多くの家を彼らのムデハル様式の意匠で飾った。

 水道橋の足下の広場にはフィルムや皿、金属工芸品などのみやげ物の店がある。
観光スポットだから人出も多い。
あいにく修復のために大きなブルーシートが広場に面した一番の見どころに垂らされている。
これでは正面から写真を撮る気も起きない。
もっとも去年のスペイン旅の反省を踏まえて、今回は絵葉書のような写真を撮るのは止めようと、私は固く決心している。
風景はきれいで当たり前。
けれども、思い出にも感興の種にもなりはしない。
人間、土地の暮らし、それらの雑多なディテール、今回はこういうものをなるべく撮りたいと思っている。

 間もなく道の突き当たりに、花崗岩で造られた二層アーチ式のローマ水道橋が見えてきた。
昔の呼び方では〈プエンテ・セカ〉と言ったようだ。
一世紀後半、トラヤヌス帝の代(最近はネルヴァ帝の代だとする説もある)に造られ、タラゴナと並んでスペイン最大のローマ遺跡だ。
フエンフリア山脈を源とする水が今も水路を流れているという。かつては一秒間に二十リットル送水すると制限し、いったん橋の傍らの水槽アルメナラに溜め、次の「石の家」でゴミを取り除いてから、市内に配水したという。
全長八一三m、高さ二八・五m(最長部)。

 このような見事な水利施設によって、アンダルシアはローマの穀倉地帯となった。
開発された鉱山の産出品とも合わせると、アンダルシアは豊かな大地だった。
この経済力を背景にクインティリアヌス、マルティアリス、ルカヌス、セネカや偉大な皇帝ハドリアヌス、トライアヌスなどの才能を、スペインは首都ローマに送った。

 見上げると、橋脚に聖母マリアと聖セバスティアンの像がはめ込んである。こういう像があるとは、これまでいろんな水道橋の写真を見ても気がつかなかった。

 せめて高いところから橋の全貌を眺められないものかと、左手の階段を上っていく。
悪魔が築いたと言われるのも無理からぬ規模だ。

 昔、ファニーリャという水汲み女がいた。
あんまり仕事がきついので「もしも家まで水が届いたら、悪魔に魂を売り渡してもいい」とつい口走ってしまう。
それを聞きつけた悪魔は水道橋の建築にかかる。
彼女は「でも、明日の夜明けまでに仕上がらなければ、魂はあげない」と付け加える。
言ってしまったものの、後悔したファニーリャは一晩中神の許しを請う。
悪魔の普請は夜明けまでに間に合わず、彼女は魂を売り渡すこともなく、アソゲホの市民が最後の石を積んで仕上げたという。

 さらに上る。
見下ろすと広場を取り巻く古い家並みの屋根が素晴らしい。
オレンジや黄褐色の瓦パンタイルに煙出し、白壁。どれひとつとして同じかっこうの家はない。
壁は細かい文様で埋め尽くされている。
型押しをしたように見えるが、ほんとうはムーアの職人たちが漆喰が乾かぬうちに文様を削りだしていったものだという。
円形がずれながら幾重にも重なった、複雑な文様である。
窓毎の緑色の手すりには真っ赤な花々。
家と家との間には隙間もない。通れるのは猫ぐらいなものだろう。
ここはやはりイスラームでもある。

 さらに上っていくと、歩いてきた街並みからバスターミナルのあたり、さらにはその背後に緩やかに起伏しつつ広がる沃野(ベガ)が一望できる。
起伏の前面には家々が張りついている。
その後ろのなだらかな斜面から遙か彼方まで真黄色のじゅうたん。
ヒマワリ畑だと気づいた。
途中のバスの車窓からも目にはしたが、収穫に入っているところもあった。
季節外れかとがっかりしていたから、思いがけなく広大なヒマワリ畑には感激した。
いい写真のポジションはないものかとさらに高く上る。

 振り返ると、眼下の左手には古い建物が肩寄せあって立っている。
右手にはみやげ物屋。その先はさっき歩いてきたアーケード。水道橋のアーチを額縁にして、谷を挟んで丘が広がり、ぎっしりと立ち並んだ民家や古い建物が見える。
道路はこの丘をよじ登り、平原の彼方に延びている。

 古い建物を容赦なくぶち壊している数人の労務者がいた。
煉瓦や大理石や石灰、漆喰の残骸が溜まっている。
黙って見ていると、面構えの物凄いパブロが
「なんか文句あっか。こんな建物はいくらでもあんだよ。
あんたらがのすたるじー感じるのは勝手だが、壊して改築していくところもなきゃ、住んでいるもんは堪らんよ」
と言いたげな顔でこちらを睨んだ。

 街の裏手の公園の木陰で一休み。
水を飲み、荷物を結わえなおす。

 もう午後も1時半を過ぎただろうか。
腹も減ってきた。今からディズニーが「白雪姫城」のモチーフにしたセゴビア城(アルカサル)へ行くのだから、食事をしておくかと思っているうちに、壮大な純白のカテドラルを見上げるマヨール広場に出た。
観光案内所で英語版の地図をもらって、眺めのいいカフェテラスに座る。
その途端、さっきの公園にペットボトルを一本忘れたことに気がついた。
取りにいくも物憂い。
少し残っているボトルももう一本ディパックの中にあると諦めた。
ところが、これが苦しみの始まりとなることを、私はまだ気づいていなかった。

 しっかり食べるか軽くするか、僕は迷っていた。
ビールをとってメニューを見ると、例によってバラエティに富んでいて、それに僕の未熟なスペイン語もあいまって、迷うこと迷うこと。
結局、無難な「今日の定食」に決めた。
「スープはガスパチョで、それにレンズ豆炒めで……」とやりはじめたところで給仕人カマレーロが「シー・セニョール」と立ち去ってしまった。
気の早い男だ。

 料理が来てびっくり。
ガスパチョは大振りのラーメンどんぶりくらいある。
レンズ豆は大皿に山盛り、ベーコンを合わせて炒めてある。
私はすぐさま「痛風にはどうか?」と考えてしまった。
このところの癖だ。
ガスパチョは量が多いものの成分的に合格だろう。
豆もまあよかろう。
ベーコンもみんな食べつくさなけりゃいいだろう。
それにしても、これ以上料理を頼む勇気はない。

 私は中ジョッキ二杯のビールを飲んで、ひたすらフォークにグリンピースをすくっては口に運び、ちっとも減らないガスパチョのどんぶりを抱えてすすり、ため息をついた。
まずいわけではない。
カフェテラスにしてみればうまい方だろう。
今回の旅行の食の困難さが思いやられた。
パンは乾パンのようで相変わらずまずい。
イエスもムハンマド=マホメットも、この石のようなパンをむしって(砕いて)食べたのだろうか。
あごが強くなりそうなパンだ。

 最後のスペイン・ゴシックと言われるカテドラルは真っ白であくまで青い空に映えて真に美しい。
中に入っても実にお宝の多い聖堂である。

 北側廊の礼拝堂の多色彩色の木彫の衝立は一五七一年のファン・デ・フニ作。
フランドル派のアンブロシオ・ベンソンが十六世紀に描いた三連の『十字架降下』もいいし、彼の『梨の聖母』はもっといい。
若々しいが堂々とした気品のあるマリアが美しい。
背後に見え隠れする風景は、どことなく坂の途中で見たセゴビアの市街に似ていた。
グレゴリオ・フェルナンデスの彫刻や、スルバランの弟子でセゴビアの人イグナシオ・デ・リエスの絵画コレクション、同じくセゴビアのアロンソ・デ・エレラの絵、サバティーニの大理石の衝立。
ステンドグラスやタペストリーもフランドルのもののようだ。
タペストリーはヘルメスと奏楽する婦人たちなど、時代を反映した異教的なテーマや、ムーア人と戦うゴートの王たちだろうか、世俗的なデザインのものが多い。
修道院の大部分は十六世紀に壊された旧カテドラルからの移築だそうだ。

 カテドラルを観て、「女王」とあだ名される、鐘楼の美しい十三世紀ロマネスクのサンエステバン教会を横に眺めながら、車一台通るのがやっとという石畳の道を城へ向かう。

 スペインの食は割合味が濃い。
レンズ豆の炒め物は塩辛いと思ったが、案の定ひどく喉が渇く。
予備の水も飲み尽くしてしまった。
バカンスシーズンの日曜日、水を買えそうな店もない。
石畳の道はゆるやかな勾配がある。
腕を組んで前を歩いていたカップルが、目の前でキスを始める。
すり抜けていく車を避けながら……。

 セゴビア城(アルカサル)が見えてきた。
カステーリャ古典様式の傑作だという。
大小高低取り混ぜて四本も五本もある尖塔は黒っぽいスレート葺きで、まことに形がいい。
シルエットが優美とか言われるが、優美というよりは可愛らしい城砦だ。
だからこそディズニーがシンボルとしたのだろう。
子供のころ、隔週の金曜日テレビにディズニーアワーがあった。
タイトルバックはこの城のシルエットを中心に、美しい花火が夜空一杯彩っていたことを思い出した。
BGMはもちろん「星に願いを」だった。

 ディズニー・アワーだけではスペインに礼を失するだろう。
セゴビア城は偉大な女王イサベル・ラ・カトリカにとっても重要な城だ。

 王位継承戦争で不和だったエンリケ四世と妹のイサベルが、四年ぶりに再会、和解をしたのも、この城だ。
一四七三年のクリスマスのことである。
新たにローマ教皇に就任したシクトゥス四世が送った枢機卿ロドリーゴ・ボルジアのお膳立てだった。
後に教皇アレクサンドル六世として、息子のチェーザレとともに、悪名を轟かせるロドリーゴだが、当時は故国スペインの四分五裂の惨状に心傷める気持ちがあった。

 兄妹は城で仲むつまじく数日を過ごし、兄は妹にここに住む許可を与える。
新年になってやって来たイサベルの夫でアラゴン王・フェルナンドとエンリケは、義兄弟の対面を果たした。
イサベルを支持する一派はもとより、セゴビアの民衆も事の成り行きを歓迎した。
いや、民衆の支持はセゴビアに留まらなかった。
カスティーリャ全土にイサベルを待望する空気が広がっていった。
優柔不断なエンリケ、また、ほんとうに彼の子であるかどうか明らかでないファーナ王女がカスティーリャの王位継承者となるよりも、結婚によってアラゴン王国と繋がり、先王フアン二世の娘であるイサベルを正統とする動きが急となった。

 兄妹の和解から一年後の十二月十一日、エンリケは父フアン二世と同じ四十九歳でこの世を去る。
この死に疑惑があるとする歴史家もいる。

 十二月十三日早朝、白の喪服に身を包んだイサベルは、兄の霊に祈りを捧げた後、騎乗姿で城門を出る。
そこにはトレド大司教、セゴビアのカブレーラ市長を始め聖職者や貴族達が彼女の登場を待ち構えていた。
王室記録官はこう書き留めている。

 やがて、馬にまたがった女王が登場された。威厳のある美しさ、中肉中背、金髪で色白、青緑の瞳、快活できびきびした動き、整った目鼻だち、そして温かみのある堂々たる雰囲気を備えた女王は、時に二十三歳七か月と二十日であった。

 城から坂を三百m下ったサン・ミゲル教会に臨む中央広場には、前夜、突貫工事で仕上げた戴冠式の祭壇が設けられていた。
馬から下りたイサベルは三段の階を上り、城とライオンを象ったカスティーリャとレオンの紋章のついた玉座に進む。
セゴビア中の鐘という鐘が高らかに打ち鳴らされる。
長かった中世に終わりをつげ、スペインの近代の始まりとされる日である。

 夫フェナンドは自分の頭越しのこの妻の即位にかなり狼狽して、フランスとの戦場から血相を変えてセゴビアに駆けつけたと言われている。
彼がもくろんでいたのは、スペインを妻イサベルと共同統治することではなく、自らの下に一体化することだった。
が、イサベルは夫よりも一段の深謀遠慮があった。
二人の間にはまだイサベル王女がいただけだった。
もしも王子に恵まれず、イサベル王女に婿を取れば、王位はこちらに移ってしまう。
故事を引っ張りだしてまで、イサベル自身が「女」王となる方が、結局、カスティーリャのためになると考えたのだ。
そして、この判断が正しかったことがすぐに分かる。

 一方、エンリケの娘ファーナを担ぐ一派にとって、この戴冠式は到底認めがたかった。
彼らが拠ったポルトガルのアフォンソ五世は、翌一四七五年五月、二万人にも及ぶ大軍を率いてカスティーリャの国境を突破する。スペイン王位継承戦争の始まりである。

 イサベルが完全にカスティーリャ女王としてスペインをまとめるのは、夫のフェルナンドがアラゴン王に即位した一四七九年一月を経て、七月の継承戦争和睦の時を待たなければならなかった。

 かつてのアルカサル(セゴビア城)は敷地全体が公園になっていて、入口には迎賓館みたいな門がある。
門の傍らでヒターノ(ジプシー)のばあさんが大きなレースの肩掛け(マンティーラ?)を広げている。
カテドラルの前にもいた。
南部の名産でレースがあることは知っていた。
去年、マジョルカでもパロマの海岸通りにレース屋を見かけた。いいものなのだろう。
けれども、カルメンのように、高櫛にマンティーラを被って自分の男を見に闘牛場に行くわけでもない。
あんな大きなレースは使い道がない。ばあさんはこちらを目で追いながらレースを広げてみせて
「ハポネッサ、手にとってご覧、いいもんだよ。安いよ。手作りだよ」
なんてことを言って、かなりねちっこい。

 四角なボリュームのある建物が正面ファサードで、とんがり帽子を隠している。
十二世紀建設、以後増築というが、このファサードは増築部分なのだろうか。
あまりに無骨に過ぎる。
ガイドブックを見たら、前にたち塞がる建物は、十六世紀には「ドン・ファン二世」と呼ばれる牢獄だったそうだ。
とすると、正面はこちらではなくて、断崖絶壁に面した「白雪姫城」側なのだろうか。
しかし、そちらはこれといった入口もなく切り立った崖の上だ。
観光客はみな堀にかかる橋を渡って「ドン・ファン牢獄」の入口からアルカサルに吸い込まれて行く。

 城はエレスマ川とクラモレス川の合流地点の岸壁に建つ。
城もいいけれど、城壁から見渡す北東の台地、その向こうに広がる平原の眺望がとてもいい。
エレスマ川をまいて路があり、蛇行しながら古い修道院の横を通って丘の向こうに消えていく。
四角な塔を擁した小さくて素朴な教会。
中世の騎士が手ずから石を積んで築いたベラ・クルス教会だ。
右手にはバラル修道院が街道のほとりに立っている。
ローマ時代か、イスラームの時代か、それともレコンキスタの際か、崩れた石積みの遺跡が丘のあちらこちらに点々と眺められる。
豊かとか潤いとかお義理にも表現できる景色ではない。
乾き、荒廃した、埃っぽい黄土色の景色だ。
その中を今は舗装されているが、古代からの道路が蛇行しながらえんえんと延びている。
執念を感じるような光景だ。
大地にどこまでも路を刻みつけ、石を積み続ける。
ローマ以来の明るく烈しい執念だ。
あの丘の方からこの城を見れば、確かに「白雪姫城」だという外観を呈するのだろう。
けれども、車でもないかぎり、遥か彼方のあの丘まで歩いていこうという気にはならない。
眼下の岸壁は十一世紀にライムンドが造った城壁で囲まれている。

 スペイン人の団体さんも見学に来ていて、ガイドが説明している。
各部屋でかなり時間をかけて詳しくやっている。
イザベル女王の寝室というのだけはわかった。
フランドル風のタペストリーは褪色して痛んではいるが、貴重なものなのだろう。
マドリードの王宮でもタペストリーは三千枚あると豪語していたが、絶対王政のころスペインがフランドル(オランダ)を植民地にしていた名残だ。

 アジアを植民地にしたとんでもないアジア人は、日本人だけだという。
知識もなく断定してはいけないが、ヨーロッパを植民地にしたヨーロッパ人は、スペインだけなのだろうか。
その結果、プラド美術館に観るとおりスペインの美術は豊穣になった。
が、一方でスペインはヨーロッパであってヨーロッパではない、ピレネーの向こうはアフリカだなどと言われ、第一次大戦にも第二次大戦にも無関係で……。
要するにスペインは、今も昔も善くも悪しくも手前勝手な国なのかもしれない。

 王位を継承する者がいなくなった十八世紀初頭、この地に乗り込んできたハプスブルグ家は、ここに戻って来てしまったことを嫌悪していたのだろうか、懸命に〈ヨーロッパ化〉を図っていたような気がする。
眼は常にピレネーの向こうに向いていた。
スペインの複雑さを、歴史が重層的に現前していると言ったり、キリスト教とイスラーム、また、ユダヤ教との併存と言いもする。
ヨーロッパと非ヨーロッパの混在と言い換えてもいいのかもしれない。
もちろん東洋とではない。アフリカもしくはアラブとの混在だ。

 スペイン人の国民性や自他の文化に対する姿勢は、この混在を抱えて、妙な言い方だが、サディスティックなマゾヒストと言うのじゃないかと、不意に思い当たった。
スペイン映画に出てくる男どもが、平気で女を殴る。
と同時に、死ぬほど酒を飲んで、俺は駄目な奴だと萎れる。
そして、また、女に甘え、また、なぐり、また、酒……。
こんなのが多いのも頷けるような気がした。
よくこんな男に女がくっついているもんだと思うが、サディスティックなマゾヒストだからだろう。

 城壁の上を歩き回ってあんまり喉が渇くので、前庭の水飲み場でごくごく飲んだ。
スペインの水は石灰分がどうとか考えもせず腹一杯飲んでしまった。
再び古い家並みの間の石畳を町の方へ下りていく。
民家がくっつき合っている路地の一角に、陶器を商っている家がいきなり登場したり、アンティーク屋があったり、バル(軽食・居酒屋)があったりする。
ただし、ほとんどがバカンスで(あるいはシエスタで)閉まっているのですきまから覗く程度だ。

 バカンスで閉まっているのは観光地ばかりではない。
マヨール広場一帯を除いては大抵の商店が戸締めだ。
バスターミナル近くの繁華街でもほとんどがシャッターを閉めている。
ターミナルの中でさえ、開いているのはコカ・コーラの看板のあるバルと新聞売り場くらいなものだ。
夕方ともなれば開くのかもしれないが……。
結局、水を買うこともできず、トイレにもいけず、再び寒い寒いバスでマドリードに引き上げた。
写真:セゴビアの水道橋
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