新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2008/10/25 11:43:11|その他
教師としてのゴータマ−仏陀
 仏陀の事跡や人となりは断片的な言い伝えを修正し編纂した諸種の「仏伝」によってほほ知ることができる。
もちろん「仏伝」がどこまで歴史的事実を伝えているのかはつまびらかでないが、仏陀の「人間的」魅力はそこからも存分に汲み取れるように思う。

 多くの学者がすでに語っているように、仏陀を一言で形容すれば、何よりも人類の偉大な教師の一人だったということだ。

 仏陀はまず政治家ではない。

 以前から通念となっていたカースト(階級)の区別を彼は無視した。
仏教教団では身分階層の別は問題でなく、何人も平等だった。
これは学問も祭祀も最上位のバラモン階級にのみ掌握され、それ以外の者はタッチできないという階級観念とは明らかに異なる。

 けれども、ゴータマは社会改革を行い階級差別撤廃の運動を起こしたわけではない。
人生の究極的な第一義の前に立つ限り人間は平等だ、と彼は唱えたのである。

 政治はクシャトリア(王族)の手に委ねられており、出家はむしろ政治に興味を持つべきではないとした。
仏陀は孔子のように、政治のアドバイザーでさえもなかった。

 また、仏陀は哲学者でもなかった。

 彼の言葉や行動が理知的であることは確かだが、彼は、それを理論として組織づけ、体系づけるという意味における哲学者ではなかった。
むしろ、彼の態度はフィロソフィ(知ることを愛する)という「哲学」の原義に近かったと言えるかも知れない。
一冊の著作も残さず、「哲学者的」ではあるが、哲学者ではないという点で、仏陀はソクラテスに似ている。

 仏陀はまた、いわゆる「宗教家的」なタイプの人でもなかった。

 彼自身の行動にシャーマニスティックな神がかり状態が皆無であることは当然のことである。
また、周囲の人々も、彼を神と人との媒介者であるというような目では決して見ていなかったようだ。

 彼は神の意思を語り、その恩寵と罰とを説くという意味における予言者的な宗教家でもない。

 創造主、救済主、律法者、俗世の破壊者などの性格を保有した「神」の存在を認め、その啓示を人間に伝えることが、宗教的だと呼ばれるのなら、彼はむしろ無神論的だと言ってもいい。

 仏陀は殉教者でもない。

 悲劇的な事象が皆無ではなかったにもせよ、彼の一生はおおむね平穏だったと言えるだろう。
自分でも語ったとおり、彼は細々と目立たず生き続け、けれども、確かに彼岸に通じる「古仙人の道」を発見し、そこを歩む者だった。

 彼が神格化され、超人的にとらえられるようになったのは数世紀も後のことである。
同時代、あるいはこれに続く時代の「仏伝」の作者たちも、彼を、非凡な「人間」、すぐれた先達として以上には考えてはいなかった。

 彼の性格は、数々の「仏伝」の伝えるように、温和で包容的だった。
これは彼の貴族としての出自によるものかも知れない。
多くの仏像に見られる「施無畏」(畏るるなかれ)の印に象徴されるように、人々は彼に会い、共にいるだけで温かさと安心を感じたという。
つまり、彼は人々が自己の全存在を託し、安堵を感じ得る対象−「帰依処」であったのである。

 彼は饒舌を弄し、あくまで相手を説伏せずにはおかないというタイプでもない。

 むしろ、静寂を守り、相手の質問にも答えず沈黙を続けたことも多かった。
答えることで却って相手の誤解や迷いを助長し、何の利益も与えないことを恐れたからである。

 悟りを開いた当初の仏陀に、説法をためらうような、否定するかような、否定するかのような姿勢が見られたのも、ここに由来するのだろう。

 H・ベックは、

仏陀の場合は何を語ったかよりも何について語らなかったかの方に重要性がある、

と述べている。

 仏陀はまた、相手に応じて法を説く才能があったとも言われている。

 「応病与薬」とか「対機説法」と言われるのはこれである。
常識の高い知識階級にたいしては、彼は論理的なことばを用いて語りかけた。
そうでない者には、具体的で巧みな比喩や逸話に彩られた話を多用したと言われる。
仏陀は自分に向かって自分と同じ言葉で話している、と聞く者に感じさせたという。

 また、時にはまったく言葉によらない「説法」も行った。

 言葉によらない説法、それは仏陀の全人格からほとばしる説法とも言える。
前にも述べたように、黙して語らなかったこともある。
相手の体を動かすだけ、行動させるだけで導いたこともあるようだ。

 赤子を亡くした母親の悩みを聞いた仏陀は、彼女に芥子の実を二三粒貰ってくるよう指示する。
ただし、「いままで死者を出したことのない家から」という条件づきである。
仏陀による奇跡を願う彼女は、村中の家々をたずね回る。
その結果、どの家も「死」と無縁でないことを悟る。
死んだ赤子が生き返ったわけではないが、半狂乱だった心境は鎮静し、彼女はすがすがしい気分を得ていた。

 十歳の我が子ラーフラが、遺産相続を仏陀に求めた際、彼はただちにラーフラを森に伴い、剃髪し出家させた話も伝わっている。
これは、子供に残すべき自分の「遺産」とは「法」でしかない、という仏陀の不退転の意思を示したものだろう。

 峻厳さは自己に対しても変わらず、弟子たちに向かい、自分を尊敬する余り自分の発言をうのみにしてはならない、試金石にかけるよう吟味せよ、とも語っている。

 このような仏陀自身の性格は、ある点において宗教らしくない宗教であり、それが却って魅力にもなっている仏教にも反映しているよう思えてならない。

 仏教には一度も宗教戦争らしきものがなかった。

 仏教はあくまでもそれ自体が平和な精神生活、態度として、人々に受け取られていた。
悪く言えば微温的であり、一方で極めて包容性、寛容性に富む宗教だった。

 前にも述べたが、本来の仏教には宗教教団によく見られる中央集権的な階級制はなかった。

 親鸞の「御同朋」にも似た「四方僧」の考え方は原始仏教にもあった。
地域や階級や長幼にとらわれず、あらゆる四方の者は全て同一資格で「僧伽サンガ」に属した。

 僧伽は強力な統率者も持たなかった。

 仏陀が臨終に際して教えたように、「己のみがともしび」であった。
比丘たちは各々自ら信ずる「法」により、仏陀の跡を追おうと努めた。
権威を認めるとすれば「法ダールマ」だけであり、歴史に残る一個人などではない。
いわば、各々が誠実な道を行くことのみがルールであった。
厳しい罰則を伴うドグマや世界を支配する神が信徒の頭上からのしかかっていたわけでもない。

 中央から何の統率も受けない各地の比丘教団が、アショーカ王の時代には一八〜二〇部派に分かれていたという。
これは争論の結果や相違からというより、仏教の根本的な在り方を反映していたと言える。

 また、比丘の組織以上に俗人の信徒の団体は自由だった。
仏陀は、改宗の必要もない、各々の信仰をそのまま続けて構わぬとまで言った。
ただ、人としての誠実な道、奉仕(布施)、非暴力というような簡単な戒律を守ることのみが、信徒には求められた。

 このような個々人に根ざした仏教教団の紐帯は一見ルーズなようだが、コーンズの言うように人類最古、最長の「団体」であった。
現在に至るまで、多様な現れを容認する仏教は、仏陀という偉大な教師の下に存在した素晴らしいスクールだったと言えるだろう。(1988)
写真:ローカヤスターラーム寺院(タイ)








2008/10/25 11:31:01|その他
女性性の意義
 下に車輪のついた枠につかまってゆっくりゆっくり歩いていた高齢者に、介護の人が優しく話しかける。
かなりの年配のご婦人の介護者である。

 「免許証が出るかな?」

 高齢者、一瞬とまどっていたが、「歩行免許」だと悟って、すぐに苦笑して、

 「それはどうだかな」

 すると介護者、優しい甘い声で高齢者にささやくように言う。

 「それじゃ、うんといい特別な免許が出るように言っとくからね」

 女性はいくつになっても、sexalなもので男性に接しているのである。
そして、それが男性に良き癒しとなっているのである。

 現に、ほんの五分ほどたってすれ違ったとき、件の高齢者は、たった一人でかなりしっかりした足取りと速度で病室へ戻っていくところであった。
さっきより心なしか顔の色つやもよく、かすかな微笑みさえ浮かべて……。

 女性のsexalityには肉体的にも癒し効果があるのは間違いない。
この年輩の介護者だけが特異なのではない。
若くかわいらしい「看護士」であってもしかりである。
患者たちのと彼女たちとの、見ようによってはべたべたしたやり取りは、実は医療行為の一環ではないかとさえ思える。

 広げて考えてみて、素敵でいい仕事をしている女性の多くは、sexalityを活用しているのではないだろうか。
一言に「男勝り」などとくくってしまうが、観察力の欠如と言わなければならない。

 こういう効果を意識せず、同性からも異性からも、「媚び」だとか「卑屈」だとか、果ては「差別」だとか女性の「無自覚」だとかいって、いちがいに唾棄するのはもったいない話である。
あるいはこういう女性性の意義を指摘するとセクシャルハラスメントだとか言われるのも心外なことである。

 「看護婦」さんを「看護士」さんと言い換えたのも、詰まらぬさかしらのなせる業のように思う。







2008/10/24 20:45:06|甲斐の夜ばなし
おひめ狂乱
 天保(一八三〇〜一八四四)の頃のお話しです。
甘利山の麓の大草の村に貧しい夫婦が住んでおりました。

 女房のおひめは貧しい山の村には珍しい美しい女で、しかも気の浮いた所があって、所帯を持ってからも昼日中言い寄る若い者を引き入れては睦んでいたということです。

 そのうち村役人の一人がおひめの容姿にぞっこん惚れ込んで、金品を贈ってはおひめに取り入ったのでございます。

 貧しい暮らしが味気なく、夫がじゃまになったおひめは、村役人と共謀して夫を殺してしまいました。
しかも、村役人は素知らぬ顔をして殺害の実地見聞を行い、残酷無比な夜盗の仕業と決着させたのでございます。

 弔いが済むとまだ喪も開けないのにおひめは村役人の屋敷に移り、お内儀に収まったのです。

 村人の口には戸は立てられません。
亡父や亡夫の供養もろくにせず、近在の若い衆ととかく色事の多かったおひめです。
怪しまれたり、嫉まれたりしたのでしょう、事件は市川の代官所の耳に入りました。

 おひめは代官所のお白州で厳しい取り調べを受け、折檻も受けてとうとう顛末を自白したのでございます。

 おひめは甘利十余郷引き回しの上、磔の刑になったのですが、引き回しの途中、自分の貧家の前を、俗に「おひめ屋敷」と呼ばれておりましたが、通りがかり末期の願いで馬から下ろしてもらったそうです。
貧しく善良な夫殺しを悔いたのでしょうか、おひめは庭先の大石にしがみついて泣き伏し、片袖を引きちぎって屋敷の前の川へ投げ込んだそうです。

 その場所と言われるところには、大石が残り、川にかかった土橋をおひめ橋と言い、作っていた田を「おひめ田」と呼んで誰も近づかないので荒れ果てて藪になってしまったそうでございます。

 村ではおひめの出の韮崎との縁組みを嫌う風潮もあったということでございます。(韮崎市)







2008/10/24 20:35:55|ちょっと昔のこと
時間
 一日が三十六時間あればいいと思っていた。
眠る時間が惜しかった。
そうすれば、本もたっぷり読めるし、身体も動かせる。
友達と話せるし、映画・音楽にも十分浸れる。
勉強だって(!)もっとしっかりできるんじゃないか。

 そこで僕は一日三十六時間制を決行した。
具体的には、三日を二日で生きるということだ。
高校を出て、まだ大学生になってもいず、東京の場末で下宿をしていた時だ。

 七十二時間に二度寝るという綿密な「二日分の」生活の計画を立てた。
が、困ったのは、世間の大方は二十四時間の中で動いており、こちらの生活時間帯に合わせてなどくれないことだ。
予備校はこの間に三度行かねばならない。
コンビニなんてものもない頃だったし、銭湯も午後三時に始まり、夜の十時には終わってしまう。
最初微妙に、次第に大幅に、こちらの一日と世間の一日とはずれてくるのである。
一か月もたつうちに、僕はあり合わせのものを食べたり食べ(られ)なかったり、予備校にも行ったり行か(け)なかったりするようになった。
常時、睡眠不足から来る頭痛がした。

 ある日、友人が下宿にすっ飛んできた。
「おまえからの葉書は緑で書かれているし、内容も意味不明だし、心配になったんだ」
と言う。
僕としては、緑のインクはお酒落のつもりだし、書いたのは詩のつもりだった。
怖くなった僕は、その晩、「普通に」夕食をとり、「普通に」寝た。
目が覚めたのは三十六時問後だった。
その間にもなぜかちゃぶ台の上の食パンは減っていた。

 僕は痛感した。
幸か不幸か一日は二十四時間に決められている。
内訳は人に決められている部分と自分で決められる部分から成る。
後者が足りない、短いと感じるのは自分のせいなのではないか。
いや、「人に決められている」と思い込んでいる時間も含めて、自分が二十四時間をどう濃密に「生きているか(いない)の問題ではなかったのか、と。

 でも、正直にいうと、今でも一日が三十六時間あればいいとは思っているけれど……。(福岡哲司・平成16年3月1日・甲府東高校「蒼龍」)
写真;愛宕山から甲府市街の夕景









2008/10/24 20:26:22|ちょっと昔のこと
カーチャンのこと
 Kくんは自分のことをいつも
「カーチャン」
と言っていた。
名前がカズタカだからだ。
女の子みたいで変だとみんな思っていたけれど、Kくんは
「カーチャン」
を止めなかった。

 Kくんのおとうさんは大学教授だった。
色白の坊ちゃん刈りで、小学校のうちは背もそんなに大きくなかったから、学年が進むに連れて、ますます「カーチャン」は変だと思ったけれど、Kくんならしょうがないかと、みんな思っていた。

 高校になったら、表向きKくんもさすがに
「カーチャン」
という一人称は止めていたはずである。

 ある日、よその中学から来た男子が、
「あいつにはチンポコあるのか。便所で見よう」
などと言っていた。
僕はどきんとしてそれは止めた方がいいと思った。
けれども、それを聞いて、初めてKくんにチンポコがあるのかどうか、僕は初めて気になった。
小学校の時のことを思うとなかったはずはない。
けれど、あるかと言われてみると、「もちろんある」とは言いづらい。
「むりやり脱がしちゃえ」
なんて言う奴もいた。そ
れは絶対止めた方がいいと、僕は思った。

その頃以後のカーチャンのことは、僕は知らない。(福岡哲司)
写真:大正2年にでき、今も現役の中区(ちゅうく)配水池(甲府市愛宕町)