 仏陀の事跡や人となりは断片的な言い伝えを修正し編纂した諸種の「仏伝」によってほほ知ることができる。 もちろん「仏伝」がどこまで歴史的事実を伝えているのかはつまびらかでないが、仏陀の「人間的」魅力はそこからも存分に汲み取れるように思う。
多くの学者がすでに語っているように、仏陀を一言で形容すれば、何よりも人類の偉大な教師の一人だったということだ。
仏陀はまず政治家ではない。
以前から通念となっていたカースト(階級)の区別を彼は無視した。 仏教教団では身分階層の別は問題でなく、何人も平等だった。 これは学問も祭祀も最上位のバラモン階級にのみ掌握され、それ以外の者はタッチできないという階級観念とは明らかに異なる。
けれども、ゴータマは社会改革を行い階級差別撤廃の運動を起こしたわけではない。 人生の究極的な第一義の前に立つ限り人間は平等だ、と彼は唱えたのである。
政治はクシャトリア(王族)の手に委ねられており、出家はむしろ政治に興味を持つべきではないとした。 仏陀は孔子のように、政治のアドバイザーでさえもなかった。
また、仏陀は哲学者でもなかった。
彼の言葉や行動が理知的であることは確かだが、彼は、それを理論として組織づけ、体系づけるという意味における哲学者ではなかった。 むしろ、彼の態度はフィロソフィ(知ることを愛する)という「哲学」の原義に近かったと言えるかも知れない。 一冊の著作も残さず、「哲学者的」ではあるが、哲学者ではないという点で、仏陀はソクラテスに似ている。
仏陀はまた、いわゆる「宗教家的」なタイプの人でもなかった。
彼自身の行動にシャーマニスティックな神がかり状態が皆無であることは当然のことである。 また、周囲の人々も、彼を神と人との媒介者であるというような目では決して見ていなかったようだ。
彼は神の意思を語り、その恩寵と罰とを説くという意味における予言者的な宗教家でもない。
創造主、救済主、律法者、俗世の破壊者などの性格を保有した「神」の存在を認め、その啓示を人間に伝えることが、宗教的だと呼ばれるのなら、彼はむしろ無神論的だと言ってもいい。
仏陀は殉教者でもない。
悲劇的な事象が皆無ではなかったにもせよ、彼の一生はおおむね平穏だったと言えるだろう。 自分でも語ったとおり、彼は細々と目立たず生き続け、けれども、確かに彼岸に通じる「古仙人の道」を発見し、そこを歩む者だった。
彼が神格化され、超人的にとらえられるようになったのは数世紀も後のことである。 同時代、あるいはこれに続く時代の「仏伝」の作者たちも、彼を、非凡な「人間」、すぐれた先達として以上には考えてはいなかった。
彼の性格は、数々の「仏伝」の伝えるように、温和で包容的だった。 これは彼の貴族としての出自によるものかも知れない。 多くの仏像に見られる「施無畏」(畏るるなかれ)の印に象徴されるように、人々は彼に会い、共にいるだけで温かさと安心を感じたという。 つまり、彼は人々が自己の全存在を託し、安堵を感じ得る対象−「帰依処」であったのである。
彼は饒舌を弄し、あくまで相手を説伏せずにはおかないというタイプでもない。
むしろ、静寂を守り、相手の質問にも答えず沈黙を続けたことも多かった。 答えることで却って相手の誤解や迷いを助長し、何の利益も与えないことを恐れたからである。
悟りを開いた当初の仏陀に、説法をためらうような、否定するかような、否定するかのような姿勢が見られたのも、ここに由来するのだろう。
H・ベックは、
仏陀の場合は何を語ったかよりも何について語らなかったかの方に重要性がある、
と述べている。
仏陀はまた、相手に応じて法を説く才能があったとも言われている。
「応病与薬」とか「対機説法」と言われるのはこれである。 常識の高い知識階級にたいしては、彼は論理的なことばを用いて語りかけた。 そうでない者には、具体的で巧みな比喩や逸話に彩られた話を多用したと言われる。 仏陀は自分に向かって自分と同じ言葉で話している、と聞く者に感じさせたという。
また、時にはまったく言葉によらない「説法」も行った。
言葉によらない説法、それは仏陀の全人格からほとばしる説法とも言える。 前にも述べたように、黙して語らなかったこともある。 相手の体を動かすだけ、行動させるだけで導いたこともあるようだ。
赤子を亡くした母親の悩みを聞いた仏陀は、彼女に芥子の実を二三粒貰ってくるよう指示する。 ただし、「いままで死者を出したことのない家から」という条件づきである。 仏陀による奇跡を願う彼女は、村中の家々をたずね回る。 その結果、どの家も「死」と無縁でないことを悟る。 死んだ赤子が生き返ったわけではないが、半狂乱だった心境は鎮静し、彼女はすがすがしい気分を得ていた。
十歳の我が子ラーフラが、遺産相続を仏陀に求めた際、彼はただちにラーフラを森に伴い、剃髪し出家させた話も伝わっている。 これは、子供に残すべき自分の「遺産」とは「法」でしかない、という仏陀の不退転の意思を示したものだろう。
峻厳さは自己に対しても変わらず、弟子たちに向かい、自分を尊敬する余り自分の発言をうのみにしてはならない、試金石にかけるよう吟味せよ、とも語っている。
このような仏陀自身の性格は、ある点において宗教らしくない宗教であり、それが却って魅力にもなっている仏教にも反映しているよう思えてならない。
仏教には一度も宗教戦争らしきものがなかった。
仏教はあくまでもそれ自体が平和な精神生活、態度として、人々に受け取られていた。 悪く言えば微温的であり、一方で極めて包容性、寛容性に富む宗教だった。
前にも述べたが、本来の仏教には宗教教団によく見られる中央集権的な階級制はなかった。
親鸞の「御同朋」にも似た「四方僧」の考え方は原始仏教にもあった。 地域や階級や長幼にとらわれず、あらゆる四方の者は全て同一資格で「僧伽サンガ」に属した。
僧伽は強力な統率者も持たなかった。
仏陀が臨終に際して教えたように、「己のみがともしび」であった。 比丘たちは各々自ら信ずる「法」により、仏陀の跡を追おうと努めた。 権威を認めるとすれば「法ダールマ」だけであり、歴史に残る一個人などではない。 いわば、各々が誠実な道を行くことのみがルールであった。 厳しい罰則を伴うドグマや世界を支配する神が信徒の頭上からのしかかっていたわけでもない。
中央から何の統率も受けない各地の比丘教団が、アショーカ王の時代には一八〜二〇部派に分かれていたという。 これは争論の結果や相違からというより、仏教の根本的な在り方を反映していたと言える。
また、比丘の組織以上に俗人の信徒の団体は自由だった。 仏陀は、改宗の必要もない、各々の信仰をそのまま続けて構わぬとまで言った。 ただ、人としての誠実な道、奉仕(布施)、非暴力というような簡単な戒律を守ることのみが、信徒には求められた。
このような個々人に根ざした仏教教団の紐帯は一見ルーズなようだが、コーンズの言うように人類最古、最長の「団体」であった。 現在に至るまで、多様な現れを容認する仏教は、仏陀という偉大な教師の下に存在した素晴らしいスクールだったと言えるだろう。(1988) 写真:ローカヤスターラーム寺院(タイ)
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