新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2008/10/24 20:04:14|文学
小説『山彦乙女』と甘利山界隈(かいわい)
 かなり昔のことである。山本周五郎の小説『山彦乙女』の伝奇的な(ロマンティックな)世界に魅せられて甘利山の麓を歩いた。

 武田橋を渡ったところのバス停留所に「御堂入口」の文字を見い出した途端、私の胸に迫って来るものがあった。
韮崎西中学校の方へ歩いて行くと「御堂橋」。「御堂」の字(あざ)名はこの辺りに残っていたのである。
そこから山を目指して登れば武田太郎信義の墓のある願成(がんじょう)寺、さらにのして行けば武田八幡宮。

 『山彦乙女』では、甘利の麓の「みどう屋敷」を本拠に、武田家の再興を願って幕閣にまで工作を続ける「みどう一族」が暗躍する。
彼らの統率者が「みどう清左衛門」。

 そばへ寄ると人も獣も呑みこまれてしまう椹(さわら)池。
甲冑武者の亡霊(?)の行軍する甘利谷。
彼らが毎年四月十一日の「恵林寺様」の命日に一族の誓いを新たにする八幡宮の薪能(たきぎのう)。
そこでは美貌の姉娘・登世がかがり火に照らされて狂信的なアジテーションを行う。
財宝の入った石棺を納めた伏岩の大崩落の中、自然児である妹娘・花世(山彦乙女)と主人公の安倍半之助は生還し、「法王山」のまばゆい光に包まれる。

 「御堂入口」の標識は私には異界への「入口」だった。
私はさながら甘利山に憑(つ)かれた半之助であり、この山中に正気を失い、失踪した叔父・遠藤兵庫と同類だった。
祖父も父もこの地に生まれ育った作者山本周五郎も、甘利山の毒気に当てられた一人だろう。

 その時以来、何度かこの山裾を歩いているが、甘利山はいつも雨上がりの雲がかかって一度も全貌を見せてくれなかったことに、今、私は気づいた。
また、椹池は春夏秋冬、いつ訪れても、私には不可思議で不気味な池であることには変わりはない。
それは『甲斐国志』や柳田国男の『山島民譚(みんたん)集』に収められた毒蛇伝説のせいばかりではないだろう。

 周五郎がその長屋で呱呱(ここ)の声を上げた大月市初狩の奥脇家も「みどう」と呼ばれていたという。
小説では、近づく者は生きて帰れないとされる「かんば沢」の地名は初狩にある。

山寺仁太郎著『甘利山』

 甘利山ないしはその周辺への哀惜の念の深いことこの一書に如(し)くものはない。
山寺氏が同人誌「中央線」に昭和四十三年から同六十一年まで掲載した、大正末から昭和の終わりまでの見聞記である。
氏はこの麓に生まれ、醤油屋を営みつつ、朝な夕なこの山を眺めて暮らす。
日本山岳会員で地元の白鳳山岳会顧問だから、百回いや二百回以上も入山し、臥し、動植物から地名、伝承、ゆかりの人々まで飄逸な筆で描き出すこと氏の座談にも通じる。
氏は嘆息する。
甘利山中から妖気、鬼気というものが散じ去って既に久しい。ロマンやファンタジーを感じなくなったという人も多い。かつて甘利山に対して感じ持った豊かな精神は、大幅に衰弱してきていると言わざるを得ない。」(福岡哲司)
(二〇〇一年・山梨日日新聞社刊)
写真:椹池(さわらいけ)








温泉の実用性
 かつて小さな広報誌に文学散歩を兼ねて山梨の温泉巡りを三年ほども連載していたことがある。
その時、素朴なのから豪華なのまで、山梨にはずいぶん温泉(鉱泉)があるなと改めて気づかされたものである。
世の中は温泉ブームというか秘湯ブームでとんでもない山奥の鉱泉まで都会の車が入り込み始めていた。
同時に市町村が競うように公営温泉を作り始め、これまた地元の人間より都会の人間に占拠される状況が生まれてきていた。
今になってみると、泉室や施設、衛生面などで大分淘汰されてきたが、それでも、「露天」「秘湯」と言えば、週末などには相変わらず都会の人間が押しかけているようだ。

 僕自身、温泉巡りを連載していた頃から無為の時間を過ごす贅沢に目覚めて、ブームなどというのと関わりなく、時折は温泉に行くようになった。
無為と言ったが、僕にとっては、温泉に行くことが必要だから行くという風になってきた。
そうするとその必要性に合致した行きつけの温泉というのができる。
大概は人気のない、数百円の、湯温の低い温泉である。
人が詰めかけ始めると、もう、僕は別の所を探し始める。
僕が温泉に求めるものと違ってきてしまうからだ。

 しばらく甲州街道の笹子トンネル出口の笹子鉱泉に行っていた。
「あそこはやっているの?」
などという人が多いくらい、目立たない道ばたの沸かし鉱泉である。
林業と食堂をやっている主が道楽でやっているような鉱泉である。

 午後も早い時間には滅多に人がいたことがないから、川の水を多く入れて極端にぬるくして、ゆっくり、一時間以上も浸かっている。
時に、たばこを吸いに縁側に出たり、はなはだ尾籠な話だが、トイレに行って、また、入り直したりしていた。

 遅くなっても、一緒になるのは、脚の悪い近所のおじいさんとか、たまに国道工事の出稼ぎに来ているおじさんとか、そんなものだ。
四人も浸かれば、今日は混んでいるなと思えるほど小さい湯船だし、真っ暗な廊下はトイレの臭いがする。
けれども、僕はマウンテンバイクで肩の骨をくじいたリハビリのために通い始め、その後は、ひたすら湯に浸かってとつおいついろんなことを考えるために、せっせと通った。
夕刻、あるいはちょっと前から仕事を切り上げて、甲府から片道五十分かけて……。

 ここに最近行かなくなったのは、さすがに遠すぎて面倒くさいのと、ほかならぬオレンジ色の鉄鉱泉が、僕の肌には刺激が強いらしいと分かったからだ。
ここについて書いたものは拙著『遠い散歩近い旅・山梨文学散歩』(山梨ふるさと文庫)にも収めたことがある。

 次に通い始めたのは、甲州市塩山の笛吹川温泉だ。
笹子よりもっと近くて、自分勝手に入れる温泉がないかと探す気持ちでいたところ、サンニチ印刷のデザイナーの石田さんに教えられてやみつきになった。
雁坂みちの文学、歴史を取材して回った時のことだ。

 ここはさすがに湯温まで自分勝手にするわけにはいかないが、ぬるいより冷たいくらいの露天に一時間半も浸かって、一眠りさえできることが気に入った。
ここも広い露天だから、同時に五人もいることは滅多にない。

 湯から出て、大広間でモツ煮込みなんかをつつきながら地ビールを飲んで一眠りするのもよかった。
このところちょっとさぼっているのは、ここでは僕は露天しか入らないのだが、その露天風呂が、最近、湯温といい、泉質といい、ちょっと気にそぐわなくなっているからだ。

 夏になると北杜市の増富の湯へしばしば行った。
ここの源泉は冷たいけれど日本有数のラジウム鉱泉の湯治場で有名で、体中に細かい泡をくっつけて一時間以上浸かる入浴法が普通だった。
街はずれにできた町営のここは新しくモダンで、明るいし、何より清潔なのが気に入った。
東京近辺から来る人も増えて、ずいぶん混み合っていることが多い。
時間の割合でいうと、二十九度の冷泉に一、ちょっと加温した、体温と同じくらいの湯に二の割合で一時間以上も浸かって、寒くなってサウナに入る。
ここも甲府から一時間以上かかるが、半日ぐらい時間があれば通っていた。
さすがに、雪の季節になって、昔、路肩の雪の塊(氷の塊)で車をつぶしたこともあるから、このところは行かないでいる。
春になったら、また、通うだろう。

 冬は甲府北部の積翠寺温泉要害に通くこともあった。
甲府盆地の底が逆三角形に覗き、そこに灯りが点り始めるのを眺めたり、傍らの山の尾根の梢の向こうの空が昏れるの見つめつつ、よしずの屋根の下で、ぬるぬるする檜の桶に浸かっているのはよかった。
ここの湯はぬるくはないから、一時間も浸かったり、居眠りしたりというわけにはいかなかったが、頭の神経とともに体中の筋が延びる気がする。
ここは僕にとって、緊急避難的な温泉である。
けれども、最近では塩素の匂いが少々強くて興ざめすることもある。

 最近見つけて、通ってみたい温泉をみつけたが、もう少し通ってみての話にしよう。

 結局、僕にとっての温泉の必要性は、しごく実用的なものである。
とは言え、温泉で何をするわけでもない。
ただ湯に浸かって、心身の痛みの療治、一時的な追憶、甘美な悔恨、果たされなかった妄想の数々に浸かる……そんなところだ。
これが時折必要になる。
もちろん、その温泉の光景にはグルメも佳人も登場しない。
少なくとも、うつつの姿としては。(福岡哲司 二〇〇三.二.二四山梨厚生病院にて)
写真:金山有井館(現山梨県北杜市須玉町)







初めての山岳部顧問
 学校の運動部の顧問というのは、強くしようと考えて一生懸命やればのはなしだが、どんな種目でもいうにいわれぬほど大変である。

 教員になってみたら、いきなり山岳部の顧問につけられた。
学生時代、徒歩旅行や山歩きはさんざんやったものの、本格的な登山というのは門外漢である。
登山の装備と言えるほどのものもなく、せいぜいキャラバン・シューズに灯油のラジウス、ウインド・パーカーくらいはあった。

 「それでもいいのか」
と生徒会主任に聞いたら
「問題ない」
と言う。
新採用の男性教員が来たら、誰であれ山岳部の顧問にしようとかねがね計画していたらしいのである。
このところ、大会のたびに比較的若手の教員が交代で生徒を引率していたようで、専属と言える顧問はいないに等しかった。

 五月になると県の高校総合体育大会があって、そのための顧問会議が開かれた。
二泊三日で南アルプス連峰の鳳凰三山を衷心に実施するという。
実施要項案では、私の役目は「SL」となっていて、その上には「CL」という人がいた。
どういう役目かと思っていたら「サブリーダー」と言うらしいと知った。
「CL」は「チーフリーダー」で高体連山岳部門のベテラン顧問であるらしい。
私は内心大いに戸惑ったが、大学出たてで正顧問になって乗り込んできたのだから、おそらく山岳部やワンダーフォーゲル部の経験があるに違いないと勘違いされたようである。
組織には必ず古株の人間やそこを牛耳っている一群の人々がいる。
今更、
「私には無理です」
とは言えなかった。
業務内容もよく分かっていなかったのだ。これが大汗をかく発端だった。

 各校は大会前にたいてい同じコースで「予行登山」を行う。
私も慌ててアタック・ザックやニッカー・ボッカーを買い込んで、生徒に促されるまま「予行登山」に出かけた。
もちろん体力的に楽ではなかったが、それでもコースの上り下りやら、幕営地の状況など把握できて、大会も何とかできそうな気がしてきた。

 当日がやってきた。
総合体育大会は、山梨の場合、関東大会やインタハイの予選を兼ねた競技登山である。
だから、様々な局面で「採点」を行う。

 まず、入山する前の最寄りの駅前や適当な広場でザックを机代わりに各校五名の選手全員によるペーパーテストである。
気象、地形その他「登山教本」にあるような基本事項についてである。
ほかにも個人や共同の装備についてもチェック、採点を行う。

 次いで、山を登りながら沢が入り組んでいたり、見通しの悪いところで全隊の登攀を一時的に停め、「現在地を地図上にマークせよ」と指示をするのである。

 これらの採点をすることがSLの大事な業務であるらしい。
自校の生徒が私のことを心配そうに眺めている。
ペーパーテストは出題者の模範解答もある。
装備の採点は共同で実施する。
問題は、行き当たりばったりに課した読図のテストである。
紛らわしいところだからテストになるわけだし、全体が登山路に一列に延びているのだから、学校により「現在地」は微妙にずれているはずである。
私は、仕方がないから、このところ上位に入っているらしい数校を先に採点して見当をつけてから残りの学校を採点して間に合わせた。

 採点はこれだけには終わらない。
登山中の行動や体力、言ってみればバテ具合や装備の緩みや燃料漏れ、リーダーシップ、メンバーシップ等々である。
これは私一人で行う訳ではなく、複数の顧問が担当している。
それまで自校の生徒チームの末尾について一緒に登っているのだが、採点ポイントが近づくや採点係は全隊の先頭まで登山路を駆け上がる。
そこで通過して行く各校を採点していく訳だ。
これは三日間に数回行われる。

 幕営地に着けば着いたで、テントの張り方や周囲の環境整備、食事の準備の手際……の採点が引き続く。

 これらを続けて優勝。準優勝……が決定する。

 安全性や登山技術の向上のためには必要なことかも知れないが、私はいささか懐疑的になっていた。
「山男」でありながら「学校登山」の顧問を引き受けない人がいるが、ある部分、私と同様の感想を持っていたのではないかと、私は想像した。
関東大会などへ行ってみると、県によっては、
「選抜でなく順番で参加しています」
というところもあって拍子抜けしたものである。

 ともかく、初めての総合体育大会では私の学校は男女とも三位に入賞して関東大会に進出した。
私がSLをやらされていたお情けかと思っていたら、このところいつも上位に入賞しているのだという。
さらにショックなことも知った。
幕営地の炊事の際、私は山小屋の顧問の群れに交じっているのが嫌で、作業をしている生徒の傍らで談笑していた。
成績発表で知ったのだが、この私の行動が「生徒に助言を与える」という禁止事項に抵触して減点になったというのである。
私は憤慨もし、無知のこととは言え、それさえなければさらに上位に入賞したかも知れないと、生徒に済まなく思ったことである。

 ちなみに、それ以後、私にSLは廻ってこなかった。
インタハイを地元で開催した際、北岳班の班長を「拝命」するまでは……。(福岡哲司)
写真:瑞牆山







揚げ物怖い
 学生時代のある時期、大学へも行かず、ユースホステルで飯炊きばかりやっていた。

 来る日も来る日もキャベツを三玉も四玉も千切りにし続け、オーナーの家のおばあちゃんの指図で揚げ物を上げ続けた。
ちくわやらアジのフライ、コーンのかき揚げなんかである。
また、別のユースホステルでは、夕食は毎夜きまってボリュームたっぷりのトンカツだったから、やはり連日トンカツを何十枚も揚げ続けていた。

 揚げ物は若いホステラー(ユースホステルの宿泊者)には人気が高い。
けれども、煮えたぎった油の前で何十枚とフライだとかカツだとかを揚げている方としてはかなり辛い仕事であった。
油に酔ったようになってしまって、自分からは決して食べたいとは思わなくなるものである。
お茶漬けでもかっ込んでいる方がどれくらいましだったかわからない。

 戦後間もない頃に生まれた私の年代だと、トンカツをこの上ない御馳走と思っているらしい者も少なくない。
「昼飯何にしようか?」
と聞けば必ず
「トンカツ」
と答える者が時々居る。
驚いたことに毎日トンカツでもいいと言う者さえある。

 私はと言えば、ユースホステルでの連日の体験があるものだから、三十年たっても揚げ物メインの食事はさほど嬉しくないのである。
とは言え、他人にあげてやりたい気持ちには時々なる。(福岡哲司)
写真:ユースホステルのトンカツにあらず。上野の名店「ふたば」の。







「旅」を始めた頃
 一九六〇年代の終わりに大学にいた私たちの世代は、学業を全うしなかった者も少なくなかった。
ある者は赤テント、黒テントを頂点とするアングラ芝居に赴いたし、ある者は白ヘルメットにタオルの覆面で機動隊に挑みかかっていった。
その中に日本中、ひょっとすれば世界中、旅なんてものじゃない、漂泊することを選んだ者達もいた。

 色々なところに首をつっこんだ結果、当時の私は、最後の選択肢を選んだのであった。
これは学生運動という名の政治や実生活、さらにはつまらない大学の講義からの逃避でもあった。

 金も勇気もなかったから海の向こうの外国にまで行くことはなかった。
負け惜しみではなく、行く必然性も感じなかった。
五百円ほどで一泊二食のユースホステルに泊まったり、海浜や高原、田舎の駅のベンチに野宿をしたりして、土木作業のアルバイトで稼いだ金がなくなるまであちらこちらをほっつき歩いた。
家庭教師、マーケットリサーチ、コカコーラの配達、魚市場……犯罪にならない仕事はたいていやった。
その金はほとんど旅と本と喫茶店代に変わった。
極めて貧しかったが、その意味では、いわゆる「無銭旅行」ではない。
他人の釜をあてにするようなことは嫌だった。

 基本的に鈍行列車で現地まで行き、せいぜい当時「国鉄バス」と言っていたバスか、たいていは徒歩で、一日中とぼとぼ移動していた。
ヒッチハイクという他人様をあてにする旅のかたちは軽蔑していたし、してはならないと変にストイックなところもあった。
幸い卒業した高等学校には旧制中学以来の伝統で、夜通し百キロメートル以上を歩かせるという野蛮な年中行事があったせいで、一日平均二、三十キロメートルぐらいは何日間か歩けるだろうという自信はあった。
自動車を憎んでいた。
免許なんぞ一生取るもんかと思っていた。
本音は自分が自動車なんか持てるような時代が来るなんて到底思えなかったのだ。

 旅先の名所、旧跡も訪ねないことはなかったが、土地の人や暮らし以外の何かを見ることに意味があるとも思えなかった。
たいていの場合、写真なども撮りはしなかったし、撮っても現像に出しもしなかった。

 平面を移動しながら見つめていたものは、常に「自分」だった。
どこまでいっても振りはらうことの出来ない厄介な「己」とにらめっこをして歩いていたのである。
どこを旅しても同じことだったろう。

 だから、後になって旅行をしたり、テレビなんかで見た土地を、「確かにここを歩いたはずだ」と思いながら、人に話して聞かせるほどの、確かな「事実」や「知識」といえるようなものはなんら浮かんでこないのだ。
脳裏をふとよぎるのは、そこの土地だったか、よその土地だったか分からない、夢の中のような、風の蕭々と吹く踏切や寂寞とした荒磯や埃っぽい街道や奇怪な老婆のいる光景だったり、断片的でとりとめのないものが多い。
その時、その地で激しい感情に襲われり、心温まる体験もなくはなかったが、それもおそらくはおよそ自分勝手な独りよがりであり、これもいまさら人に語って共感を得られるようなものではない気がする。

 旅の上で歌を作ろうとしたことはあるが、どれもこれも「今日もまた心の鉦をうちならしうちならしつつ……」といった窪田空穂や若山牧水、種田山頭火のセンチメンタルなパロディになってしまって閉口し、すぐに諦めた。
夜など、孤独感や自己嫌悪に苛まれてメモ帳にくどくどと雑記めいたものをそこはかとなく書き留めて物狂おしくなったことは度々あったが、そんな溜息のような、反吐のような文字をもとより保存などしてあるわけがない。

 背中のリュックサック(バックパックなどという洒落たものではない、せいぜい復員兵の如きキスリングである)には、最低限の衣食住の全てを背負っていた。
ずいぶんな重量だったと思うが、当時の自分には何とか一日担いで歩けたのである。
どこで寝るか、何を食べるか、それさえ定まっていないことが多かった。

 横幅の広いキスリングを背負って北海道なんかを旅する若者を、当時週刊誌なんかでは「カニ族」と称していた。
これは自分とは違うと思っていた。
彼等の何割かはヒッチハイクするのは平気だったし、ユースホステル泊もただの「手段」で、旅の終わりの函館の港にはオレンジ色のユースホステルの会員証が秋の木の葉のように無数にうち捨てられていたという話を聞いたこともあった。

 飯盒で飯を炊いて、一袋○十円のイワシをあぶって食べたり、恵んで貰ったトマトをかじったりすることを思えば、ユースホステルで毎日アジのフライとキャベツの千切りでも何の不満もなかった。
ふかふかとは言えないし、妙な臭いもするが、夜露の心配もなくベッドに寝られるなんぞ、野宿に比べれば天国のようなものだった。

 とは言え、人の情けで取れたての鮑だとか、枝からもぎたての夏みかんだとか、年季の入った漬け物だとか、思いがけずおいしいものにありつけたこともある。
他人様から受ける「一宿一飯の恩義」の堆積はうれしかったが、どうにも重かった。
他人様に迷惑をかけたり、当てにしたりすることは御法度なのだと思っていた。

 野宿に比べればユースホステル泊は安楽だが、「みんなで仲良くゲームして、青春を歌いましょう」という、脳天気で明朗な雰囲気にはどうにも馴染めないでいた。
当時「ネクラ」という言葉はなかったが、ユースホステルに着けば、いわゆる体臭でそれと分かる「ネクラ」な一、二と、名乗り合うこともなく、いきなりぼそぼそと内面的な話に入ることが多かった。
翌朝、別れも告げずに互いに東西に別れて行くのである。
偶然、とんでもない時、とんでもない土地で彼または彼女に再会することもなくはなかったが、相変わらず名前も名乗らず、ぼそぼそといきなり抜け道も逃げ道もない話の続きを繰り返すだけだった。

 曜日も日の感覚もなく、ひたすら日常から遠ざかって行く日々だった。
金が尽きれば働くか、帰るかのどちらかだ。
九州を一か月も歩いていた時には、「ああ、俺はこのまま帰らない(帰れない)かも知れない」などとふと感じたことがあった。
世界中で乞食や観光客相手の詐欺師になったり、行方不明になったりする日本の若者が少なくないという話を耳にする。
私には彼等の状況が分からないでもない。
「なんのために」とか「国辱だ」とかいう人もいるが、そんなのじゃないのだ。
「なんとなく」帰らなく(帰れなく)なったのだ。
だらしがないし、非生産的には違いないが、それを他人がとやかくいうことでもないと思っている。
ホームレスの人たちについても同様に感じる。
野良猫や野良犬と同様、ホームレスや乞食が生きていける土地こそ好い土地なのじゃないかと思って、私は彼等の姿に共感を抱きこそすれ、嫌悪感を抱くことはない。
しかし、最初から人様のお情けを期待したり、それの薄いことを呪詛したりするのは仁義にもとると思う。

 むしろ、一泊二日とか二泊三日で酒を呑み通し呑んで、宿ではずらり従業員の出迎えを受けて、温泉や山海の珍味に文句を付けたり食べ散らかす、こんな「観光客」の方がずっと惨めだと思ってしまう。
五泊かせいぜい七、八泊でツアーと称して、観光バスという名の「護送車」で遊覧し、免税品を買いまくる海外旅行。
これも束の間、また、日常の生活や仕事に帰ることを考えれば、ずいぶんさもしい。

 「お前はそういう『旅行』をしないのか」と聞かれると困る。
私も天の邪鬼ではない。
今や、人並みに「グルメ」や豪華ホテル、老舗旅館が嫌いではない。
海外旅行も時にはしてみたいと思う。
けれども、歯切れの悪い言い訳のようだし、書生っぽい言い方だが、常にこの種の旅行は、本当の「旅」ではないと思っている。
何も「人生は旅だ」などと力むつもりはないが、あの頃「旅」先でひしひしと身を噛むように迫ってきた意識、「己」には未解決の部分が無限に多いのだという思い。
今だってこれは何にも変わっていないじゃないか。
この思いを喪失くしたら自分はおしまいだと思っている。
観光旅行、団体旅行、職場の旅行……いずれも自分にとっては「必要悪」である。
どれも、結局、自分が違和感を抱き、どこかで根本的な問題の先送りだと感じていた「明朗でみんな仲良し」的なユースホステルの超デラックス版じゃないかと、今でも私は思い続けている。(福岡哲司 二〇〇四・五)
写真:甲斐大泉あたりの菜の花畑